街並みとともに ~京都のバス~  〈3〉

“天神さん”前の市バス

かつてのN電こと市電北野線の終点だった「北野」、そのN電が廃止されて、代替バスの50号系統が北野まで走り始めたのが昭和36(1961)年8月1日ですから、今年でちょうど60年になります。当初、50号系統のルートは、N電と全く同じでした。堀川通から中立売通に入って、千本通も渡って西進し、北野車庫のあった下ノ森で右に折れて、終点の北野に到達していました。

終点の「北野」に到着して折り返す50号系統。バスは、一の鳥居前にある広場でUターンし、時間調整のあと京都駅前方面行きの北野バス停に向かって行った。バスは「京2い・259」で、昭和40年製いすゞBR20、ボディは西日本車体(NSK)で、カマボコ型のさらに一世代前のスタイルで、バスを写し始めた頃にたくさん走っていた懐かしいスタイルだった。なお撮影直後の昭和51年4月から、千本今出川経由のループ状の運転となり、鳥居の前で折り返す光景は見られなくなった(以下、昭和51年)。 

市電今出川線を横断してバス停に向かう。上掲と同じタイプのいすゞ製のバス、行先の方向幕も、右に見える交通信号の表示も「北野神社」だった。停留場名が、慣習的な呼び名や略称表示から、より正確を求める傾向となり、昭和57年にバス停は「北野天満宮前」に改められた。
昭和43年製、日野RD100、ボディーはモデルチェンジした西日本車体(NSK)で、これが「カマボコ」スタイル、ほぼ西日本限定で見られた。ライトは、前掲の昭和42年製いすゞは4灯だったが、この昭和43年製の日野は2灯のまま。注目すべきは、日章旗を掲げていること、祝日には、市電、市バスとも律儀に日の丸を掲げていた。北野の近くで「ここは、どこ?」的な2景を。大きなホテルの前、交差点を渡る10号系統。ここは、堀川丸太町で、当時、南西角にホテルニュー京都というホテルがあった。当時は300室近くあった大きなホテルだったが、平成18年に廃業し、いまはスーパーマーケットのイズミヤになっている。市電通を鋭角で右折する市バス、右の電柱には「丸太町七本松」の電停名が。バスは「京2い・761」で、昭和43年製の日野RB10、52号系統は、丸太町を西進し、狭い七本松通を北上していた。千本通と西大路通とに挟まれたバスの空白区間を解消するためと、当時は市民病院が丸太町七本松にあったため、昭和35年に新設された。昭和57年には千本通経由に移設、平成9年に廃止されたが、平成30年に、同じ52号系統として再び七本松通を走るようになった。

 街並みとともに ~京都のバス~  〈3〉」への13件のフィードバック

  1. 「千本今出川経由のループ状の運転となり」とありますが、千本今出川経由で北野神社で折り返しと記憶します。バス停に着いた後に北野車庫に入庫したので鳥居前での折り返しが見られなくなったと。

    • 宇仁義和さま
      コメントを頂戴し、ありがとうございます。改めて調べますとご指摘のとおりでした。昭和51年以降、まだ北野車庫があった時代ですから、千本今出川経由で北野終点に着いたバスは、鳥居前でターンして車庫入りしていました。そのあと、昭和53年には、衣笠まで延長され、鳥居前のターンは無くなり、北野車庫もなくなって跡地にエンゼルハウスが建設されたという経緯になります。

      • 昭和51年4月の改正で千本今出川経由に変更されましたが、同時に北野神社前から下ノ森へ向かうようになりました
        その後北野車庫へ

  2. かまぼこ型になる前のNSKなら私も一枚撮っております。
    昭和53年に残っていた西鉄路線バスの旧塗装車両です。
    こんな話題でしか反応出来なくて済みません。

    • NSKは、西鉄の子会社ですから、西鉄バスは、100%NSKでしたね。カマボコ前の旧ボディは、かなり後年まであって、私も西鉄福岡市内線を写しに行った時に多くの旧型ボディに出会いました。それと、昨年春、久しぶりに博多駅前に立つと、この写真の旧塗装の復刻バスが走っていて、懐かしい思いに駆られました。

  3. 50系統の市バスが走り始めて、もうすぐ60年ですか。運転初日の昭和36年8月1日には、新しいもの珍しいものが好きな母に連れられ、北野から京都駅まで往復しました。左側最前列に座った母の膝の上で、景色を見ていた記憶があります。
    その後今日まで50系統には乗車する機会がなく、運転初日が唯一の乗車だったようです。
    天神さんの鳥居前で転回するシーンは何度も見ていたのですが、いつの間にか経路が変更され、衣笠まで延長されていました。
    昭和51年4月1日から千本今出川を経由するようになったとのことですが、近所に住みながら詳しくは知りませんでした。千本中立売から千本今出川を通り、北野神社へと至る経路に変更されたのですが、ここで問題となるのが北野神社のバス停の位置です。今出川通りのバス停は御前通よりも西に在り、北野車庫へ行くのは不可能です。中立売通り(N電が走っていた広い通り)の今出川を少し下がった、変更前と同じバス停を使用すれば、下ノ森の北野車庫へ向かえます。北野神社~北野車庫間は回送扱いだったのでしょうか。車庫で運転手の交代・バスの転回の後、始発となる当時の西陣署横のバス停へ向かったのでしょうか。
    経路の変遷や当時の交通事情、さらに交通局の懐具合など、調べてみると楽しいものですね。
    本題から外れますが、北野天満宮の一の鳥居についても、なかなか面白い経緯がありました。N電時代下ノ森にあった一の鳥居が、現在地へ移動されていたとは、調べてみるまで知りませんでした。ふたつの時代を比べてみると一部の部材の形状に違いがあり、狛犬の台座も違います。現地へ行ったり、ネットで調べたりした結果、昭和41年11月に移動してことが分かりましたが、別物だったとは考えも及びませんでした。
    鳥居と狛犬を参道北側に移設し、一の鳥居を移動させるという大掛かりな工事が行われていたのです。一の鳥居は柱一本が24トン以上あり、三留野(南木曽)付近で産出されたそうです。

    • 北野神社前はおっしゃる通り、今出川通を下がったところにありました。
      また、北野神社前~下ノ森間は営業運転でした。
      下ノ森の停留所か何処にあったまでは記憶にありませんが。

      衣笠まで延長された時も、最終便は北野神社前入庫で、その停留所(今出川通下がった停留所)か使われていました。確か、北野営業所が廃止されるまでだったと思います。

      • GENZO様
        京都駅行きのバスが路上で待機していたのかと、疑問に感じていたのですが、解説を拝見してスッキリとしました。
        ありがとうございました。

  4. 紫の1863さま
    GENZOさま
    50系統のバスの思い出や、細かい変遷まで、ご教示いただき、ありがとうございました。たまたまN電廃止の新聞切り抜きを見返していますと、50系統バスが走り始めた記事がありました。バス開通のヘッドマークを掲げて、軌道の上を走っています。

    • 総本家青信号特派員様
      新聞記事を読むと「オールロマンスシート」とありますが、当時4歳の私に車内の記憶はありません。母が「ワンマンカー」と口にしていたことだけは覚えているのですが、その意味を知るのはずっと後のことになります。
      この頃の総本家様は小学校高学年だと思いますが、新聞記事を切り抜いて保存されていたのですね。「栴檀は双葉より芳し」と言いますが、早くから資料の整理をきちんとされていたこと、今更ながら頭が下がります。
      私事ながら、このたび高松吉太郎氏の「京都市電慕情」と、杵屋栄二氏の「汽車電車」を運よく入手することができ、戦前の京都駅前、特に七条郵便局から法華倶楽部当たりの建物の謎に挑んでおります。

      • 紫の1863さま
        はい、N電が無くなった時は、小学校6年でした。最終日の7月31日は臨海学校へ行かされて、現場に立ち会えなかったのを、今でも残念に思っています。情報の乏しい時代、新聞は最大の情報源でしたから、丁寧に切り抜いて、一枚一枚、スクラップ帳に貼り付けていました。購入された両著は、なかなか入手が困難だったと思いますが、われわれの生まれる前の鮮明な写真があって、たいへん参考になりますね。

  5. N電とバスと言えば、こんな写真が見つかりました。いつもお世話になっているベテランファンが撮られた写真をお借りしました。「ご乗車ありがとうございました。」と告知して走る京都市バスです。デッキがありますから、当時よくあった宣伝バスでしょう。ちゃんと市バス色に塗られて、京都市交通局の文字も読めます。N電の装飾は、よく見ますが、バスで見たのは初めてです。

  6. アナログ制御全盛時代モノコックバスオンリー金属バンパー金属部品車オンリー時代1970年代まで新日本紀行放送年代1981年以前までが魅力感じます。それ以降はレトロ感覚レトロ要素情緒筆が打ち崩されスケルトンバス樹脂バンパー有色部品車には魅力感じられません。むしろ象徴憎悪の象徴です。

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