
乗り継ぎ時間中に、特急<ソニック>に道を譲る。
中津からは大分方面へ向かう幸崎行きに乗り換えます。こちらも813系による3両編成でしたが、座席の撤去はされていませんでした。3両ですがワンマン列車であることに驚きます。
特急<ソニック>の後を追う形で、13時16分に中津を発車します。車内は先ほどよりも空いていました。列車は左手奥の方にうっすらと周防灘を見つつ、大分県を南下していきます。豊前長洲から列車は山間部へと進みます。先ほどまで晴れていましたが、雲が目立ち始め、雨も落ちてきました。宇佐八幡宮で有名な宇佐を過ぎると、列車は立石峠に差し掛かります。かつては、宗太郎越えと並んで日豊本線の難所だったようですが、列車はトンネルやカーブを駆使して難なく越えていきます。やがて峠を下り、豊後亀岡付近で左手に別府湾が広がります。大分までしばしの間、オーシャンビューを楽しみました。

杵築は歴史的建造物が多く残るため、駅もその景観に合わせたデザイン。

別府湾を臨む。手前の道路は別大国道で、かつては大分交通別大線も走っていた。
大分には15時前の到着。せっかく「おんせん県」に来たので温泉に入りたいと思いました。駅前のJRおおいたシティに「シティスパてんくう」という温泉施設があるため、そこへ行くことにしました。エレベーターで19階まで行き、受付を済ませていよいよ入浴。20階に内湯、21階に露天風呂がありました。大分市内の街並みや別府湾が一望でき、存分にくつろぐことができました。

大分駅に並ぶ列車たち。

JR西日本の検測車、ドクターWESTにも偶然遭遇。

大分駅の府内口は、レンガ風の立派な駅舎。

シティスパてんくうのフロントより。湯船からは、さらに良い景色を堪能できた。
リフレッシュした後は、16時10分の佐伯行きに乗車。2両編成の車内は帰宅する高校生で混み合っていました。日豊本線もここから先の区間は、ローカル色が濃くなります。通学路線の常で、1駅ごとに少しずつ車内が空いていくという様子で列車は走ります。佐伯までは1時間半の道のりですが、大分から長距離通学している高校生も数人いたことには驚きました。日豊本線は特急が主力ということもあり、普通列車の姿も山陽本線とは異なる趣がありました。(続く)

大分から乗車した佐伯行きは2両編成。ちょうど高校生の帰宅時間帯と重なった。

津久見では、側線に引退した415系電車が疎開留置されていた。

夕食は佐伯駅前のお店にて、とり天定食をいただいた。








岡山好きの元京都人様
ドクターWESTの守備範囲が広いですね。まさにユーティリティプレーヤーです。
大分といえばとり天ですよね。ご当地の食べ物を食してこそ、本当の旅通です。さすがは旅好きの元京都人さん!
奈良の駅名研究家様
ありがとうございます。移動中心であっても、地元の名物を食べることやプチ観光をすることで楽しさが増します。
ドクターWESTとの遭遇は全く予想していませんでしたので、驚きでした。
1964年8月18日、宇佐駅、宇佐八幡行の列車です。
藤本哲男様
先週に引き続き、ありがとうございます。
宇佐八幡まで列車で行くことができれば、さらに便利だったことでしょうね。
こちらは、豊後高田行です。
岡山好きの元京都人様
1969年2月24日の大分駅前電停です。この頃は大分交通別大線が大分駅前-西大分-東別府駅前-北浜-亀川駅前を日豊本線に並行して結んでいました。1971年に大分県が国道10号(別大国道)の交通緩和対策として2車線から4車線への拡幅を目論み、大分交通に対して別大線の撤去を要請し、1972年4月5日に全線が廃止となりました。
失礼します。
1970年当時大分市に住んでいて、別大線にも乗っていますし廃止の時も居りました。
別大電車は九州で最初の電気鉄道で、大野川に沈堕ダムを造った人が電力を利用して、日豊本線が延びて来る以前に別府大分間の交通を創設しました。
道路事情で廃止は、後年大変惜しく思います。
2020年に50年ぶりに大分で一年仕事に行き、当時の熊本市の私鉄+路面電車の存在で賑やかさを比較して、より関西に海上交通などで縁の深い東九州の寂れように残念に思った記憶が甦りました。
日豊側には新幹線は未来も生まれないと思います。
東九州の雄であった大分交通という会社も大分バスよりも苦しい経営に思えました。