九州の列車 〈6〉 宮崎駅の“遜色急行”
九州の県庁所在地駅で見た各種の列車、つぎは宮崎駅です。先の熊本でも少し触れましたが、廃止された山野線を走る「からくに」という急行がありました。語源は、鹿児島・宮崎の県境にある霧島連峰の最高峰「韓国岳」に由来しますが、そのルートは今は無き廃止路線を経由するもので、車両については、一般型車両を使った“遜色急行”にふさわしいキハ52単行でした。▲C55の煙が渦巻いている宮崎を発車するDC編成。当時はよく見られた併結編成だが、最後部の1両に注目、キハ52 52(鹿カコ)で、この車両のみ山野線を経由して出水に向かう急行「からくに」。途中から分割されて単行で走る。1両だけの急行は、九州では唯一だった。山野線は規格の低いローカル線で、途中にループ線があることで有名だった。山野線と宮崎との結びつきは希薄で、単行でもガラガラだったと言い、昭和45年に単独区間が快速に格下げされ、「からくに」の愛称も消え、山野線そのものも昭和63年に廃止されている(昭和42年3月29日)。
▲赤枠が宮崎を16:05に発車する日豊本線、吉都線経由の博多行き「第2えびの」、出水行き「からくに」の併結列車。両列車は吉松で分割されて、「第2えびの」は写真前部の28・58系DCで肥薩線、鹿児島本線経由で博多へ向かう、至極当たり前の列車。いっぽうの「からくに」は、栗野から山野線に入り、水俣から出水へ向かうというルートで、吉松から写真のキハ52単行となった。“遜色急行”とは、一般形の電車、気動車を使用した急行の
ことで、キハ52は両運、強力型で、只見線と仙台を結んだ「いなわしろ」も有名で、昭和58年まで存続した。北海道では、一般色のキハ22単行の急行が多くあったが、客室は急行型とほぼ同じだった。日豊本線の華、寝台特急の「富士」(青枠)も合わせて紹介。
少し釈明します。日向、薩摩、大隅の三国は島津藩の領地で、横の繋がりが強く、一種の九州内の独立国家的な風土が残っていました。
宮崎は複雑な県の作られ方で、県都宮崎が制定前は都城が日向支配の本拠でした。
だから吉都線が旧本線で霧島神宮回りはのちの建設です。
また都城まで「彗星」が走っていた理由も「日向の中心地は都城」という強い主張です。
さて「第2えびの」の付属編成の「からくに」は宮崎を夕刻に出て、都城から吉都線で吉松に着いて分割。ここから栗野から山野線に入り、伊佐地方の主要都市薩摩大口に向かい、一旦水俣に出ますが、ここは熊本県で、最後は薩摩地方の北の守護地出水が終着地でした。
両運のキハ55や58の無かった時代に52を使わざるを得ず、まして準急でもない”遜色”の名は仕方なかったと思いますが、旧島津領の横の繋がりの残っていた時代、官吏や民間人の鹿児島出張は当たり前にこなせても、宮崎出張を命じられた時に、どうやって行くか、に便利な筋を鹿鉄局が引いた。私はそのようにこの”アクロバット急行”を見ています。「からくに」廃止後も吉松水俣間は「えびの」接続の快速列車として残されていたからです。
写真は薩摩大口市時代の駅風景です。(1980)