叡電鞍馬線 不通区間 437日ぶりに開通

2020年7月8日の早朝に、豪雨で土砂崩れが発生し、長らく不通が続いていた叡山電鉄鞍馬線の市原~鞍馬が復旧工事を完了し、去る9月18日(土)初発から運転を再開しました。今朝、珍しく早起きして、散歩も兼ねて途中駅まで見に行ってきました。

叡電では、2018年9月に台風による倒木で不通となり、この時は一ヵ月半ほどで開通したものの、2年後に再び豪雨によって二ノ瀬~貴船口の線路脇の山が斜面崩壊して、叡電の線路に覆い被さり不通となり、市原~貴船口・鞍馬を京都バスで振替輸送を続けていました。  「きらら」には運転再開のステッカーが。

 

 

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈4〉

北海道の私鉄を巡る

北海道の私鉄も、ひと通りは巡っています。昭和40年代前半、電化私鉄は先述の定山渓鉄道と、少し前に米手さんが紹介された旭川電軌ぐらいで、あとはすべて運炭を目的に敷設された非電化鉄道で、簡易軌道もまだありました。寿都、美唄、真谷地、留萌、羽幌‥‥、と鉄道名を口にするだけでも、ワクワクするような魅力的な鉄道ばかりでした。ただ私にとっては、C62重連の息抜きのような感じで、あまり熱心に撮っていなかったのが悔やまれます。記念に乗車することもありましたが、ほとんど寝ていたのか、沿線風景も全く記憶に残っていません。

留萠本線の恵比島から分岐していた留萠鉄道、発車を待つ恵比島10時50分発の33D、車両はキハ1001、昭和30年製、当時流行の湘南型で、窓下の大きなヘッドライトは台車の動きと連動していた。留萠鉄道には5両のDCがいて、昭和46年の廃止後はすべて茨城交通に転じて、うち2両はいまでも車籍がある。留萠鉄道の子会社が、ロータリー式除雪用DLを開発し、その技術は昭和37年に日本除雪機製作所(現、NICHIJO)に継承され、除雪機、特殊車両等のメーカと成長した。同社の年史に写真を採用していただき、記念誌とキハ1001の模型をいただいたのも思い出(以下、昭和43年9月、一部「デジ青」掲載済み)。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈3〉

定山渓鉄道のDC

先項では札幌駅前の様子を紹介しましたが、昭和の時代の札幌駅は、4代目となる地上駅で、ホームは10面もある大きな規模でした。改札を抜けると1番ホームで、その苗穂寄りに切り欠きホームの0番ホームがあって、千歳線のDC列車の発着に使われていました。その0番ホームに停車していたのが定山渓鉄道のDC、キハ7002で、定山渓鉄道の起点の千歳線東札幌から国鉄線に乗り入れて、単独または国鉄DC併結で、札幌まで乗り入れていました。もともと、定山渓鉄道は、国鉄千歳線東札幌~苗穂を直流電化して、苗穂まで電車が乗り入れていました。国鉄の列車が輻輳するようになると、電車の乗り入れ中止を求められ、定山渓は、札幌へ乗り入れできる専用のDCを新製、待望の札幌駅へ乗り入れを果たしたのでした。

札幌駅0番ホームで発車を待つ、札幌発定山渓行きの761Dキハ7002、キハ7000形は昭和32年製、7001~7003の3両がいた。札幌乗り入れ用として、電車を走らせていた定山渓鉄道が新製した。両運、湘南スタイル、駆動方式は国鉄DCに準じている。定山渓温泉が札幌の奥座敷として賑わっていた時代は行楽客で賑わったそうだが、この時代は車内にほとんど人影がなかった(昭和43年9月、写真は「デジ青」に掲載済み)。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈2〉

北海道の路面電車

“なりゆきまかせ”、まずは前シリーズ「北海道の蒸機」に関連して、北海道の私鉄、路面電車、蒸機などを順に載せていきます。まず路面電車ですが、縮小されたとは言え、現在でも函館、札幌で元気な姿が見られるのは嬉しい限りです。人口が増加して循環線を延長した札幌は別として、人口が減少して路面電車の経営基盤を揺るがす函館が頑張っているのには拍手を送りたくなります。以下の写真を撮ったのは、昭和43年9月の初渡道のときで、五稜郭機関区で写したあと、五稜郭駅前に停車している函館市電600形を写したもの。函館には、いくつかの枝線が出ていて、本線の一部を成す路線が国鉄五稜郭駅前まで伸びていました。昭和53年1月に廃止されています。

函館市電600形、昭和29年製で601~605がいた。前面が変則二枚窓、前中後の三枚扉と、独特の番号書体と、ユニークなスタイルをしていた。扉は多客時を考慮したようだが、実際は中央扉は閉め切り扱いだった。昭和44年からワンマン化改造が始まったので、ツーマン時代の最後の撮影、しかし長持ちはせず、昭和48年には廃車されている。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈1〉

京阪七条駅の近くでやっています写真展の設営・応対も一段落しましたので、また“デジ青”に復帰します。写真展には“デジ青”読者の皆さまにも来ていただきました。ふだんは画面を通したやりとりですか、制約の多い時期に、顔を合わせてナマの話ができることの意義を感じました。“デジ青”投稿が、交流の輪をさらに広げてくれていることを実感しました。手を変え品を変えて、投稿を切らさずに継続して続けることが求められます。

さて、その投稿テーマですが、私もたくさんの鉄道写真を撮ってきました。記録媒体は、モノクロネガ、カラーポジ、カラーネガ、デジカメデータと変遷しています。重複している時期もありますが、媒体によって、保存・保管方法が異なるため横断的な検索ができず、モノクロネガ以外は、なかなか公開につながりません。たとえば、今まで発表してきた北海道の蒸機でも、三脚を並べて同じシーンをポジでも撮っていましたが、気が付かず、公開することはほとんどありませんでした。当時ポジは高価で、多くは撮れず、恣意的に撮らざるを得ず、撮影に連続性がありません。組み写真を旨とするデジ青にはなかなか載せにくい事情もありました。

なら単発でも良いではないか、むしろそれが投稿頻度を上げることにつながると思うようになりました。「思いつきOK、途中変更OK、とにかくやってみる」が私の“デジ青”姿勢です。何が出てくるか分かりませんが、昭和40、50年代に撮ったポジを片っ端からスキャンしてみました。

ポジフィルムは、50年たった今では、褪色、キズ、カビ、何でもありのヒドイ状態、いまも鮮明な画像を残しているコダクロームとは似て非なる、当時の国産ポジだった。ただ、最近の修整ソフトでいじくると、ソコソコになる。ただ書籍の印刷原稿としては問題外と思っていたところ、最近、ある鉄道雑誌に採用されるようになり、“いけるやん”となった。ためらって秘蔵しておくより、ダメ元で、どんどん発信していくべきと思うようになった。カラーポジは約300本あり、今回は、昭和40、50年代の、一駒一駒マウントしていたものを対象とした。

 

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (28)

旭川区 C55  ③  さよなら北海道の蒸機

しばらく続けていました区名板ごとに見る北海道の蒸機、少し積み残しもありますが、今回で最終としました。旭川区のC55、番号ごとに残ったC55を見ていきます。

初めて渡った北海道で最初に撮ったC55、夜行急行「利尻2号」に鉄鈍爺さんと一緒に乗って、6時41分に稚内に着いた。さすがに最北の駅は寒いぐらい。例によって線路に下りて見るとC55 50〔旭〕の牽引だった。初めての稚内は、予想よりウンと小さな駅で、島ホーム一本に側線が数本あるだけ、ごく平凡な駅だった。ただ、この日は稚内駅にとって特別な日で、開道百周年記念式に臨席の天皇・皇后が、この日の午後に初めて稚内駅まで来る歴史的な日だった。駅前はチリひとつなく、キレイに掃き清められていた。かつては、連絡船の発着場まで線路が伸びていたが、いまはあっけないほど線路がポツンと途絶えていた。(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (27)

旭川区C55 ②   C55 47  322レの旅

前回に、宗谷本線のC55の華の運用は夜行急行「利尻」と書きましたが、もう一往復、昼間に全線を通して走る普通列車321レ、322レの牽引もありました。明るい時間帯ですから、車窓から見る最北の鉄路の絶景は欲しいまま、車内はガラガラ、交換のため途中駅の停車時間も長く、C55の撮影もゆっくりできる、まさに“乗ってよし、撮ってよし”の列車でした。この列車に乗車・撮影すると、なぜか同区のC55 47の遭遇率が高く、それだけ好調なカマだったのか、昭和48年の宗谷本線の完全DL化まで働いていました。

宗谷本線と言っても稚内~旭川は約250kmもあり、ほぼ南北に走っているので、気温や積雪量は各所で差があるが、3月ともになれば、南のほうへ行くほど、路盤の雪も消えて、すっかり春の装い。稚内発小樽行き322レを牽くC55 47〔旭〕+客車4両 音威子府~筬島 (昭和47年3月、以下同じ)

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 こんな時期ですが、また写真展 やってます。

9月に入っても周囲の状況は厳しいまま、活動も制限されて、無為に毎日が過ぎて行きます。老い先短い、やり直しのきかない高齢者にとっても辛い毎日です。こんななかでも、自分の“足跡”をしっかり残していくべきと感じるようになりました。

そんな思いを持って、また性懲りもなく写真展を行っています。「伝言板」では一端を伝えしましたが、「掲示板」読者の皆さまにも改めてお伝えする次第です。今までの写真展の経緯をご存じの方にとっては、“またかいな”と思われるテーマ・会場だと重々承知しています。

そこで、今回は、少しやり方を変えました。今までは自分の写真を中心に構成していましたが、クローバー会の先輩や、お知り合いから貴重な写真を使わせもらいました。写真の幅、とくに年代の幅が広がりました。写真を補足するキャプションは詳しく、またコラム記事も作成してトリビアな話を纏めるなど、文字情報にも配慮しました。そしてニューフェイスにも加わってもらいました。私もぞっこん惚れ込んだイラストレーター8590(ヤゴクレ)さんに「七条大橋」テーマで新作を描いてもらい、ほかの作品も展示、一段と華やかに賑やかな展示になったと思っています。

また実施に当たっては、私なりの“エコ”を実践したつもりです。写真については、新プリントを原則にしながらも、使えるものは再利用を心掛けました。額などの部材は、高価で重い金属・ガラスは一切使わず、リサイクルできる紙と木だけにして、持ち運びの軽量化も考えました。企画や前作業は、全くの一人で、老人にはハードな作業でしたが、その分、自分だけのカラーが出せたと思います。あえて統一感をなくし、ギッシリ感、ボリューム感を出しました。何とか乗り越えて、体力・気力がまだ残っていたことは高齢者にとっては収穫でした。

なお、このような時期のため、開場しているのは、週のうち(木)~(日)の4日のみで、(月)~(水)は休んでいます。ご注意ください。

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉖

旭川区 C55  ①

やっと最終テーマの旭川区のC55に着きました。わらくろ屋さんから、“ぜひやってくれ”とリクエストがあってから数ヵ月が経ちました。やはり、C55そのものの魅力、走っている宗谷本線の魅力も加わって、私も渡道のたびに行きました。なかでも、“抜海現地闘争”と称して、DRFCメンバー約10人で南稚内~抜海の中間地点まで行き、「利尻富士」の標柱の立つ海沿いの絶景地でバンザイ三唱したのは、DRFC時代の最大の思い出となりました。計4回の渡道で旭川区C55を撮っていますのでソコソコの点数があり、機号別に紹介します。

宗谷本線のC55と言えば、真っ先に浮かぶのが夜行急行「利尻」の牽引だ。下り稚内行きで迎える朝の車窓も格別だが、上り札幌行きが漆黒の宗谷本線を走り続けるのも、蒸機の良さをしみじみ感じさせてくれる。停車駅では、ほとんど列車交換があるため、たっぷり停車時間があって、夜間撮影にぴったりだ。眠い眼をこすりながら、三脚を抱えて夜のホームを右往左往したものだ。幌延 C55 43(昭和44年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉕

C58④ まとめ

今まで紹介できなかったC58をランダムに紹介していきます。準特急さんが記しておられるように、C57なら番号ごとのスタイルが気になるのに、C58に至っては、十把一絡げで、番号を意識することはありませんでした。北海道のC58をまとめていても、たしかに一両ずつの個体差を意識することは少ないものの、それだけ、中庸で、穏やかで、いかにも日本の風土に溶け込んだ蒸機だと改めて感じました。温暖で純日本的な風景の方が似合うかも知れませんが、北海道の厳しい自然のなかで、逞しく生き抜いたC58に、また新たな魅力を感じたものです。

昭和44年8月、青函連絡船で早朝の函館に着いて、カーブしたホームで最初に写したのが、函館発上磯行き751レを牽くC58 213〔五〕だった。上磯まではわずか27分で、わざわざ客車列車を仕立てるのは、折返しの函館行きが通勤時間帯に当たるため。江差・松前線の旅客はほぼDC化されていて、C58が牽く客車列車は2往復のみで、貨物も牽いていた。五稜郭区には、8両のC58が配置されていた(昭和44年8月)。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉔

C58③ 最果ての根室本線を行く

釧路区C58のもうひとつの舞台が、根室本線釧路~根室の客貨列車の牽引でした。釧網本線の車窓と似た風景ですが、海岸線を走る区間があるのが特徴です。人口はさらに希薄で、駅周辺だけにわずかな生活があって、ほかは全くの原野・湿原が広がり、さらに最果て感が増してきます。さらに、釧路~根室には、通しの普通列車6本のうち1本だけがC58の牽く客貨混合列車で、あとはDC列車でした。貨物列車も走っているとは言え、駅間距離は10キロ前後のところが多く、釧網本線に比べると、アプローチの難度は高いと言えるでしょう。

太平洋に切り立った海岸段丘のうえを行く釧路発根室行き447レ、釧路~根室で唯一の客貨列車だった。吹き下ろす風が強く、黒煙が編成を隠してしまった。いまや水平線まで望めるとして著名な撮影地となったが、懇切丁寧なガイドもない時代、車窓からの印象だけ頼りに、駅を降りて闇雲に雪原を歩いて到着した。別当賀~落石 (昭和47年3月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉓

C58② 原生花園の夏と冬

釧網本線へは、昭和43年に訪れてから、その後も何回か訪れて走行中を撮影しています。釧網本線の撮影地と言えば、やはり原生花園の付近でしょう。夏は花、冬は流氷がアクセントになります。今でこそ原生花園の駅がありますが、当時は乗降場扱いで、ごく短期間の停車でした。そのため北浜、または浜小清水から歩くことになりますが、その釧網本線で客貨を牽いていたのが、北見区とともに、釧路区のC58でした。前記のとおり、釧路にC58は28両もいて、日本一のC58配置区で、釧網本線。根室本線で客貨混合列車を牽いて、活躍していました。

夏の原生花園、と言っても、訪れたのが8月の終わりから9月上旬で、花の季節は過ぎていて、ほぼ草原が広がるだけだった。北浜、浜小清水からいずれも歩いて行けるが、とにかく、どこまで行っても同じ風景が続いているだけで、いくら本数が多くても、ワンパターンの写真で終わってしまう。貨物692レを牽くC58 408〔釧〕 客車(混合)列車だけでなく、このように純粋の貨物列車も少数ながら走っていた。北浜~浜小清水(昭和43年9月)

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉒

C58① 釧網本線の旅

また北海道に戻って、《区名板》を続けます。C58は、D51、9600と並んで北海道には多くいた蒸機で、昭和40年代前半には、五稜郭、苗穂、鷲別、北見、釧路区に配置されていました。その本場は道東地方で、石北本線、釧網本線、根室本線では多くの客貨を牽いていました。石北本線・釧網本線の北見~網走~釧路は、両端にある釧路、北見区のC58が一体で運用されていて、釧路区は28両配置で、日本一のC58配置区であり、北見区も10両配置でした。まずは、石北本線、釧網本線のC58の活躍を見ていただきます。

初めて北海道を訪れた昭和43年、釧網本線のC58の牽く混合列車に乗って、ゆっくり車窓の旅を楽しんだ。当時は、列車本数も多く、ほとんどの駅では、列車交換があって、例によって“窓から写した”だけの撮影を続け、初秋の一日、たっぷり北海道の良さを感じたものだ。釧路原野のなかにある細岡で交換する、C58 127〔釧〕の牽く混合628レ (昭和43年9月、以下同じ) 続きを読む

 私の好きな電気機関車たち   ⑰(終)

電機の似合う駅

電機シリーズもこれで最終とします。“電機のいちばん似合う駅は?”と考えることがあります。私個人としては、京都駅1番ホーム(現・0番)の西端から見る、上り列車の入線シーンも大好きです。当時、二本あった中線を“ダダッダー”と交差音を残して、外へ編成を振りながら、1番ホームで待つ乗客の前に進んで行きます。その先頭に立つ電機の迫力に惚れ惚れしました。

しかし全国的に見れば、やはり上野駅にとどめを刺すのではないでしょうか。東北地方への出発駅として電機の発着で賑わい、独特の終端駅の雰囲気を持ち、推進運転の入線・回送シーンも見られました。でも列車写真、編成写真として見れば、これほど写しにくい駅もありません。ここは、やはり人も絡めた終着駅としての雰囲気写真になるのでしょう。私も昭和の時代、上野駅は利用した口ですが、撮影はほとんどしていません。上野から出発する時は、座席のことが心配で、落ち着いて写すどころではなく、逆に戻って来た時は、ほとんどが夜行で疲労困憊の体で降りて、撮影意欲など湧くはずもなく、そそくさと去っていきました。

上野駅に似合う電機は、やはりEF57だろう。青森行き「津軽2号」を牽くEF57 5、8月も下旬になると、さすがに盆の頃の混雑はないが、出世列車として名高い「津軽」はよく混む。上野では、前へ行くほど空いているから、とにかく自由席車の一番前の車両に乗車、首尾良く右側窓寄りの席をゲット、編成調べをしてから、やっと落ち着いて牽引のEF575を観察できた。22時22分、“ピーィ”という甲高いホイッスルを残して上野を発車。1両目だから貫通扉の向こうにEF57のデッキがユラユラしているのが見える。気分は、もう東北・北海道だった(昭和46年8月)。

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 私の好きな電気機関車たち   ⑯

幻のEB10

当時愛読していた「機関車ガイドブツク」などを見ると、電機の項で最初に出てくるのがEB10でした。国鉄の制式電機では唯一のEB電機、しかも買収電機ではなく、蓄電池機関車AB10を電機に改造した純粋の国鉄機で、端部はRが付いた、好ましいスタイルの凸電です。最初に憧れたのは、やはり模型の時代でした。ED電機に熱を上げていた中学生時代、天賞堂から発売されたのが、EB10でした。    愛読していた「鉄道ピクトリアル」にもEB10発売の広告が。

「ディテール豊かなプラスティック車体に、ダイカスト製の丈夫な台車」と説明され、いかにも天賞堂らしく、ほかのED電機の仕上りとは一線を画しています。ただ、値段が完成品1990円(東京売価)で、EBのくせに、ほかのED電機より500円以上高くて、中学生にとっては高嶺の花となりました。

DRFCに入るようになって、せめて写真だけでも撮りたい思いが募り、昭和46年2月、東京は王子駅に降り立ちました。当時の数少ない情報では、わずか2両のEB10は田端機関区所属であるものの、普段は、王子から出ている日産化学などがある須賀貨物線で動いていること、本には、その当時には珍しく運用表まで載っていて、王子で待ち構えれば、間違いなくEB10が撮れると、期待感いっぱいの下車でした。鉄道雑誌の記事を手書きでノートに筆写して勇躍、東京へ向かった。

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