「信号場」を巡る  ⑪

t関西本線 中在家信号場 (なかざいけ)

しばらく「信号場」テーマが途絶えていましたが、残り分を連続掲載します。中在家信号場は、典型的なスイッチバック式信号場で、前後には25‰勾配、補機付きの蒸機貨物が行き来しました。われわれの現役時代、春の新入生歓迎旅行、秋の一泊旅行は、決まって「加太」「村田屋」「中在家」3点セットで行われたものでした。京都から列車に乗って2時間ほど、土曜日なら午前の授業を終えてから、加太には夕方到着、付近で軽く撮ったあと、村田屋に投宿して、夜はドンちゃん騒ぎと二階から見る投炭の赤い煙に感動、翌日は、寝不足でフラフラになって、中在家信号場へ、さらには山越えして柘植まで歩き、蒸機撮影を堪能したものです。初めて中在家信号場は、高校1年の時、初めての一眼レフを持って、勇躍一人で加太に降り立った。雪の残る4.6キロの線路端を歩いて中在家信号場に到着すると、ちょうど上下の貨物の交換があった。せっかくのスイッチバック、その高低差がわかるようにと撮影場所を決めた。慣れないカメラゆえ、ほとんどがカメラブレ、辛うじて見られた一枚だった(1965年12月)。

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 ここらでボンネットバス 近畿編 〈19〉

吉野山上を走る吉野大峯ケーブル自動車

前項で紹介の吉野山のボンネットバス以上に珍しいバスが、定期路線として吉野山上を走っていました。奈良県のバス事業は奈良交通グループが独占していましたが、唯一の例外が、吉野山上を走る路線バス会社、吉野大峯ケーブル自動車でした。同社のケーブル部門は、日本最古のロープウェイとして、近鉄吉野駅前から吉野山を結んでいましたが、自動車部門もあって、。通常はケーブル吉野山駅から奥千本までを約35分で結び、4台の路線バスで運転されていました。2台はよくあるマイクロバスですが、あとの2台は、ボンネットバス以上に珍しい、キャブオーバー式のバスが使われていました(昭和60年4月撮影)。終点の「奥千本前」に到着した吉野大峯ケーブル自動車、これが、そのバス。吉野で最後に咲く桜の名所、奥千本はこの付近。

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 ここらでボンネットバス 近畿編 〈18〉

奈良交通 (4)

定期路線を終えた奈良交通のボンネットバスは、前項のように観光目的の路線バス、定期観光コースにたびたび使われて、すっかり奈良の名物になります。昭和60年の4月には、日本一の桜の名所、吉野山の観桜時期に、ボンネットバス「さくら号」が運転されました。桜の見頃に合わせて、同年の4月13日から、近鉄吉野駅~如意輪寺~中千本公園の約6キロで運転された。近鉄吉野駅~吉野山上への公共交通は、吉野大峯ケーブル(実際はロープウェイ)だけだったが、奈良交通がこの年、初めて路線認可を受けて、5月連休までの期間運転となった。大挙押し寄せる花見客に、ボンネットバスだけでは対応できず、一般の路線車も応援に駆け付けた。

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 わが鉄道熱中時代 (13) 山崎50・3改正編

貨物を牽く電機

「山崎50・3改正編」の最後として、貨物列車を牽く電気機関車を見ていただきます。貨物輸送のピークは過ぎていたものの、東海道・山陽本線が貨物輸送の大動脈であることに変わりはなく、多くの貨物列車が運転されていました。コンテナ専用列車も運転されているとは言え、二軸車、ボギー車など、雑多な貨車から編成された集結輸送方式が主流でした。牽引機も、デッキ付きの旧型電機こそ山崎には姿を見せなかったものの、60番代電機も第二世代に変わり、EF 66、 EF 81の新世代の電気も次第に勢力を伸ばしていました。東海道・山陽筋の電機の主流は、EF 65の0番代で、吹田二区、稲沢に大量配置されていたが、浜松、沼津の両区には、EF 60がまだ64両配置されていた。なかでも前照灯1個のEF601~83が元気に動いていた。

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 わが鉄道熱中時代 (12) 山崎50・3改正編

近郊電車編

昭和50年3月改正直前の山崎付近の列車、特急・急行のあとは、近郊電車です。中心となる「快速」は、昭和39年から80系との置き換えが始まった113系電車一色で運転されていました。いっぽう、昭和45年から運転を開始した「新快速」は、この時期、山陽筋の急行電車から転進した153系〝ブルーライナー〟が、第二世代の新快速として運転されていました。昭和45年に運転開始の「新快速」は、万博輸送で活躍したスカ色の113系が、日中のみ一時間ヘッドで京都~西明石を結んだ。昭和47年3月になると、山陽新幹線の岡山開業により、急行に使用していた153系には余剰が生じ、新快速の増発・増便用に転用されることになり、6両に編成替えのうえ、塗装も改めて〝ブルーライナー〟の愛称で運転されることになった。先頭車のクハ153には、低窓車、高窓車、さらにクハ165もあってバラエティーに富んでいたが、低窓車は意外とこの塗装に似合っていた(昭和50年、神足~山崎~高槻、以下同じ)。

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 わが鉄道熱中時代 (11) 山崎50・3改正編

夜行急行も大幅削減

53・ 3改正の趣味上のトピックは、山陽・東海道筋では、EF 58牽引のブルトレがほぼ全滅、加えて装備されるヘッドマークが無くなることの2点で、寝台特急に話題が集中していましたが、特急を補完していた夜行急行も大幅に削減されます。私にとっては乗ったこともない寝台特急よりも、何度も乗車した夜行急行に、より惜別の思いが強くなったものです。新大阪基準で見ると「阿蘇」「西海」「日南」「桜島」「高千穂」「天草」「雲仙」「屋久島」(季節臨含む)など、大部分が廃止、残った愛称も経路や車種の変更が行われました。今回は夜行急行列車に焦点を当てます。 EF61 14[広]の牽く名古屋行き「阿蘇」。 EF 61は18両全機が広島区に配置され東海道・山陽本線の急行・荷物列車の牽引に当たっていて、EF58とは別運用だった。EF 58牽引がほとんど占める客車牽引にあって、その優美なスタイルは際立っていた(昭和50年3月、山崎、以下同じ)

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 わが鉄道熱中時代 (10) 山崎50・3改正編

紫の1863さんのコメントで気がつきました。今回テーマの昭和50年3月改正から今年でちょうど50年が経過したのですね。大きな時刻改正は時間軸で覚えているものです。新幹線ができた3910改正は〝かなり昔〟、白紙大改正が行われた4310改正は〝やや昔〟この5003改正は〝ちょっと昔〟という感覚でしたが、50年も経過していたとは‥。今回も寝台特急を見ていきます。「あかつき」と並んで本数の多かったブルトレが、日豊本線を始終発とする「彗星」だった。4310改正で新設されて、改正ごとに本数を増やし、5003改正前には都城発1往復、宮崎発、大分発が各2往復と、計5往復の新大阪行きが設定されていた。広島区の若番、EF58 8の牽く「彗星1号」、回送とはいえ、新快速も走る外線のこと、かなりの速度で通過する(以下、山崎付近、昭和50年3月)。

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 わが鉄道熱中時代 (9) 山崎50・3改正編

先週3日間東京へ行き、人に会ったり、写真展の見学をしていました。そこで多くの方から聞いたのが、「〝デジ青〟見てます」の声、改めて感じ入りました。私も老骨にムチ打って、まだ続けます。変化球勝負は置いておき、正統な(?)列車・車両の思い出から〝熱中時代シリーズ〟今までの「山科大カーブ」「交直接続区間」に続いて、昭和50(1975)年3月改正の前後の「山崎」としました。

山崎の朝  EF58ブルトレのヘッドマークが輝いた

昭和50年3月のダイヤ改正では、山陽新幹線博多開業に伴い、関西発着の在来線優等列車が大幅に削減・再編され、とくに昼行特急・急行の廃止、夜行列車の整理が顕著でした。 昼行特急は、岡山発着の「つばめ」「はと」「しおじ」、京都発着「かもめ」も廃止、急行も関西を通る「桜島」「高千穂」「天草」「日南」なども廃止され九州方面の昼行優等列車は新幹線に置き換えられます。夜行列車も整理・再編、寝台特急(ブルトレ)は一部存続するも、大幅削減され、関西〜九州間の旅客輸送は、新幹線接続を前提とした再編が進みました。また湖西線の開業により、北陸方面の列車体系にも変化が生じました。 初めて山崎に撮影に行ったのは、高校1年生、昭和40年の秋だった。これから紹介する寝台特急「あかつき」が昭和40年10月改正で誕生、関西では初めて明るいうちにブルートレインが見られたのだった。さっそく山崎へ行き、丸っこい20系後部を写すことができて大満足だった。

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 いろいろ やります、やってます。 

用件が立て込んで、デジ青投稿もままならない状態が続いていますが、気がつくと写真展など関係する催事の発表も遅れてしまって、開催中、と言うかあと数日で終わってしまう写真展も含め、一挙ひとまとめにご案内します。

◎ もう終わりますが また江若鉄道写真展

つい先ごろやったばかりですが、舌の根も乾かないうちの江若鉄道写真展、近江今津駅近くでやっています。

琵琶湖岸に沿って、浜大津から近江今津へ~江若鉄道写真展

10月1日(水)~31日(金)滋賀銀行今津支店  (銀行営業時間のみ開催)

滋賀銀行での写真展は、高島町支店、志賀町支店に続き、3回目の開催となります。限られたスペースの銀行ロビー展でありしかも今津では、コミセンで何度も開催しています。全く変わり映えのしない写真内容ですが、世代交代も進んでいます。少しでも多くの方に、会場のすぐ近くに江若鉄道が発着していた事実を知っていただきたいと思っています。気が付けば、残り5日間だけの開催です。会場の銀行支店は、写真の江若の近江今津駅とは目と鼻の距離にあった。ところが、開催を願い出た銀行担当者は、その史実を全くご存じない。しかし、知らないのが世間の常識、知っているのは老人だけと納得、不断の告知の必要性を感じた。後世に江若鉄道の思いを継いでいく「江若鉄道を語り継ぐ会」の会議が昨日行われて、私も参加、晩の21時まで今後の活動計画を侃々諤々で進めた。

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 ここらでボンネットバス 近畿編 〈17〉

奈良交通 (3)

奈良交通のボンネットバスは、その後も観光目的の路線バス、また定期観光コースにたびたび使われて、すっかり奈良の名物となります。昭和57年9月23日からは、定期観光バスとして新設されたHコース「たそがれの古都めぐり」に、ボンネットバスが充当されました。毎日運転の一日一便で、15:15に国鉄奈良駅前を発車、近鉄奈良駅前に寄ったあと、興福寺、唐招提寺、薬師寺、平城宮跡、さらに新薬師寺を回って約3時間で元に戻るというコース、料金は2050円でした。今回も、最初は乗車してコースを熟知し、撮影地などを見聞したあと、後日撮影に向かいました。 「奈2あ18-67」が専用で使われた。

白鳳伽藍の薬師寺や、鑑真和上ゆかりの唐招提寺と、西ノ京エリアに足を伸ばしたのが、今回の「たそがれの古都めぐり」、あらたな撮影ポイントも提供した(昭和58年10月)。

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 ここらでボンネットバス 近畿編 〈16〉

奈良交通 (2)

奈良交通のボンネットバスは、前記のように昭和54年(1979年)2月に、一般の路線バス路線から撤退します。この頃、ボンネットバスへの関心が高まり、各地で観光用に転用される例が多くなりました。奈良交通の地盤は、まさに最適の地であり、ボンネットバスの活躍が再び見られるようになります。その後、奈良交通のボンネットバスは、休眠と復活を繰り返し、現在でも奈良交通創立70周年記念に再々登録され、貸切ツアーなどで活躍しています。〝ボンネット号〟の愛称を付けて、路線の廃止後、バスガイドを乗せて復活することになった「奈2あ18-66」(以下、昭和54年5月)

 

 

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 「信号場」を巡る  ⑩

飯田線 大沢(おおさわ)信号場

私鉄が出自で、駅数の多い飯田線にも、一ヵ所だけ信号場があります。伊那田島~高遠原にある大沢信号場で、輸送力強化のため昭和41年3月に開設、同時に伊那本郷、伊那新町にも交換設備が設けられています。ちょうど天竜峡〜長野の「天竜」、新宿〜駒ヶ根の「こまがね」など、飯田線にも優等列車が新設された時期と重なっています。大沢信号場は、周囲は果樹園が広がっていて、伊那盆地の扇状地にあり、西から東へとなだらかに傾斜しています。上り線(豊橋方面)が東側に腹付けで線増されました。一線スルーの大沢信号場を右側通行して行くED19 4の牽く上り貨物。乗車した対向列車の窓から撮影、右手で乗務員が敬礼の仕草をしているように見える。タブレット閉塞で、係員が常駐していた。昭和58年に飯田~辰野がCTC化され無人化された。現在でも交換が行われているようだ(昭和45年8月)。

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 「信号場」を巡る  ⑨

前回の「信号場」、窓から写しただけ、列車も後部から写しただけ、そんなテーマでも皆さんから暖かいコメントをいただき感激しています。こんな年寄りのテーマでも、地道に続けていけば報われる、そう感じてまた続けます。

篠ノ井線 桑ノ原(くわのはら)信号場

いまも現役、しかもスイッチバック式と、貴重な桑ノ原信号場。乗車した新宿発長野行き421レから、通過していく長野発甲府・名古屋行き446レを見る。スイッチバックらしく、わずかに高低差があることがわかる。446レは甲府・名古屋行きとなっているが、名古屋行きは松本から連結と時刻表の脚注にあった。平坦な松本~塩尻は2列車併結、12両以上で走ったと思われる。、DD51 37[長]+客車7両 (昭和43年2月) 

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 「信号場」を巡る  ⑧

では「信号場」を続けます。北陸本線は、羽越本線と並んで日本海縦貫線を形成し、列車ダイヤも輻輳し、信号場が各所に設けられました。北陸本線は東へ向けて電化工事が進捗し、撮影した昭和44(1969)年当時、糸魚川~直江津が最後の非電化、単線区間として残っていました。

北陸本線 百川(ももかわ)信号場

非電化区間の糸魚川~直江津にあり、能生~筒石6.4kmの間に、昭和37年9月に開設された。2線だけの標準的な信号場だった。昭和44年9月、浦本~有間川は、長大トンネルを含む複線電化となり、ほとんどの区間がルート変更になり新線に切り替えられ、能生、筒石、名立の3駅が移転した。糸魚川~直江津にあった木浦(信)、西名立(信)とともに、百川信号場も廃止された(昭和44年8月)。平坦な場所に設けられた、ごく平凡な配線の百川信号場である。直江津~糸魚川間は、区間内の信号場はすべて廃止となった。信号場が設けられた能生~筒石といえば、昔から日本海が迫る海岸沿いのルートで有数の地滑り地帯として過去に多くの災害が発生していた。とくに記憶に残るのは、昭和38年3月の能生での大地滑りにより列車が巻き込まれ、牽引していたC57 90が日本海まで押し流された。機は現地解体されて廃車になったが、剥がれ落ちたナンバープレートを救助に向かった国鉄職員が抱きかかえている写真が、「鉄道ピクトリアル」に載っていたことが記憶に残っている。

「白鳥」交換 昭和36年10月改正で82系特急「白鳥」がデビュー、上下の「白鳥」が、隣駅の能生で運転停車して交換することになった。能生にも「白鳥」が停車するとカン違いした地元民が運転初日、花束を持って歓迎式をしたところ、「白鳥」はたしかに停車したものの、ドアは開かず、反対方向の「白鳥」と交換すると、さっさと出て行ったのは有名な逸話(これは金鉄局が、能生は運転停車なのに、客扱い停車と思い違いして、地域に配布する時刻表に「白鳥」停車を載せてしまったことに起因すると言われている)。この百川信号場が新設されたのは、「白鳥」騒ぎの翌年のことになる(写真は、AHさんから提供していただきました)。

 では 広島駅でお会いしましょう

いよいよ明日となりました。クローバー会の広島電鉄貸切乗車会、駅前大橋線が開業して早くも2ヵ月、開業後すぐにも行って新駅から飛び出す電車をこの眼で確かめたい思いでしたが、明日まで我慢と封印していました。明日は、なつかしいアノ電車に、みんなと乗れるのですから、期待感もひとしおです。

初めての広島駅を思い出す

新幹線に乗れば1時間30分で広島へ行けるのに、私には高校生の頃、夜行鈍行に揺られて、半日かけて広島に着いた時の肌感覚がまだ残っています。以来、広島へは何度も行きました。いつの時代も、蒸機から最新のLRVまで、さらにはバスまでも、心ときめかせる街でした。今回は、まだ本線に蒸機が走っていた時代から、先ごろまでの広島駅の風景を見ていただきましょう。

一人旅で夜行に乗って広島駅に着いたのは、高校一年生の昭和41年3月、駅で初めて写したのは、呉線のC59、C62ではなく、意外にもブルトレだった。当時、関西で昼間見られるのは、「あかつき」だけで、東京発ブルトレは夜間通過で、関西では見ることができない憧れの列車で、次つぎと広島駅1番ホームに到着するブルトレには圧倒された。「あさかぜ」を65Pトップが牽く正調派のブルトレだった。背後に昭和40年12月にできたばかりの広島駅ビルが見える。

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 ここらでボンネットバス 近畿編 〈15〉

奈良交通 ①

ここらでバスに参りましょう。今までの投稿のなかで、バスネタには意外な人気があり、閲覧、コメントも多いように見えます。今まで京都市バスに特化したテーマのほか、関西各地を走ってきたボンネットバスも、今まで京阪バス(京都・大阪・滋賀)、江若交通(滋賀)を紹介しました。今回は、奈良県下に路線網を広げる奈良交通です。

1960年代には、奈良交通に多くのボンネットバスが走っていました。運転区間には狭隘区間や山間部も多く、ボンネットが好まれたのかもしれません。次第にリア・エンジン車に置き換えられ、写真を撮り始めた1975年ごろには、高田、五條の2営業所のみの配属となりました。それでも近畿のボンネットバス路線としては、有数の台数、路線を持っていました。奈良交通のボンネットバス、鹿のマークに若草色と、おなじみの奈良交通塗装のボンネットバスが、昭和の時代に走っていた。その後も観光用として生き残り、いまも1台が観光・貸切用として走っている(昭和50年3月、平端駅前)。

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 「信号場」を巡る  ⑦

羽越本線の信号場のこと記していますが、「岡山好き」さんが、本欄で、「日本海の絶景」として現在の羽越本線を記しています。記事を見ますと、羽越本線を走っているのは、GV-E100形とかH100形とか、形式名にカタカナの付かない気動車ばかり、最後に「羽越本線でE129や115系を見てみたかった」と結んでいます。なるほど、蒸機や旧型客車なら、若いファンにとっては、もう有史以前の石器時代の出来事に映るのでしょう。でも、現代と石器時代が仲良く同居するのも「デジ青」の魅力なのです。羽越本線の女鹿信号場で交換するC57 181の牽く下り列車、羽越本線は、全線でC57の活躍が見られた(昭和46年9月

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 「信号場」を巡る  ⑥

暑かった夏もいつの間にか去って、気がつけばもう10月、「デジ青」にご無沙汰でホント申し訳ありません。会う方、会う方から〝どうしゃはったん〟〝いよいよダメかなと思てました〟など、身体のことを心配していただきました。いえいえ、私は身体はいたって元気なのですが、8月、9月といくつも出稿が重なって、デジ青になかなか近づけませんでした。ようやく山場も越えて時間も取れるようになりました。これまでの穴を埋めるべく、せっせと投稿して行きます

羽越本線の信号場 (1)

8月までの「信号場」の続きです。昔、列車に乗っていると、駅でもないところに停車、すると向こうから煌々とライトを輝かせて交換列車が通過して行く‥、そんな思い出も過去のものになった「信号場」です。旅客営業を行わないため、人里離れたところに設置されることが多く、駅とは別の興味深い対象なのです。

昭和40年代初頭、本線格の東北本線でも、非電化、単線区間が盛岡以北には、いくつもの信号場があり、北海道へ向かう長大な貨物列車が交換していました。それが昭和43年10月に電化が完成、複線化も促進されて、信号場は姿を消していきます。ただ、まだ〝亜幹線〟と呼ばれる線区には非電化、単線区間が多く、いくつかの信号場が存在していました。

桂根(かつらね)信号場

羽越本線の秋田寄りにある信号場で、新屋~下浜7.3kmの間に昭和36年に開設された。当初から仮乗降場として旅客の取り扱いが行われていたが、時刻表には記載がなかった。構内は全体がカーブしていた。桂根信号場は、昭和61年、国鉄分割民営化に伴い、JR東日本の桂根駅へと昇格した。構内がカーブしていた桂根信号場、乗車した827と、D51370[秋]の牽く秋田発酒田行き836レと交換する。ごく短いホームがあり、ここで仮乗降場として、旅客を扱っていたようだが、周囲に人家は見当たらない(昭和44年8月)。

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 「信号場」を巡る   ⑤

消えた常紋信号場を 列車から観察

常紋信号場は、昭和50年には臨時乗降場の機能を終えて、旅客の乗降がなくなり、時刻表から「常紋」の名が消えます。ただ、石北本線から蒸機が消え、貨物を中心に列車の削減が行われてからも、常紋信号場は、スイッチバック式の交換設備を持つ信号場としての機能が残っていました。そして平成23(2011)年に列車交換の設備は停止され閉塞の区切りとしての信号場となりました。そして平成29(2017)年、ついに常紋信号場は廃止され、常紋信号場は名実ともに姿を消しました。それから2年後の2019年2月に、北見から旭川まで特別快速「きたみ」に乗って、運転室前から、その面影を写して来ました。キハ54 503単行の特別快速「きたみ」3582Dは、石北本線の金華を出るといきなりの25‰勾配、エンジンの唸りも高らかに雪原を進む。右に左に何度もカーブすること数分、正面に、常紋信号場の交換設備のあった築堤が見えて来た、信号場時代に造られた大規模なスノーシェッドも見えて来る。

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