【90622】阪急京都線ファンだった、故羽村 宏先輩を偲んで

準特急さんの力作編『豪快に走り去った阪急710形』を読んで、ふと、当会の先輩である、故羽村 宏さんの作品掲載誌のことを思い出しました。それは、『関西の鉄道』第20号(1989年1月20日発行)に、乙訓の老人が中心になり寄稿した故羽村 宏さんの作品と共に、羽村さんを偲ぶ一文であります。

また準特急さんが先述作品のコメント蘭で述べられています。ピク誌663臨時増刊号(1998年12月)の『特集阪急電鉄』に羽村さん他DRFCメンバー撮影の写真が掲載されていたと。そうすると都合3度目になるようですが、デジ青には初めてです。

故羽村 宏さんの作品と羽村さんを偲ぶ一文を、乙訓の老人の許可を得て投稿します。なお作品は原画でなく、一文と共に『関西の鉄道』誌面のコピーです。画質が多少粗いようです。また画像の傾きなどは修正しておりません。表記も誌の通りです。

▼710系712+762の特急 高槻市 1956(昭和31)年7月
▼710系715+765ほか4連の特急 桂 1957(昭和32)年4月
▼梅田付近を快走する710系714+764 1957(昭和32)年4月

▼特急で快走する1300系 1302+1351+1301 長岡天神 1957(昭和32)年4月
▼上半オレンジ、下半マルーンの装いに、銀色の帯を締めて活躍の116+1511
高槻市 1951(昭和26)年6月6日
▼マルーン一色の塗装になり、窓上下に銀色帯の塗装で活躍する1513+117
高槻市 1952(昭和27)年10月2日
▼嵐山線で活躍するデロ10系ほか2連 桂 1956(昭和31)年7月
▼ 嵐山線で活躍の601+201 桂 1956(昭和31)年7月 ▼羽村 宏氏をその作品とともに偲んで 上の写真左は、故羽村 宏さん、1958(昭和33)年、京都市電700形竣工見学時、壬生車庫

余談ながら、羽村さんは、京都市電にも詳しく、青信号5号、8号に『京都市電雑感』なる名作品を残されています。なかでも発行部数分を、手書きで彩色した京都市電運転系統図(昭和14年7月)は有名です。これらは、近く青信号復刻版でご覧頂けることになるでしょう。

阪急京都線ファンだった、故羽村 宏先輩を偲んで” への7件のコメント

  1. tsurukame様
    羽村宏先輩のことを紹介していただき有難うございます。熱狂的な阪急京都線ファンと言うことを始めて知りました。と申しますのは湯口徹さんや乙訓老人さんを始め当会の黎明期に活躍された諸先輩が当時の鉄道ピクトリアル誌上に京阪電車を連載され、羽村宏さんの作品も沢山掲載されていましたので皆さんまとまって熱狂的京阪ファンと勝手に思い込んでいました。何れにしましてもカメラをなかなか持てない時代に皆さんよく記録されたと思います。

    • 仰せの通り、羽村先輩は京阪の写真も多かったですね。吉田の自宅から京阪、阪急どちらが行き易かったのでしょうか。筆者が入学した時4回生でした。あまり話したことは無かったのですが、翌年のEVEでどこかの車両の側面図をカラーで描いた我々の作品を見て一言、『縮尺は何ぼですか』と聞かれ即答できなかった記憶があります。鋭いながらも暖かいお話でした。少し長くなりますが、青信号4号の会員寸描からです。

      羽村 宏君--これ又学者の倅で育ち良く一見紳士風だが、その実毒舌の持ち主。交流電化専攻のくせに当会切っての阪急派の旗頭である。古いものとボロ車にはテンで駄目だが電車それに有名車、花形車両には実に良く通じている。ダイヤと駅名暗記も相当なもの。親譲りのライカで特急等をよく撮っているが、写風は至ってオーソドックスである。音楽はクラシック一点張り。ピアノも嗜む上、プロペラ付き飛行機を愛し、湯口君に劣らぬ映画、落語好き。漱石の”ぼっちゃん”、”猫”等を全文暗記という妙な特技の持ち主である。他にも公表を憚る特技有り。工学部電気学科、京都在住。(原文のまま)

  2. 羽村 宏氏のご父君は京大の工学部教授(高圧送電)でした。戦前に外遊され、その折にツアイスのスーパーイコンタC(スーパセミ)とコダックの8mmを購入され、息子に下賜?されたという恵まれた家庭でした。彼はそれで新京阪や京阪等を撮っていたのですが、背はひょろ高いが体が弱く、遠出がままならず。それでも小生が重ねるのステホに憧れ?、一度だけですが一緒に東海道本線鴨宮(まだ新幹線のテスト線などカケラもない頃です)駅で寝たことがあります。就職先が激務で、超勤や休日出勤が相次ぎ、もともと弱かったから保つわけなく、のち楽なところに変わったものの、婚約が決まった後に帰らぬ人になってしまいました。ご両親の嘆きは勿論ですが、就職先の選択に根本的な誤りがあったのかも。自宅和室に16番エンドレスレイアウトを造り、吉田急行電鉄として、勿論デイ100一統などを走らせ、ちゃんと架線(カタン糸のダミイですが)を張っていました。器用でペーパー車体が得意、小生が就職後購入したサンフランシスコのケーブルカーの48分1プラモデルは到底自分では組上げられず、彼が1か月かけて塗色まで仕上げてくれ、代わりに小生がモノラルのアンプを組んで差上げたこともありました。又彼が使っていた本棚は、小生が中学生時代工作部で作った木製組立もので、小生が最初のボーナスで鋼板製ラックを買い(当時とんでもなく高かった)、不要になって彼に譲り、彼はそれを縛って塚口から京都の吉田まで持ち帰ったものでした。

    • ありがとうございます。昔聞いた話もあり、また、初めて聞く話もあります。羽村先輩が旅立つ時、鉄道関係では吉田急行電鉄デイ100とカラフルな京都市電運転系統図をお持ちになったのですね。

  3. ちょっと、教えていただきたいのですが「梅田付近を快走する710系714+764 1957(昭和32)年4月」の写真はどこから撮られたのでしょうか。二複線(左側の複線が神戸線、右側の複線が宝塚線)になっているので京都-梅田の特急は十三から宝塚線を走っていたことになり、写っている電車は梅田駅に向かっているのではと思うのですがいかがですか。なにか薬の看板があるところはひょっとして、今の阪急電車の本社ビルか梅芸辺りでしょうか。ところで羽村先輩は十三方面に行く電車の先頭車の窓からこの写真を撮られたのでしょうか。いかがですか。どなたか教えていただければと思います。ちょうど私が5歳11カ月のころの写真になります。

  4. お釈迦様に説法の類ですが、当時の阪急京都線の梅田乗入は十三から宝塚線で、600V区間ですから遅かったのを覚えています。写真からは宝塚線の前頭からの撮影になりますな。当時の梅田駅は現在の阪急デパート横の広い通路で、今から思えばさして広からぬ敷地に電車がひしめき合っていた、ということになります。有名な「アメリカ博覧会」塗装の電車が入構すると、大屋根の下が明るくなった、という伝説があります。現在の阪急梅田とは誇大呼称?で、正確には「芝田町」、百歩を譲っても「北梅田」とでも称すべきではないでしょうか。昔むかし軌道線があった頃なら、優にひと停留場間でっせ。

    • 湯口先輩、説法ありがとうございます。60年も経つとこんなに風景が変わっていることがわかり、写真の記録は今更ながらすごいと思いました。昔むかしの軌道線は阪急北野線のことですね。段ボール製の電車で一時テレビで話題になっていました。終点の北野にあった北野高校が川向うの十三に移って、高校のある周辺が新北野という地名になったということですね。阪急がなにわ筋線に乗り入れるということになると、これから先はどうなることやら・・・なんせ、言うのは今のところタダですから。

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