新幹線開業後の山科大カーブで熱中する ②
昭和39年10月、東海道新幹線開業後の山科大カーブを行き交った列車、今回は昼間の急行・準急列車、貨物列車です。昼間は、電車特急こそなくなったものの、急行・準急にはほとんど変化がなく運転されていました。ただ、その後の改正のたびに、廃止されていく運命にありました。▲電車特急を補完する東京~大阪(神戸)の電車急行は、新幹線開業後、一部の廃止があったものの、「六甲」「なにわ」「いこま」「よど」と、関西由来の愛称の4本が運転された。新幹線には、まだ高値感があり、主要な駅に停車し、自由席が主体の電車急行は、つねに人気があった。
▲新幹線開業時に、北陸線は金沢-富山の電化が完成、電車急行「ゆのくに」「加賀」の一部が富山まで延長されて「越山」となった。「越山」は、田中角栄絡みではなく、本来は、富山の旧国名を採って「越中」にすべきところ、さすがに忌避されて、富山県の新旧の国名、越中と富山から一字ずつ採ったと言う。造語の愛称は馴染みがなく、わずか1年後に「立山」に統合された。▲大阪~名古屋に準急「比叡」が運転され、全指定席の「伊吹」もあった。電車急行と車内設備はほぼ同じで、準急料金100円で利用できたので人気があったが、改正のたびに減少していく。▲DCも山科を走っていた。京都発鳥羽行き準急「志摩1号」。昭和40年3月改正で姫路~鳥羽、客車の鳥羽快速に代わって、DC準急「志摩」となった。単独の準急でも、この長編成だった。▲客車もまだ走っていた。これは、北陸本線から来る、富山発大阪行き532レ、日本海縦貫線からの長距離列車は客車ばかりで、急行「立山」もまだ客車だった。▲東海道でも臨時列車はまだ客車で残っていた。大阪発東京行きの臨時急行3032レで愛称が付いていない。8月1日から3日までの3日間のみの運転のためか、珍しい愛称なしの急行だった。さすがに認知度は低いようで、開いている窓も少ない。スジそのものは、不定期急行「桜島」を使っていた。▲いっぽうの貨物列車、デッキ付きのEF15がなくなり、新しいEF65が続々と増備されている期間だった。▲貨物牽引の中心はEF60が中心だった。0番台の初期車、1個ライトのEF6037がEH1044と重連で行く。