天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【16】

ボンネットバスの本場を行く

前記で触れたバス撮影とは、熊本県下に路線網を広げている九州産業交通のボンネットバスの撮影でした。昭和50年代前期は、少数ながらも、全国の路線バスでボンネットバスがまだ走っていました。なかでも“産交”の略称で呼ばれる同社には、天草などの島や山間部に、全部で30台前後のボンネットバスがあって、当時は、日本一のボンネットバスの保有会社でした。一部は熊本市内にも堂々と営業車として出入りしていて、前々記の北熊本駅付近でも、市電を撮っていても、突然、姿を見せて走り去ることが往々にしてありました。当時は、ボンネットバスに熱を上げていて、市電を撮影していて、ボンネットを逃したことを大いに悔やんだものでした。
前記で述べた宮原線の終点、肥後小国の駅前に、九州産業交通の小国営業所があり、ここにもボンネットバスが2、3台いた。そのなかで、注目すべきは、トヨタのボンネットがいたことで、特徴ある前部を見せて車庫の中で休んでいるのを見つけて大喜びした。トヨタのボンネットバスは、移動電源車や電電公社の業務用のバスの製造例はあるが、営業用としては極めて珍しく、あのトヨタ博物館でも1台だけが保存されている。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【15】

宮原線を行く

前述の熊本訪問のホントの目的は、近くの宮原線の乗車と、後述するバスの撮影でした。宮原線は、久大線恵良から分岐して肥後小国へ至る26.6kmのローカル線でしたが、国鉄の第一次地方交通線に指定されて、昭和59年に廃止されます。全列車が車両基地のある豊後森を始発としますが、全区間を走る列車は、朝夕の一日3往復のみ、豊後森へのアプローチもあって、乗車の難度が高い線区でした。ただ、土曜日だけ通学生の便を考慮して、午後に一往復が設定され、なぜか夏休みでも運転されており、土曜日に合わせて、やっと宮原線の乗車を果たすことができました(以下、昭和51年8月)。
肥後小国に到着したキハ20の単行、乗降客もあり、駅員もいて、手小荷物も扱っていたことが分かる。土曜日の午後だけ見られる、ささやかな賑わいだった。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【14】

前々記の日南線訪問の翌年、昭和51(1976)年の夏にも九州を訪れています。その時の一端を上熊本駅周辺のカラーで回顧します。上熊本は、熊本のひとつ博多寄りにある国鉄の駅で、今でこそ、平行する九州新幹線に合わせて、駅が高架化され、駅前も再開発されていますが、当時の上熊本の駅舎は開業時のままで、もとの九州鉄道のスタイルを色濃く残した駅舎でした。そして、駅前を出ると、左手に熊本電鉄の上熊本駅、右手に熊本市電の上熊本停留場があり、小さいながらもターミナルとして機能していました。熊本電鉄の上熊本駅に到着する、北熊本~上熊本の折返し電車、モハ301が、国鉄貨車2両を牽いて到着したところ。国鉄へは連絡線があって、国鉄貨車が乗り入れしていた。と言っても、量はわずかなもので、貨物列車の設定はなく、電機も在籍せず、営業の電車が、貨車を牽いたり入換をしていた。モハ301は、もと小田急デハ1100、4両が熊電に来て、両運化された。熊本電鉄は、914mmの菊池軌道がルーツで、まだ軌道時代の面影が色濃く残り、タブレット、腕木信号機と、まだまだ前時代的な地方私鉄の様相だった。駅舎回りも、以前に見た湯口徹さんが撮られた昭和30年代と変わらず、右端の広告もそのままだった。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【13】

東北のDL

昭和の時代、カラーフィルム、とくにポジは貴重品で、“ここぞ!”という時しか撮りませんでした。非電化区間で撮る場合、勢い、黒い蒸機ではなく、合い間に来る、DL、DCをカラーで多く撮りました。今回は、そんな思いで撮った東北地方のDLの例を挙げてみました。
ディーゼル機関車の揺籃期、車両メーカーでは、技術の習得、海外輸出への布石もあって、試作の機関車を製造していた。国鉄が借り入れて、実際に列車を牽き、使用実績を積み上げていった。形式も、最初は40番台、のちに90番台の形式が与えられた。これらは1形式1両、塗装もいろいろで、全部で10両あった。写真のDF901も、その1両で、電気式C-C配置で、昭和32年、水戸区に配属されて、常磐線で急行を牽いたあと、昭和36年に秋田区へ移った。昭和45年度には廃車されたものの、しばらくの間、東能代機関区のラウンドハウスの横に放置されていた。秋田区では実際に列車を牽いたことは少なかったようで、記録は見たことがなく,逆に廃車後は撮りやすい位置にあり、記録が多く残っている(以下昭和46年8月)。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【12】

真夏の日南線

昭和の時代のカラー写真の思い出、つぎは九州の日南線で、昭和49年8月に訪問しています。蒸機の末期の頃でも、日南線にはC11が牽く貨物列車が運転されいて、二泊三日で集中的に撮りに行きました。九州へは、それまでにも何回か行っていますが、日南線へ行くのは初めてのことでした。九州にあっては、“C11の牽く貨物”ぐらいでは優先順位はうんと低いものでした。
真夏の日南線と来れば、海水浴しかない。夜行列車で宮崎に着き、日南線に乗り換えて、まず大堂津に着いた。油津~大堂津~南郷は、海岸沿いを日南線が走り、多くの撮影地とともに、海水浴場もあった。朝からカンカン照りのなかでC11を撮り、駅に引き上げた。「歓迎 大堂津海水浴場」の看板も右手に見える。家族連れも若者も、みんな列車の利用で、小さな駅は大賑わいだった。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【11】

前記のように昭和47年8月には、東京・横浜で写したあと、新宿16時45分発の「アルプス7号」のキハ65にみんなで乗り込みます。同乗したのは、たしか準特急さん、F本さん、逗子のTさんで、ボックス席を確保して、積もる話に花が咲きました。向かう先は小淵沢、その当時の気動車でも3時間走れば、信州の高原の駅に着くことができました。昭和40年代も後半になると、蒸機は急激に活路が狭められ、小淵沢から分岐する小海線は、首都圏から最も身近な蒸機の運転区間となっていました。シーズンには、C56の牽く客車列車も運転され、多くの人が押し寄せていました。小淵沢から分岐する小海線の沿線には、この時期、撮影者だけでなく、ハイキング客も多く乗降した。標高1138m、野辺山、清里、甲斐大泉に次ぐ高さの信濃川上も同様である。C56の牽く貨物列車が待機して、まもなく次の上り列車が到着しようとする。ホーム上の客は、思い思いの格好で次の列車を待っている。帽子、服装、リュックからも、当時の様相が見える。

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 真夏の夜は N電へ

暑い夏は、家でぐうたらするのに限りますが、たまには出掛けないと、心身に良くありません。かと言って、炎天下の昼間に出掛けるほどの気力を持ち合わせていないところに見つけたのが、「京都・梅小路七夕あそび2019」でした。梅小路公園一帯を、イルミネーションで飾ってイベントを行なう毎年の催事です。京都鉄道博物館も夜間延長され、公園内のN電動態保存車は、ふだんの運転日は17時で終了ですが、期間は17時以降も、30分間隔で運転、20時まで運転されます。2014年から新たにバッテリーで走行するように改造されたN電ですが、下回りの再整備のため、昨年末から運休し、車体だけを残して工場入りしていました。このたび、整備も終わって、再デビューを果たしました。

始発地で発車を待つN電27号、ソフトフォーカスで夜の雰囲気を出してみた。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【10】

東京で特急・都電を撮る ー真夏の思い出①ー

暑い毎日が続いています。若い頃は、この暑さにも臆することなく、旅に出掛けたものでした。学生時代は、長期の夏休みがあるため、涼しくなった8月下旬からの長期旅行が多かったものの、社会人になると、盆休みや2、3日の夏季休暇が、貴重な旅行チャンスとなりました。冷房もほとんどない時代、いちばん暑くて混み合う時期に、猛然と出掛けた行動力、情熱を感じずにはいられません。夏の熱気を感じると思い出す、1970年代の撮影行きを偲んでみました。

この旅行は、OBとなったばかりの頃、今も親交が続くクローバー会の皆さんと連れだって行った時のこと、いちばんの目的は、小海線のC56牽引「八ヶ岳高原号」だが、関西組はまず上京して、周辺で一日撮ることになった。当時の大垣夜行のグリーン車に乗り、東京に着いたあと、東北本線の川口へ。まだ東北・上越新幹線は影も形もなく、お盆の休暇が終わる頃は、上り列車が続々と通過して行く。EF58+EF57の重連急行、161・181系特急、EF56荷物、EF13貨物と、関西では見られない電機、電車に目を奪われた。写真は上り「とき1号」(以下、1972年8月)

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 あの日の感動 もう一度

第8回クローバー会写真展を本欄にアップしていただきました

ことし1月、祇園「西利」で行なわれました第8回クローバー会写真展「鉄路輝く」の誌上写真展が本欄にアップされましたのでお知らせします。トップページの「写真展」からお入りください。写真展では、多くの皆さんに来場いただき、会員の渾身の作品を見ていただきました。初回の写真展から、本欄へアップ作業を担当いただいてるのがtsurukameさんで、こちらの整理、送付が大幅に遅れたにも関わらず、即座にアップしていただきました。厚く御礼申し上げます。

京都は祇園「西利」のギャラリーで開かれた第8回クローバー会写真展、ことし1月23日~29日の開催で、メインテーマ「鉄路輝く」のほか、サブテーマ「関西の懐かしの鉄道風景」とともに約120点を展示した。

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 さよなら ハワイアンブルーの電車 (下)

前稿で記した昭和時代の伊豆急100系との出会い以降、再会が叶わぬまま、時間ばかりが経過するうちに、100系は1両を残して、2002年に定期運用から撤退することになります。53両あった100系のなかには、改造車や、グリーン車、食堂車など、ほかの私鉄にはないゴージャスな車両もありましたが、海岸沿いを走るため塩害もあって、JRの113・115系を改造した200系の登場により、100系は撤退することになりました。

しかし、4両だけあった両運転台車のなかで、クモハ103は伊豆高原の構内入換用として、その後も使われていた。伊豆急の開業50周年の記念事業として、本線走行が可能なように保安装置などを改修し、2011年に動態保存車として復活したのだった(2016年 片瀬白田)。

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 さよなら ハワイアンブルーの電車 (上)

“ハワイアンブルーの電車”、もうすっかり聞かなくなった言葉です。60年前の伊豆急行の開業の頃には、雑誌にも広告にも“ハワイアンブルー”の文字が躍り、伊豆急行の愛称として定着していました。しかし伊豆急の電車もすっかり代替わりしてしまい、最後のハワイアンブルーの電車として、動態保存されていたクモハ103も営業を中止し、60年の歴史に幕を下ろしました。

動態保存として、ほかの車両がなくなったあとも1両だけ残されていたクモハ103だったが、保安装置の期限切れで、ついに7月のさよなら運転で本線を走らなくなった。

伊豆急行建設の歴史をたどると、昭和31年の東急電鉄による伊東~下田の鉄道敷設免許の申請に始まります。ところが翌年、ライバル関係にあった西武系列の駿豆鉄道からも同区間の免許申請が出て、にわかに伊豆半島を舞台にした東急vs西武の陣取り合戦が勃発します。箱根の山を舞台にした両者の戦いは有名ですが、結局、伊豆では先に申請していた東急に免許が下りて、別会社の伊豆急行によって建設が進められ、昭和36年12月10日に、伊東~伊豆急下田が開業します。開業の祝賀列車の正面窓には、五島慶太の遺影が飾られていました。

初めて伊豆急の電車を写したのは、開業後4年が経った昭和40年で、熱海の次駅、来宮駅付近で、隣を走る東海道線とともに撮影した。

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