2023年の水害以来復旧の目処の立たない山口県下を南北に貫く美祢線について、過去の記録もあるので、遅筆であるが先月書きかけた記事を進めてみる。
写真は昨年2024年8月27日に目撃した、美祢線の中間駅於福の運休中の現状である。
線路は1年以上の休止で錆びて、駅の建物内では地元の人たちの会合が開かれていた。話の内容は聞けなかったが、無人駅になり長い時間も過ぎて、諦めムードも強いと思った。
この時は萩出身の同級生の実家の片付けがてらに、一年上の先輩も加わり3人で珍道中の旅をして、閑散区間になった山陰本線と共に、学生時代以来の鍾乳洞、「秋芳洞」見物のあと、付近に出たので、於福駅を見学することにした。
美祢線は先に廃止となった盲腸線の終点、大嶺付近から産出される良質の無煙炭を運び出すために1905年に山陽鉄道が開通させた歴史の古い路線である。そのスタートには海軍と日露戦争が絡んでいる。

1978年4月に写した大嶺終点付近の風景
美祢線を往くセメント原料の貨物列車。この線区の最大の特徴は、美祢市の中心付近で掘り出される石灰石物質を、瀬戸内側の宇部・小野田の工業地区に運ぶためのマテリアル運輸路線として、石炭需要が減少したのちも、収益は大変良い数字を出して、栄えたことが印象深い。山陽本線の厚狭から宇部の区間は、本線の複線+1本の貨物線が並走して、珍しい風景が国鉄時代には広がっていた。

美祢線の名物であったセメント貨物列車 1978年4月

「3複線区間」山陽本線厚狭付近にて 1977年2月

雪の山陽本線区間を行く石灰石列車
今は普通列車のみで、車体長の短いキハ120の単行だが、半世紀前は急行列車があり、普通列車の両数も長かった。

雪の信号所交換 対向列車の有効延長が貨物のため長い 厚保信号所 1977年2月

支線を分岐していた南大嶺駅 停車中の1両のキハ20が大嶺との連絡交通 1977年2月

雪の日の美祢線
開業当初の終点、大嶺駅を写している。
実際に乗車は出来ていないが、大変貴重な記録だと思う。この日は浪人中であったが、付近の船木鉄道の廃線跡を見て、帰る途中に大嶺線を見に行っている。

大嶺駅 1978年4月
駅前に残っていた無煙炭の会社の社屋をあらためて見て驚く。山陽鉄道の社章ではないか。開通当時の山鉄の関連企業が明治の買収後も戦後の昭和末期まで残っていたのであろう。


山間の淋しい風景をいくキハ20 1978年4月
帰る途中にすれ違った急行「あきよし」 なんと浜田からスタート、益田から急行になり美祢線編成と山口線編成に分かれて、厚狭で再びドッキング。関門トンネルを潜ると小倉から日田彦山線で最後は久大線天ヶ瀬まで行くという観光列車だった。こういう列車が消えて美祢線も日田彦山線奥部もレールが消えて行くのは、残念な思いがする。

普段の3連に増結が付いて5連で美祢線を快走する「あきよし」1978年4月

途中駅ですれ違った急行「あきよし」1981年7月

南大嶺駅は開業時は伊佐駅であった 大嶺行き単行を写す 1981年7月