駅を旅する 〈8〉

鳥栖

博多から特急に乗れば、今なら20分で鳥栖に着く。現在でも、鳥栖は長崎本線への乗換駅には変わりないものの、その後の列車体系の変化、新幹線の開業で、駅としての比重はうんと軽くなり、鉄道の街として、その名を馳せていた時代の面影は、もう見られない。

鳥栖は、鹿児島本線、長崎本線の分岐点に位置し、九州の鉄道網の中心的な位置にあった。駅に隣接して、鳥栖機関区、鳥栖操車場があり、四六時中、列車が出入りしていた。鹿児島本線、長崎本線が非電化の時代には、扇形庫が二つもあって、旅客用蒸機C59、C60、C61の基地として賑わった。九州の機関区の中でも、いちばん華やな機関区だったに違いない。

駅の東側にあった機関区、操車場は跡形もなくなり、いまはサッカーJ1のサガン鳥栖の本拠地・鳥栖スタジアムになっているのが、ホームからも分かる。それとは対照的に、西側の駅舎は、九州鉄道時代の駅舎を、改修を加えながらも大事に使い続けている。

さて、当会の人間国宝のお一人は、この鳥栖市で生を受けられたと聞く。毎日、水薬ばかり服用され、このたび、後期高齢者の仲間入りを果たされた。いずれ、出生の頃の思い出も、本欄で聞けるだろうと思っている。鳥栖IMG_0039sy▲鹿児島本線と長崎本線が別れる付近に、工事現場の詰所があって、勝手に2階まで上がって、俯瞰気味に大阪発長崎行き「第二玄海」、C6038[鳥]をとらえた。当時、長崎本線では、臨時列車牽引でC60の最後の活躍が見られた。翌年には、長崎本線の優等列車は、すべてDD51化される。(昭和42年)鳥栖IMG_0018sy▲東京発熊本行き「みずほ」、ED764[門]。「みずほ」は鳥栖を通過していた。九州ブルトレのなかで、その経緯もあって地味な印象があり、。ヘッドマークも地味で、モノクロで撮ると、肝心の愛称名がよく分からない。右側は鳥栖操車場が広がる。(昭和42年)

鳥栖IMG_0017sy▲鳥栖には久大本線の列車も発着していた。到着する大分発鳥栖行き628レ。D6063[大]。なお、久大本線は、大分方が下り、久留米・鳥栖方が上りと、通常とは逆になっていた。(昭和42年)鳥栖IMG_0019sy▲久大本線の貨物列車もD60だったが、区間貨物はハチロクが担当していた。68664[鳥]が牽く。ちょうど、いまはサッカースタジアムになっているあたり。(昭和42年)鳥栖IMG_0037sy▲鳥栖での形式写真の一例、D603[大]。シールドビーム、パイプ煙突と、異色のスタイルだが、これも悪くはない。(昭和42年)鳥栖IMG_0038sy▲冷水峠をD60の後補機の力も借りて、鳥栖に到着した、熊本行き「天草」。DD5143[鳥]+客車11両。(昭和42年)鳥栖IMG_0040sy

▲ターンテーブル上のC6031[鳥]、鳥栖区には、当時、6両のC60が配属され、前記のように、長崎本線で定期優等列車からの牽引は撤退したものの、臨時列車の牽引に活躍を見せていた。扇形庫が二つもあるので、撮影は大忙しだった。(昭和42年)鳥栖IMG_0041sy鳥栖IMG_0036sy▲区には展示・廃車体があった。カットモデルとして扇形庫横に置かれた230形268号(上)。日本初の民間製造会社が量産化した国産蒸機で、268号は北越鉄道に納入したもの。鉄道院所有となった後、称号改正で268号となった。戦前、鳥栖に転属となったらしく、鳥栖区の入換用に使われた後、教習用に切開されたもの。その後鳥栖市役所に静態保存され、最近では鳥栖駅側に移転保存となった。もう1両は鉄道省キハ40000と思われる廃車体(下)。(昭和42年)

4 thoughts on “駅を旅する 〈8〉

  1. 後期高齢者の資格は」とっくに得、あとひと月で喜寿(といっても目出度いこと何ぞ一つもない)になる老人は、確かに「佐賀県三養基郡鳥栖町字藤木鉄道官舎で出生」と戸籍簿に記載がある。親父は転勤族で、確か九州だけでも門司や鳥栖、大分など、機関庫のあるところばかり転々とし、確かな転勤順位も不確かであった。キャリアだったが主として運転部門に属し、若くして機関庫主任(後の機関区長)であったようである。その3番目の子供で長男の小生は、たまたま親父が鳥栖在任中に、猛烈な未熟児としてオギャアとなった次第だが、取り上げた産婆が、余りの小ささに、到底育たないと漏らしていたとは、後年お袋から聞いた。未だに世の中で身を小さくして暮らしているのも、その名残であろう。
    鳥栖は他の産業もないわけではないが、ほぼ鉄道あっての町であったのも確かである。総本家青信号特派員氏が撮影されたキハ40000の車体はキハ40002で、戦災で1949年1月21日廃車
    (戦争は1945年8月15日終わっているのに)である。他のオハ35の車体もあったと記憶する。
    1986年10月、甘木鉄道と南阿蘇鉄道を訪ねた際、ちらりと鳥栖構内を眺めたのが最後だが、やたらだだっ広い構内は空っぽで、役目を終えた客車の一群がいただけ。そのはるか後年、福岡鉄工所の石油発動車の調査に福岡県立図書館に、写真の複写に八女市立図書館に行った際も、ちらりと瞥見したが、昔の面影は皆無であった。

    • yuguchiyuguchiさま
      さっそくのコメント、ありがとうございました。
      出生の思い出を聞かせていただき、これで、よく分かりました。
      廃車体については、外形からするとキハ4000と推測していましたが、番号までは分かりませんでした。ネットで調べると、以前、鳥栖区には、筑前参宮鉄道のミヤ102が置かれていたとする書き込みがあり、確かに側面の窓配置が同じでしたが、前面が相違しており、キハ4000とした次第です。
      私も一昨年でしたか、「つばめ」に乗り換えるため、ほんの数分間、鳥栖駅に久しぶりに降り立ったのですが、その変わりようには、言葉もありませんでした。

  2. C6038の「第2玄海」が鳥栖を出てカーブするあたり、私も懐かしく拝見しました。私もこのカーブでC6026の「さくら」を撮りました。鳥栖は鹿児島、長崎の両幹線のジャンクションで、さらに久大本線の列車も見られ、筑豊と同様に魅力的な場所でした。宿泊地の博多から鳥栖まで霧島を利用しましたが、鳥栖からはC6027がバトンタッチして出ていきました。その日1日鳥栖にはりついたのは貧乏駆け足旅行で九州の大型機を効率よく撮影できるのはここしかないと思ったからです。両線の間にある小学校の校庭をダイヤとにらめっこしながら何往復したことか。勿論鳥栖機関区も行きました。質より量で今となってはロクな写真はありませんが、かなり歩き回ったことだけは確かです。

  3. 準特急さま
    鳥栖の思い出コメント、ありがとうございます。
    鳥栖下手のY字線の間にある小学校を行ったり来たりされたこと、以前に聞かせてもらったことを、思い出しました。まだ、鹿児島本線も未電化の時代、鳥栖は効率的に走りが撮れる、それは楽しい場所だったのでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください