想い出の阪急京都線・・・②

想い出の阪急京都線・・・①より続く

⑩ エレガントな高性能車(1300・1350形)

1957(昭和32)年に京都線に投入された1300形は、920形に代表される

阪急スタイルを一新し脱阪急とさえ思わせた。

車体が全体的に丸みを帯びたデザインで、屋根の両側に沿って長い通気用のル―バ―が設置されていたのがアクセントとなっていて大変エレガントな印象を与えた。

1956(昭和31)年に高性能車と銘打った1000形が神戸線に現れたが、その姿はそれまでの阪急車とは全く趣を異にした洗練されたスタイルであった。屋根はそれまでの阪急には無かった柔らかさを感じる張り上げ仕様となっていた。更に、この高性能車は性能的にも斬新さがあって、全電動車方式の軽量化車体に加えて台車に取り付けられた小型高速度電動機の効果が期待された。その後1000形は1010形に発展し、その京都線版が1300形であったが、製造総数は16両に止まり量産には至らず、2300シリーズの量産車が次に続く事となった。
写真:1302他 京都行通勤特急(1962.8.15.総持寺)


部品の有効利用(1600・1650形)
P6で運用される急行電車の編成替えが実施された時、車両の需給関係からMc車に余剰が生じたため、1957(昭和32)年~1960 (昭和35)年にMc車を電装解除の上Tc化改造する事となった。
この時発生したP6の電動機などの余剰部品を再利用する事が考えられ、1300形の増備的見地から車体のみを新製した1600形が生まれた。

 

従って、この1600形は車体外見上は1300形との見分けがつかず、台車については複雑な使い回しがあって遠目での識別は難しかった。
1957(昭和32)年~1960(昭和35)年に全12両が製作された。

 

写真上:1605(1963.8.18. 千里山)
写真上:1602(1962.4.28. 高槻市)

 

⑫ P6を追放した量産車(2300・2330・2350・2380形)

京都線には無くてはならないP6は長きに亘って大活躍したが、1927(昭和2)年以来の力走にも限界があって、1960(昭和35)年には代替車の出現となった。

1300形、1600形で実績を積んだ高性能車の実力は、その量産形とも言うべき2300形一族で結実し、京都線の主力として70数両の多きを占めたP6の肩代わりに全78両が投入された。

この2300形シリーズは1300形、1600形の上品でエレガントな阪急マル―ンの良く似合う姿とはかけ離れたスタイルで、折目の付いた丸みの無い正面に加えて幌枠や窓に目立つ銀色が、エネルギッシュなデザインであった。

以後のP6は2300形一族によって支線の嵐山線や千里線に追いやられ、1973(昭和48)年には運用を終わった。

写真上:2354他(1962.8.15.総持寺)
写真下:2362他の新マークに変った上り特急

 

⑬ 新幹線の露払い?

東海道新幹線の開業前に新幹線上を阪急電車が営業運転で走り、或る時期『新幹線が阪急京都線だった』と言う大変珍しい事態が発生した。

これは、京都線の上牧より約1Km大阪寄りにある梶原地区から大山崎直前までの約4Km弱の区間で新幹線が京都線に張り付いて築堤高架で建設される事に成ったための対応策であった。

地平走行だった京都線では見通しなどの安全面に加えて、この区間の地盤が比較的悪いため新幹線の盛土築堤による地盤沈下が懸念されたため京都線も築堤高架に変更する事となったものだった。

工事の手順上、新幹線の築堤を先に完成させた後、開業前の新幹線上に軌間1435mmのレールと架線を敷設した上、新幹線との接続部には特設の渡り線を設置し、更に水無瀬、上牧に仮設ホームを設置して京都線を移し、新幹線の開業までに京都線の築堤高架化を行うものであった。

このため1964(昭和39)年10月1日に新幹線が開業する前年の1963(昭和38)年4月24日から年末までの約8カ月に亘って京都線は新幹線上を行き来した。

従ってこの区間を50tの重量級だったデイが地固めを行った事となり、それは正しく新幹線の露払い役を務めた事となった。

写真上:大阪方面に向って左が新幹線乗入れ下り線、右が未だ使用中の阪急上り線(1963.5.5.大山崎)

写真下:新幹線上を行く1518後部の下り電車・大阪方面を望む(1963.5.5.上牧)

 

⑭ 特急の2枚看板

京都線の特急電車は神戸線のそれとは違って、『特急』のヘッドマークを2枚掲げていたのが特徴であった。

神戸線では円形の特急表示を運転席窓下に1枚掲出していたのに対して、京都線では『特急』マークを助手席側を含めて前面左右に1枚づつ合計2枚掲出していた。

 

その理由は不明だが、十三~梅田間に京都線特急が進出した際には宝塚線に乗り入れたが、神戸線等の特急との誤乗防止の観点から識別し易いようにした措置とも思われた。

なお、この『特急』ヘッドマークのデザインは両線とも縦書きであったが、京都線が1963(昭和38)年6月に四条河原町まで延伸したのと時を同じくして横書きに変った。縦書き・横書き両時代を通して京都線と神戸線では区間表示こそ違っていたが、全く同じデザインを採用していた。
筆者が京都線沿線に転居して初めてこの2枚看板を目撃した時、『何かの間違い?』と大変奇異に感じた記憶がある。それまでの経験では今で言うイベント電車以外では2枚看板を見た事が無かったため、その真意を測りかねたものだ。

写真:特急の『2枚看板』・横書きに変更後(1962.8.15.総持寺)

 

⑮ ワクワクした貨物電車(4000形)

通常、工事用貨車や救援車は営業線上で見かける機会は無かったが、貨物電車には遭遇する事が比較的多く有り、その真っ黒な車体と特異な形状にワクワクしたものである。

当時の京都線には4001と4002の貨物電車が在籍していて、共に真っ黒な車体で、P6などの圧倒的に多い茶色の中で目立った存在であった。

そのスタイルは凹形の無蓋車だったが、4001については荷台にクレーンがあり、運転室はその巾を縮小してレール等の長尺物を積載できるよう前後方向の床長さを確保していた。このため、巾を縮めた運転室は縦長の箱に似た形となり、当時街中で見かけた公衆電話ボックスを思わせた。

写真上:4001(1963.7.18.桂)
写真下:4002(1963.7.17.桂)


⑯ 悲願の京都中心部乗入れ

昭和30年代の京都線では新幹線と絡んだ高架工事と京都の中心である四条河原町への乗入れが大きな出来事であった。
前者は或る意味『突然』であったが、後者については開業以来の『悲願』であった。

1931(昭和6)年3月の四条大宮への乗入れ以降、1963(昭和38)年6月に四条河原町への延伸が実現するまで何と30年以上かかったが、その明確な理由は聞こえて来なかった。

この終着駅は行き止まり式だったが、四条通りは名立たる繁華街であり、更に古都であるがために地下でも道幅以上の幅員の確保が難しく、折返し電車の収容線の数には自ずと限界があった。このため、一面しか取れなかったホームには苦肉の策が施されており、多少幅広のホームの下り(大阪)方面先端部を切り欠き、短編成の普通車を収容するようにしており、その両側に夫々特急と急行のホームを持った構造で、合わせて3本の電車が収容できた。

写真:河原町駅普通車ホーム 右奥に急行ホームがあリ左奥には特急ホームがある(1963.7.17.)

参考資料:鉄道ピクトリアル各巻各号(鉄道図書刊行会)
阪急電車(JTBパブリッシング)

 

 

想い出の阪急京都線・・・②」への10件のフィードバック

  1. 懐かしい京都線の各車両については当会にもお詳しい方が居られますので、小生は例によって無くもがなの想い出をコメントします。
    P6は母の帰省時に当時の大宮駅から梅田まで随分乗りました。当初は急行しかなかったと思いますが、大宮地下駅の近代的?な雰囲気(改札からホームへ至る地下通路の天井は極めて低く、地下要塞にでも行くような感じで怖かった)が楽しみでした。線路上の地下鉄仕様のコンパウウドカテナリー架線が珍しく、電車が来るまで見入っていました。これは河原町延伸時も同様架線で、当時既に主流だった剛体架線ではなかったのが珍しかったですね。駅は現在と同じく2面2線でしたから、折返し用の線路がそのまま堀川通り辺りまで延びていて、折返し電車からホームに漂ってくるほのかなグリースの匂いと、P6特有のブーンというやや大きめのMGの唸りに酔いしれたものでした。十三の手前の無電区間とその先の加速の悪さ、淀川橋梁通過時に見た魚の飛び跳ねを今でもハッキリ覚えています。通る度に水面を覗いていますが、つい最近も飛び跳ねを目撃しました。
    2300は以前にも書きましたが特急で新幹線線路を通過しています。線路が固まっておらず、ふらつきながら低速で走ったのでガッカリしたものです。この2300はオートカーを名乗っていましたが、新聞に新造構想が載った時に、それを読んだ母が将来は人間の仕事が無くなるかもしれない、しっかり勉強せいと云いましたね。それを聞いて根拠もなく人にしかできない仕事もあると反論しましたが、最近の技術を見ていると、近未来に本当にそういう時代が来るのではと不安を感じることがあります。
    710、1600は就職直後に帰宅時の急行でよく乗りました。その豪快な釣掛け音も耳について忘れることはありません。月一位の割でP6や1300が入ることもありましたね。
    河原町駅の線路とホーム配置は2ヶ月前に開通した京阪淀屋橋駅と同じで、地上の道路幅しか工事区域を確保できない共通の事情からでした。

  2. 1969年3月2日、河原町駅、P-6の急行です。
    当時、昼間の急行は、9運用あったと思いますが、P-6も1~3本(2本のことが多かった)運用に入り、豪快な走り見せてくれていました。

    • 藤本哲男様
      P-6の6連、カッコイイですネ。
      「小生の時代」は (……と先ず「お断り」をしないと、私鉄は短い時代や期間で変化が小刻みに多く、小生の様な老人が古い昔の事を「得々と語って」も「?」や「間違ってる」の誹りを受けざるを得ません)・・・で、「我々の時代」最長は4連が常識でしたので、この写真にはP-6のダダだ~ッと「地響き?」を伴う迫力を感じます。
      何時も乍ら、貴殿の精力的な撮影に感心しながら小生は「脱帽」で~す。 (河 昭一郎)

  3. 1969年10月15日、長岡天神~大山崎間、本線上に停車してバラストを降ろしている4002です。当時、特急、急行、普通が各15分間隔で運転されており、結構過密ダイヤの中で、よくやっていたなあと思います。

  4. 1969年2月4日、西京極~桂間、1604先頭の梅田行、急行です。
    車体の軽量化効果がよく判る車両で、速度計が120km/hを指すのをしばしば目撃しました。

  5. 最末期、嵐山線での1600です。1300と違い非冷房のままだったので最後まで優美な屋根の形状が残っていました。写真は昭和58年6月の上桂ー松尾

  6. 1300形、梅田駅京都線地上ホームに入線する時のカットです。昭和46(1971)年4月18日撮影です。千里線の運用でしたから、2編成ー1両中間車の7両編成だったかも知れません。当時京都線の各駅停車は河原町~十三間でした。

    • 懐かしい旧梅田駅ですね。
      33パーミルの急勾配での入駅を思い出します。
      京都線はこの時から2年後に今の梅田駅に移転しましたから、とても貴重な写真ですね。
      丁度、運転士見習時代ででした。
      左側の電車は2300の河原町行き急行かな?
      1300は見た目と違って、電制の加減が強く、とても止めにくい電車でした。

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