宮崎
昭和40年代の宮崎は、他の地域とは違う響きを持った、憧れの地だった。当時の新婚旅行のメッカだったかもしれないが、人それぞれの思い入れも宮崎にあるだろう。しかし撮影対象として見ると、機関区が駅ホームの真横あり、とにかく狭いところに機関区があったという印象が強い。正規の入り口から入って機関区で撮影していたところ、ホームから直接、機関区へ侵入したと勘違いしたホーム上の駅員から、思いっ切り怒られたことがある。なにしろホームの真横にあるから、駅員がすぐ見つけてしまう。国鉄時代の職員は、怒るとたいへん怖かった。
▲ホームで出発待ちのC57187〔宮〕の客車列車の横を、入換中のD5112〔延〕が通り過ぎる。宮崎以北では、旅客がC57、貨物がD51牽引だった(昭和44年)。
▲また国鉄職員に邪魔されてしまったが、貴重なものなので載せておく。列車は臨時の宮崎行き「第二日向」、牽引するのはC5514〔宮〕+C5533〔宮〕と、昭和42年、C55重連の牽く急行列車がまだ残っていた。その後、C57の牽く急行列車が日豊本線に突如復活するのは、昭和49年のことである(昭和42年)。▲ここでも職員に邪魔されながら、宮崎駅を出る、宮崎発博多行き「第二えびの」・出水行き「からくに」。最後部はキハ5252の「からくに」で、日豊本線、吉都線は「第二えびの」と併結。吉松から単行となり、山野線経由で出水へ向かった。この時代に、急行用両運DCはなかったので、両運・強力形のキハ52を使用した単行急行が生まれた(昭和4年)。▲待機する「彗星」HMつきのDF50530〔大〕。エリート列車の牽引機らしく、蒸機とは離れたDC・DL庫で、夕方の発車まで、ゆっくり休んでいた(昭和44年)。
▲扇形線に並ぶC57112〔宮〕、C57117〔宮〕、永らく宮崎区に在籍した代表的なC57で、とくに117号は、昭和48年の宮崎国体でお召機に抜擢される。これが最後の蒸機お召となった(昭和44年)。
▲宮崎の撮影地と言えば、大淀川が有名だが、反対の宮崎神宮方へ少し歩くだけで、こんな風景になる。C57192〔宮〕の牽く延岡発南宮崎行き539レ。なお、この192号は、前述の宮崎国体お召しの予備機だった。実際に牽くことはなかったが、整備だけは本務機並みにされたはず。C57四次型のお召装備はぜひ見てみたかった(昭和46年)。
▲昭和46年10月、日豊本線の牽引機に異変が生じる。奥羽本線の電化で余剰となったC61全機が宮崎へ転属し、C55を追い出した。高鍋発宮崎行き537レ。補助灯を付けたまま、東北スタイル丸出しの姿に、“なりふり構わぬ”蒸機末期の姿を感じた(昭和46年)。
▲宮崎駅ホームから見た区の光景ふたつ。ホームからこんな光景が見える駅も珍しいと思う。上は、転属直後のC61が2両つながっている。その横に、石炭を積んだトラが見えるが、これは、区にガントリクレーンなどの本格的な給炭設備がないため、トラを押し上げて石炭を降ろし、そこからベルトコンベアで給炭していたようだ(昭和46年)。▲狭い宮崎区も、夜間になると、逆に蒸機が密集して光線状態もよくなる。夜行列車の乗車までの時間つぶしに、格好の夜間撮影タイムとなった(昭和46年)。
▲久しぶりの宮崎駅、駅は平成5年に完成した二面四線の単純構造の高架駅になっていた。ただ、改札口が上下別々にあり、その間に駅通路があるたいへん珍しい構造になっている。中央は485系の国鉄色の「きりしま5号」で、手前クモハ485-102は、モハ485を種車に先頭車改造されたもの。ミレニアム記念に国鉄色に復刻された。この列車に乗って、霧島神宮までの乗車を楽しんだ(平成10年)。
駅をコメントするはとても【嬉しい企画】ですね。若い頃の旅行は到着した駅待合室の何処で一夜を過ごすかに頭が一杯で、ホームで何があったかほとんど記憶しておりません。博多で一夜が無理と判断し、風呂にゆっくり漬かりたいと思い駅裏ではなく、表の左手(方向感喪失)の方で客引きばあさんと交渉した結果、汗、垢を流すことが出来たのです。須磨の大人からみれば大名旅行まがいの事をやったように思われたようです。
宮崎駅に初めて降り立ったのは1964年11月で、新婚旅行の道中のことでした。その後も仕事関連で宮崎に行っておりますが、いずれの時も飛行便利用で鉄道とは関係なしでした。20年ばかり前にゴルフ付きの招待旅行で、ゴルフ道具を「鉄復活」で捨てた後であり、主催者に帰路の航空便前に空港で必ず待っているからと言って、自由行動をとりました。ホテルに朝8時にタクシーを呼びつけ、「何処でもよいからJRの駅に行ってくれ」と言ったところ、佐土原に連れて行ってくれ、各駅撮りを楽しみ宮崎に到着したら高架駅になっており、30年前の記憶と全く異なり、びっくりしました。その数年後、再び主催者は変われど同コースとなり、今度は駅撮りは遠慮して大淀川鉄橋両岸で、電車中心摂りを楽しみました。何時も思い出話でごめんなさい。
乙訓の老人さま
年末のお忙しい時期に、コメントありがとうございます。
宮崎へ初めて行かれたのが新婚旅行とは、ある時期の日本人の典型ですね。新婚旅行専用列車「こどぶき」号もありました。私が最初に行った宮崎駅は、戦後まもなくの建築で、粗末な建物でしたが、駅前のフェニックスが印象的でした。それが高架になって大変身しました。ふつう高架駅は特徴のない、素っ気ないものが多いのですが、そこはJR九州、地域の特徴を反映した建物になっているのは、さすがと思います。
1964年はオリムピックの年で、全日本観光にお願いしました。行程は新たに連れ合いとなった現在の「おかあちゃん」にまかせ、「旦那」のお世話になりました。国鉄切符以外は全観社員扱い適用となり、生まれてはじめての豪華旅行となりました。宮崎観光ホテルバルコニーから大淀川鉄橋を渡る列車を楽しんだのは当然のことでした。
先に鉄橋を行き交いする列車を撮影したのはゴルフ旅行に乗じての2回目の時で、朝は左岸で午後は右岸で、その間は宮崎神宮参拝、古墳見物で郊外をうろついていました。伊丹便連絡列車に南宮崎から乗車、ゴルフ族より一足早くロビー到着でした。