参宮急行デ2200は新京阪デイ100、阪和モヨ100とともに当時の関西の代表的電車と言われた。走行距離、車両の大きさ(20m車長は大阪鉄道デニ500、南海電九301系2001形に次ぐ)、大出力電動機に発電ブレーキ併設で連続33パーミルのアップダウン走行、省線の2等車並みのシート等からも日本最高電車と言われた。近鉄2200系は1930(昭和5)年から製造された57両と1939(昭和14)年から製造された2227系26両に分けられる。尚、晩年は1930年製2200系57両はほとんどが3扉化され、さらに2200系は1953(昭和28)年製造の元特急用の2250系20両(元貴賓車2600含む)を加えて同一の編成(悪く言えばガラクタ編成)で走っていた。私の撮影は1967年11月29日上本町駅である。
急行宇治山田行きの列車種別行先板を誇らしげに上本町駅発車待ち2306の端正な姿である。2306は元デトニ2306で特別室と荷物室を持っていて晩年は特別室は一般開放していたのでよく乗車したが、伊勢商人の担ぎ屋さんが占領したのか魚の匂いが残っていて閉口したものである。▼
最後まで2扉で残っていた2205。扉が大きく離れている車両は私鉄ではあまりなかったものと思われる。運転室横の片目は皆さんご存知の通りトイレである。修学旅行は関東は日光、関西は伊勢が定番だった。私も修学旅行のスナップ写真に残っている車内は2200でこれで伊勢に行った。▼
2205の横に荷物か新聞の袋詰めの様なものを載せた台車が見られる。長距離列車のターミナルの雰囲気である。▼
2227形の2243を横から見たもので特徴ある張り上げ屋根や扉の位置などから新旧2200はまるで別形式である。ホームには列車種別行先板が収められているケースがあるが関西ターミナル駅にはよく見られた。大きな竹かごは近鉄特有のものなのかはわからない。大阪の有名校に電車通学でもしているところか品の良さそうな小学生が二人写っている。近鉄も番号を誇らしげに切り抜き文字で大きく表示してくれるのは有難い。▼
上の2243の正面は異色のツーライトである。1968年9月29日名古屋線白塚駅での2243である。▼


準特急様
蒸機は遠くなりにけり、それ以上に昔に感じられる2200系です。学生時代は生野区に住んでいましたので、今里駅で見かけていた車両ですが、軌間が国鉄より広いので、一層大きく安定感がある印象で、かつごっつい台車や濃い塗色で重たそうやな、と感じながら眺めていたものです。
小学校修学旅行は、もちろんお伊勢さんですが、次の時代のツートンカラーの車両だったような記憶です。鮮魚電車の鶴橋駅での荷おろし風景も懐かしいですね。
高田幸男様
DRFCの中では最も2200系を見られた方ですね。奈良線も大阪線も身近にあり近鉄が日常生活の中にあったのは羨ましい環境だったと思います。その2200もP-6も過去のものでそれを知る人も少なくなり、こういう内容を投稿するのはいつも気が引けます。この日本一の電車は書き漏らしましたが当時の技術では軽量化にも工夫したそうです。私の記憶では2200は20m車で重量47トン、P-6は19m車で52.4トンあり単位当たりではP-6の方が重いです。見た目にもP-6は重量フォワードの前3列ですが2200はNo8と言ったところでしょうか。デトニ2306の正面は端正な顔立ちと書きましたが、幌を外したP-6は見られたものでありません。しかしリベットだらけの横から見た感じは重そうで魅力的でした。私のようなDRFCの化石人間はこれからも出る幕は少ないですが先日2025年11月10日最近の大阪線の新型電車1A102を撮りました。正面は試運転TestRunと読めます。最近の電車あまり好きになれませんがこの車両は正面3枚窓貫通扉幌付きで先にデビューした奈良線、京都・橿原線の新車共々納得が行きますので走行写真でも撮りに行きたいと思っています。
この写真は桔梗が丘-名張間です。
準特急様
私も1958(昭和33)年の小学校の修学旅行は伊勢志摩地区でしたが、上本町-山田(翌年に伊勢市に改称)と宇治山田-上本町間の往復は2200形でした。伊勢湾台風の前年で名古屋線が標準軌化される前なので、行き交う特急の塗装は上半分がクリーム、下半分が紺色のツートンカラーに塗り分けられた2250形のみでした。この年は、初代「ビスタカー」10000形電車(いわゆる「旧ビスタカー」)が登場し、6月25日に公式試運転を開始した年でもありました。
2243を横から見たものに写っている大きな竹かごは、車内に残されたごみを集める収集箱ではないでしょうか。上本町の南側の木造のホームの鶴橋よりには一時的にごみや空き缶、空き瓶を集める集積場がありました。因みに修学旅行の時は、このホームに貸切バスが横付けされ団体専用のホームとして利用されていました。
1962(昭和37)年から3年間通学で近鉄大阪線の準急を利用していましたが、通常は1480系の急行の折り返し編成でした。たまにダイヤが乱れると折り返し変更で宇治山田方に連結された2200形の行商専用車両に乗り込むことになり、朝から魚臭で気分が悪くなったことがありました。因みに一般乗客からのクレームも多かったため、『鮮魚列車』は1963年9月から独立して運転されるようになりました。
写真は、1963年10月5日の安堂-河内国分間の大和川橋梁を渡る3扉化された2200形です。
快速つくばね様
1954(昭和29)年のことですが小学校の3年生クライだったと思いますが外に出てハイキングのような散歩のような授業をしている時に突然先生から祖父が亡くなったという知らせを受け急遽家に戻りました。いつも名古屋の祖父の所へは大阪駅から東海道本線を利用していましたがこの日は近鉄上本町から特急利用でした。小学校の低学年ですから詳しいことは覚えていませんが、伊勢中川の同一ホームでは接続の特急が待っていて座席指定なのでスムーズに乗り換えられたことははっきり覚えています。おそらく中川までは2250系に中川からは6421系あたりに乘ったと推察します。その時の2250系の色は2015(平成27)年9月5日三本松付近で撮った5200系5155の復刻塗装だったのではないでしょうか。その写真添付します。次にホームの竹製のかごはDRFCの写真展で先輩が「急行待避」か「急行通過」という写真を出品され非常に記憶に残ったため近鉄特有のかごかどうかの質問を投げかけた訳です。安堂-河内国分間の大和川橋梁もいい撮影ポイントですね。最近はどこもそうですが橋梁を行く車両の足まわりが見え難くなったのが残念です。修学旅行は500円くらいの小遣いでしたが1泊旅行は楽しいモノでした。いつもありがとうございます。
貴重な写真を見させて頂きありがとうございます。幼少の頃、今里に住んでおり、赤目の滝とかに大阪線の急行で行ってましたので、2200も乗っていたのではないか、と思います。なにせ幼少の頃ですので、形式を現認していた訳ではありません。しかし、この幼少の体験が、その後の鉄道趣味を方向付けました。参急2200だけでなく阪急P6や阪和モヨ100、南海2001の省電を凌駕する重厚な車体、性能、アコモは、体験しておきたかったですが、こればかりはどうしようもありません。今でも関心が、私鉄の専用特急車に向かうのは、国鉄(JR)を越える車両に、心意気を感じるからです。今回は関連写真は無しです。すみません。
ブギウギ様
ご意見、ご感想有難うございます。今里と言えば高田さんの故郷のようなものですね。高田さんは駅の持つ雰囲気や北海道の寂れた駅前を散策するのが趣味でしてヨーロッパ安上り旅行も同行させていただきました。さて、ブギウギさんの写真も前回でしたか驚いた旨コメントさせていただきましたが、私鉄の特急列車のJRに対する意気込みの見方は面白いですね。元国鉄のJRはいろいろな点で有利ですので私鉄はまともに勝負しても勝てません。私鉄は一般的に距離も短いので自分の守備範囲だけは努力しないとやっていけないと思います。大相撲の奇襲攻撃の宇良や藤ノ川の粘りは考え方として参考になります。ピクの更なる活躍やデジ青自主投稿も宜しくお願いします。
準特急様
快速つくばね様
駅構内の写真は、B級ウォッチング含めて何かしら興味を引くものがありますね。
また、鮮魚電車のエピソードや上本町駅ホームのことなど、興味深く拝読させていただきました。
高田幸男様
準特急様
駅構内の写真は、車両の写っていない上本町駅構内のB級写真がありましたので、調子に乗って2枚貼り付けます。
1956(昭和31)年には、大阪線と奈良線が線路別複々線として分離されたので、上本町駅は櫛形ホーム9面8線となり、奈良線と大阪線がそれぞれ4線ずつ使用していました。9面目のホームが例の木造のホームですが、写真は1963年10月ごろの大阪線の7番線から見た上本町駅構内です。
快速つくばね様
私鉄王国関西と言われたのはこのような風景のこともその一つですね。近鉄上本町、南海難波、阪急梅田!電車が並んで出発したり出入りする電車の数は凄かったですね。
今では考えられないですが、上本町-鶴橋間に上本町駅の荷物電車の専用ホームがありました。奈良線の下り線から分岐していましたが本線は鶴橋から上本町に向かって上町台地への上り勾配となるため相対的にスイッチバック駅のように見えます。現在はこの辺りから近鉄難波線が地下に入るのでしょうか。
快速つくばね様
スマホの小さな画面で見ております。1キロほどの鶴橋~上本町間は乗車機会少なく、記憶もおぼろです。カメラが一般的な持ち物でない時代に、こういった記録を残されていることに敬服いたします。写真を見せていただきありがとうございました。
快速つくばね様
快速つくばねさんならではの詳細なご説明有難うございます。私は鶴橋駅の焼肉の匂いくらいしか知りません。
準特急さま
「竹製のかごはDRFCの写真展で先輩が「急行通過」という写真を出品され非常に記憶に残った」と書かれていますが、大阪通信員さんの撮られたこの写真ですね。たしか保管していたはずと、棚から探し出しました。いつ見ても、いい写真です。駅名標が「ぶ」だけですが、河内国分だと理解できます。2200系ではありませんが、急行を退避するためホームに停車中の電車、真夏なのでしょう、窓は全開です。ここでポイントになったのが、準特急さんの言われる「竹製のかご」、〝担ぎ屋〟なのでしょうか、通路を占拠して、腰を下ろしています。駆けて行く少年もポイント、冷房など全くない、夏の午後のけだるい雰囲気が伝わります。
総本家青信号特派員様、忙しい時に時に棚から見つけ出していただき有難うございます。中林英信先輩も秀作を有難うございます。
大きなパンタの旧1400形は2227形と同じ時期に区間列車用に登場した同じ張り上げ屋根の3扉車ですがそんなことはどうでもよく、この写真は日本が高度経済成長期に入る頃の裕福ではないが皆希望を持っていた時代の雰囲気が感じられます。少年の走る姿や満員列車の扉の前で竹かごを椅子にして座る人がポイントです。冷房もなく不便ですがこういう時代に戻ってみたいでね。それにしてもよう乘ってますな。
準特急様
「竹かごと品の良さそうな小学生」の写真、いつもフィルムもったいない、と言われていましたが、こんな(すばらしい)写真を撮られていたとは。
2200がナンバー8とは、いい例えですね。
同志社ラグビー全盛期の80年代に、準特急さんのお誘いで国立競技場で1月に何回か観戦しましたが、そのときのラグビー部監督は岡仁詩監督。同志社1回生のとき、体育の授業があるということに驚きましたが、その授業の先生が岡仁詩監督。同志社ラグビーの象徴のような大監督であったことは、卒業してから知った次第です。最近の同志社ラグビーはどうしたのでしょう。余談でした。
高田幸男様
少したとえが間違っていました。P-6は重量フォワードのロック大八木、林選手の壊し屋でNo8は2200でスマートで駿足のサントリーから現在はラグビー協会会長の土田選手です。あの時は早慶明にも負けませんでしたね。私の体育の先生は元阪神の5番打者で打点王になったことがある渡辺博之さんでした。渡辺さんは中日、阪神に行った田尾の恩師です。
準特急様には、『こういう内容を投稿するのはいつも気が引けます。』などとは、トンデモナイお言葉です。小生など最近は、殆ど古いもんにしか、関心がないような有様です。投稿して頂ければ、それを口火に反応が、必ずありましょう、是非これからもお願い致します。それじゃ、反応を見せて貰おう!、と言われると思いましたので棚からこやしを持ち出してあります。では、まず1枚目を貼っておきます。偶々、初号車がありました。でも、時、場所、撮り人が全て不明の三重苦写真です。例によって、ここ何処、これ何時劇場の始まり、はじまり。どうぞ宜しくお頼み申します。
宮崎繁幹様
不貞腐れ気味の私に励ましの言葉有難うございます。今日も早朝から眼科や整形外科のリハビリに行ってましたがこうなったらこの手の古い思い出写真を投稿します。京都の写真ではお世話になっておりますが大阪はどうでしょうか。線路が3本見えているところからどこかの車庫と思います。ナンバーが2200とはこれまた貴重ですが事故後軽量車に変身して空き番となった2204が2200となりました。但し近鉄の0起番廃止は1964(昭和39)年ですからそれより前の写真で最初からの参急デ2200のトップナンバー2200でしょう。場所はわかりませんが線路が3本見えているので車庫のある駅だと思います。
早速に色々と教えて頂き、有難うございます。2200形の初号車は、2201号だと思って居たので、この写真を見たときは?だったのです。また、別に投稿した、宇治山田の2204号は、早くに事故廃車となり、この写真の2200号が、2代目2204号となった訳ですね。勉強になりました。
2両目の車両の台車にびっくりしました。試作品かと一瞬思いました。調べるとサ3000のKS-76L(付随台車)ってこんな奇妙な形状だったのですね。
ペデステル台車で乗り心地がM車より悪かったがバネレートの変更で後年は良くなったという記述も見かけました。
自分が近鉄住民で2200の晩年を見慣れていたら、特に何ともない事実でしょうが、シュリーレン以前の近鉄電車の台車のことも勉強しないといけませんね。
KS33Lのイメージに縛られ過ぎていました。
K.H.生様
日本一の電車にしてはサ3000の台車はどうなっているのかと思ったことはありますが、あまり深入りせず廃車されて年月が経ってしまいました。あの頃の電車はどこの会社でもイコライザーとはなから思っていましたが軸バネ式なので気になって撮った写真がありました。1968(昭和43)年11月イブをさぼって名古屋線の冨吉検車区で撮ったものです。
ありがとうございます。
昭和の初年ではないのですが、この時期だとサ3000はク3100登場以前の純粋なトレーラーで、客車扱いで建造計画と竣工した。だから電車の外観に似せた客車だったと考えた方が納得がいき、TR23に準じた台車で十分。その合理的発想は、現代の電車製造でも有りかと、提供していただいた台車の写真を見ながら考えました。
戦後のモハ63改良の73系など実にバラエティーがありました。MTで
準特急さま
懐かしい近鉄2200系の写真、それも上本町駅での宇治山田行き急行。濃緑一色で狭い窓がずらりと並び、宇治山田側には荷物合造車が先頭に立ち、横型碍子に上に立つ大きなパンタグラフ、床下には重装備の抵抗器など。更新前は車体前面下部にアンチウライマーを装備し、まさしく長距離急行列車でした。高校三年間は上本町駅の横を通っての通学。2200系急行列車が上本町駅の東寄りの引き上げ線に留まっていると嬉しくてワクワクしたものです。
宇治山田行き赤い行き表示板。これを着けた2200系は忘れることができません。この宇治山田行き急行も今も残るは平日夕方の一本のみで、クロスシートの5200型が充当されているのは往年を思い出させます。でも三月のダイヤ改定で上本町~宇治山田の通し長距離急行列車は廃止されてしまいます。もう上本町駅では宇治山田行きは見られなくなります。幼少から幾度となく「お伊勢さん」へ乗った宇治山田行き急行列車、その退役を飾る2200系の投稿、本当にしみじみ読ませていただきました。ありがとう準特急さん。まだまだ活躍いただき鉄分を補充させてください。
元祖青信号特派員さま
河内国分駅での通過待ちの1401の写真をありがとう。確か大阪丸ビル富士フォトサロンでの第一回鉄路輝く写真展に飾っていただいた一枚です。父のパールⅡを持って河内国分駅大阪側の大和川橋梁へExpressマークを付けた2250系特急を度々追っていた時に上本町に帰るホームから何気なく撮ったものです。大きなパンタグラフがはっきりです。1400型2227型に共通する魅力的な張り上げ屋根も大好物です。大好き過ぎて作った2245のHOペーパー模型をジャンクながら今でも保存しています。
特派員さんは人物をうまく捉えた鉄道写真がお得意ですが、時代が良く分かり鉄道が役立っていることが表現され嬉しいですね。
大阪通信員さま
さっそくのコメント、ありがとうございます。第一回の写真展でしたか、写真展に出品していただいたことは知っていたのですが、どの会場だったか、思い出せませんでした。デジ青の「写真展」でも一覧を確認し、出品の「通過待ち」を確認することができました。あの時は初の写真展、同じやるなら、でっかくやりたいと米手さんにも協力していただき、大阪・富士フォトサロンで開催しました。約10倍の激戦を経て、めでたく開催、オールモノクロ写真がズラリと並んだ時の感動は今でも忘れられません。2006年の開催ですから、もう20年前になります。会場のマルビルも取り壊されて、ありません。当時の写真を見返していたら、その「通過待ち」が右上にあり、しかも大阪通信員さまの仲睦まじい様子も写り込んでいました。
宇治山田を発車する、2204他の急行・上本町行です。昭和32年1月3日の撮影と写真の裏面にありました。行先札の一番下に「名古屋連絡」と小さく記してあります。伊勢湾台風後の名古屋線開改軌は昭和34年ですので、それまでは直通列車がないので、この注記があったのでしょう。
宮崎繁幹様
この表現は恐らく伊勢湾台風の前の名古屋線狭軌の頃からあったことと思います。名古屋から近鉄利用で関西によく出かけた昭和40年台に入っても名古屋線急行のアナウンスは「この電車は大阪、宇治山田連絡中川行き急行でございます」でした。多分連絡する列車は今でもこのような言い方をしていると思いますが旅情を掻き立ててくれるので好きです。連絡急行ではありませんが東武の会津田島、鬼怒川温泉、東武日光行き快速も3本立て2ドアクロスで好きでしたが3本立ては今は特急リバティに乘るしかありません。
大阪通信員様
コメントしていただき誠に有難うございます。大阪通信員さんといえば通学に利用された京阪特急のイメージがあり近鉄もお膝元ですね。さらに客車も造詣が深くマシ29等の二重屋根食堂車などいろいろ思い出があります。こういう話をさせていただけるとは変な薬飲むよりもよっぽど健康にいいと思います。気分が悪くなるのは最近のJRに長距離列車がなくなったことです。近鉄大阪線急行は宇治山田行きでないと駄目です。五十鈴川や青山町では駄目です。本当に見事な写真有難うございました。覚えていてくれた総本家さん有難うございます。
1968年2月13日、明星検車区、モ2205です。
たまたま訪れた時、ぽつんと1両停まっていました。
藤本哲男様
有難うございます。
近鉄のことは藤本さんから教わりました。今度はその生き字引のような存在を是非自主投稿でお願いします。
1968年8月26日、布施、3扉、ロングシート、窓のサッシ化が行われたモ2214です。ラッシュ対策で、多くの車両が改造され、車内は、通勤車両と変わらなくなってしまいました。
今ではクロスシート20m級の電車が、両運転台車と云うのは考えにくいですね。それにしても完全に左右対称の窓配置が、見事に決まっています。当時でも、これだけ長い電車の全長を真横から捉えるのは苦労したと思いますが、6線跨ぎで綺麗に記録されています。撮影者も快哉を叫んだことでしょう。昭和31年6月に、明星区で撮られた2237号です。
宮崎繁幹様
打ち出の小槌の様に宝ものが出てきますね。この車両はブルーとクリームの塗り分けで戦後座席指定特急に仕立てられた2200系列の一部ですね。Expressの表示も鮮やかに中川連絡ではありましたが名阪特急の元祖の様な存在でした。両運転台2ドアクロスの真横の姿がいいですね。戦前の車の特急版と言ったところでしょうか。乗ってみたかったです。
準特急さんばかりでなく、美女も見とれる特急車! 高安区で入換中の2228号。昭和26年8月撮影とのこと。まだ占領中の時期に、もうこれだけの列車を走らせた、近鉄の心意気や如何に、と云うところですね。
宮崎繁幹様
何と申しましょうか花咲かじいさんの愛犬のようですね。穴を掘ると次から次へと宝物が出るようですね。こんな美女と美電の組み合わせは初めてです。「番数も取り進みましたるところかたや〇〇、〇〇、こなた△△、△△、この一番にて本日の打ち止め」とさせていただきます。
平成25年に発行された 山本志乃さん著「行商列車 <カンカン部隊>を追いかけて」という好著があります。その中に近鉄の鮮魚列車に関する記事もあります。食文化、民俗学の切り口で、全国で見られた「行商」と鉄道の関りを取り上げた、大変興味深い1冊です。そのカバーに近鉄の鮮魚列車のサボの写真がありましたので、添えておきます。伊勢志摩魚行商組合連合会という団体があって、会員225名中、約8割の行商人の乗車駅が松阪駅、約7割の降車駅が上本町駅というデータもありました。ただ 2200系の写真は1枚しかありませんが。そんな背景もあって サボも「松阪」なのでしょう。
西村雅幸様
いつも広電並びにJR西のかつての陰陽連絡など現在の赤字ローカル線の情報を有難うございます。なかなかそちらに目が向かず申し訳ありません。逆に鮮魚列車のことを持ち出していただき恐縮しております。行商専用列車のダイヤや歴代の投入車両などおよそのことは知っておりましたが終に撮影もせず終ってしまいました。松阪は名古屋線にはかなり前から急行や準急の設定がありましたが何故伊勢志摩魚行商組合連合会会員の8割が城下町の松阪から乗車したのか松阪出身の近鉄特急の著者に訊いてみたいところですね。
でわ愈々乗車することに致しましょう。この写真も3重苦写真ながら、場所は上本町と思われます。2252号の特急「あつた」ですが、撮影日不詳なので、名古屋へは中川乗継か、直通なのか判りません。戦後製で車番が飛んでいますが、これも2200形として宜しいのでしょうか? 初心者より
宮崎繁幹様
一般に1930年(昭和5)年から製造開始された参宮急行デ2200系のグループは①2200~2226の27両、②デトニ2300形2300~2307の8両、③サ3000形3000~3016の17両、④ク3000形3000~3004系5両のグループで①~④計57両あります。2200系の続き番号として1939(昭和14)年から1941(昭和16)年にかけて製造された(新)2227系のグループには①2227形2227~2246の20両、②ク3110形3110~3114の5両計25両があり総計82両の車両が2200系でした。
これらは20M半鋼製車輛で電動車は200馬力(150kW ×4個)モーター、電制付きの共通点があります。
一方2250系は半鋼製ではなく全金属製となり同出力で大阪線の戦後初の特急専用車として製造されました。番号も続き番号ではなく新しい形式称号が与えられています。ややこしいのは両運であった車両を片運化する際に2247、2248として2227形の最後のナンバー2246の続き番号にして穴埋めしたためであります。何れにしましても私が撮影した新旧2200系の4~6連の急行列車は当時は晩年の域に達しており3扉化された2250系とともにダブルタイフォンを鳴らして高速で走破していました。専門家ではありませんので様々な文献をあさりましたがその中でイカロス出版の2020年1月20日発行の私鉄特急大全大手私鉄特急列車の戦後史213頁に写真永井信弘(宮崎繁幹所蔵)で2257先頭の6連特急が掲載されていました。永井様も先輩であり存じ上げておりますが今は故人となられ「あつた」のマーク付きであっても中川乗換えかどうかはよくわかりません。
準特急様には、丁寧に説明をして頂き、区別がよく判りました。言い訳ですが、近鉄は正確には近畿「日本」鉄道を名乗るだけに対象が大き過ぎ、東国の者には身近で無いだけに、なかなか理解を深めることができません。しかし、お蔭様で2200系列については、正確な理解をすることが、出来ました。有難うございます。
準特急様の説明で、この写真の2259号は2200系ではないと判ったのですが、発掘しておいたもので、お目汚しですが貼らせて頂きます。撮り人知れずながら、鶴橋駅で昭和33年10月27日撮影の説明書きは記してありました。3番ホームを通っているので、上本町行です。今では全列車停車ですが、当時は鶴橋は通過かと。秋も深まり全ての窓が閉めてあり、これだけ狭窓が連絡すると壮観です。今では空調完備で季節に関係なく窓は開いていないが、昔の写真では撮影日不明でも、窓の開閉度合である程度の季節は推測が出来ますね。花咲かじいさんの愛犬より。
宮崎繁幹様
また重ねてコメントさせていただきます。
鶴橋駅は、「上本町-布施」間が複々線化される前は2面3線構造で、下り(布施方面)ホームは1線、上り(上本町方面)ホームは2線を使用していました。
1956年(昭和31年)12月8日から北側2線が奈良線、南側2線を大阪線が使用する『線路別』複々線化が完成し、これに伴い鶴橋駅では、1・2番線を奈良線、3・4番線を大阪線が使用するようになりました。
1番線:生駒・大和西大寺・近鉄奈良方面
2番線:上本町方面
3番線:大和八木・伊勢中川・宇治山田方面
4番線:上本町方面
1975年(昭和50年)9月13日に布施駅の高架化工事完成で、同区間は現在の『方向別』に改められ、鶴橋駅では同一ホームで両線相互の乗り換えができるようになりました。構内配線変更と中2線(大阪線下り線と奈良線上り線)の大阪上本町方の立体交差化は、1975(昭和50)年9月13~14日の深夜に実施されました。
1番線:生駒・大和西大寺・近鉄奈良方面
:大阪難波からの近鉄名古屋・鳥羽・賢島方面
2番線:大和八木・伊勢中川・宇治山田方面
3番線:上本町・大阪難波方面(現在は神戸三宮方面)
4番線:上本町方面
従いまして、「鶴橋駅で昭和33年10月27日撮影」の写真は、大阪線の下り列車を後追いで撮られた写真だと思います。
快速つくばね様には、重ねての御教示有難うございます。線路別複々線だったとは、迂闊でした。日本の鉄道は左側通行と洗脳されていて、列車は手前側に向かって進行中と疑いなく信じてしまいました。確かによく見れば、運転士の姿は見えませんね。失礼しました。
宮崎繁幹様
準特急様
話には聞いていましたが、上本町駅の上下線が立体交差をしている写真を初めて拝見しました。有難うございます。この線路配置は「上本町-布施」間が複々線化され大阪線と奈良線が分離される1956年(昭和31年)12月7日まで上本町駅の構内配線として存在しました。
近鉄2250系電車は、近鉄が1953年から大阪線の特急専用車として製造した電車で、戦前に製造された2200系の後継車でした。2252号はモ2250形の第1次車として1953年(昭和28年)3月に竣工しています。
一方、名阪間の特急が伊勢中川接続でなく直通運転を開始したのは名古屋線が標準軌に改軌された1959年(昭和34年)11月27日からで、1961年(昭和36年)3月29日には中川短絡線が開通し、伊勢中川駅を経由せずに大阪線と名古屋線を結ぶ特急の運転が開始されました。
近鉄特急の列車愛称名は直通運転が開始された翌年1960年(昭和35年)の時刻改正で廃止されており、それまでは「せっつ」・「かつらぎ」・「あすか」・「すずか」・「あつた」・「おわり」・「いすず」の旧国名、山川の名前、地域名が付けられていました。廃止された理由は1960年(昭和35年)からコンピューターによる特急座席予約業務開始したことによるといわれています。国鉄のマルスシステムは列車を愛称名(番号)で指定していますが、近鉄のシステムは予約区間と乗車駅の発車時刻で指定するようになったからです。
したがってこの写真が撮られたのは1953年(昭和28年)3月から1956年(昭和31年)12月までの間で、近畿日本名古屋には直通運転されていません。
快速つくばね様には、小生の投稿写真の撮影年台を大きく狭めて頂き、有難うございます。一見手掛かりが乏しいように見える写真も、事情をよく知る方が見れば、ちゃんと手掛かりが潜んでいることを知り、勉強になりました。
準特急様、
近鉄のことはよくわからないのですが、2227形と思しき写真を見つけましたので、添付いたします。手歯止めが使用されており、番号もなく、解体待ちのようにも見受けられます。
近鉄のWebサイトには、写真下部のような記述もあり、「もしかして、これが2234?」かと思ったりもするのですが、確証がありません。
詳細をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示のほどよろしくお願いいたします。
四方誠様
営業を引退後の事業用に使われた車両もあるようですがよくわかりません。
外野或いは場外から失礼いたします。
近鉄のことは全く知らないのですが、『鉄道ピクトリアル』1976年3月号(No.317)TOPIC FHOTOS 83頁に、2231の写真と「2231~2233は検車区で救援車として余生を送ることになった」と掲載されています。
関連があるのかないのかもわかりませんが、お知らせいたします。
井原様、
ご連絡、ありがとうございます。
Wikipediaにも、2231~2233がモワ20,21(救援車)、モワ22(荷電用)になったとあり、その後、2237がモワ22(二代)となり、初代モワ22は高安工場の入換車(無車籍)となった、とあります。初代モワ22が元2231~2233のいずれかで、無番の入換車になったのだとは思います(22が2両いるとややこしいので)。一方で、近鉄のWebサイトでは元2234の無番の入換車がいたということになっていまして、入換車が2両存在したのか、それともどちらかの間違いなのか、よくわからない状態となっています。
近鉄のデトニ2300形の中でも、レクリエーションカーとして、特別な1輌となった2303号については、7年ほど前に、車内外を御紹介しました:
https://drfc-ob.com/wp/archives/110777
今回また2300形が話題に上り、2200系グループに内包されるとのお墨付きもあったので、色々と御教示頂いたことに対するお礼も兼ね、走行写真を御覧頂きたく存じます。これも時、場所、撮影者が判らぬ3重苦写真なのですが、関 三平様の記事によると、改造が昭和24年、3扉格下げが昭和31年とのことですから、その間7年間の記録と云うことになります。どうぞお楽しみください。
近鉄には全く興味がなく、ただただ撮っただけの中にこんなのがありましたが、これは今話題になっている電車と関係がありますか?
昭和35年頃久宝寺口-弥刀で撮りました。
見返していますと中林さんの撮られた1401の仲間を撮っていました。
見せたがりで申し訳ありませんがご覧下さい。
撮影は上と同じく昭和35年頃に撮りました1407三連。
車番の下の白線は何でしょうか?昇圧か改軌かワンマン化か?
間違えました!
米手作市様
準特急様がこのテーマについて「満員御礼打ち止め」にされましたが、1407他三連の車両番号の下の白線が気になりましたので、当時の記憶を辿りながら考えてみました。実は通学の帰りにこの編成で運行されている準急や普通に何度か乗車したことがあり、下線が引かれていたのをよく覚えています。当時の鉄道仲間から1961(昭和36)年に新しい技術を導入するため、制御装置とブレーキの改造が実施され、その結果他の同系列車と連結できなくなり、その警告マークだと聞いたことがありました。モ1401、モ1407、ク1504の3両が改造対象になったようです。
逆の例としては国鉄時代に信越本線の「横川-軽井沢」間の急勾配区間(碓氷峠)を安全に通過するために車両に特別な改造や装備が施された『横軽対策』がありました。この対策が施された車両には、車両番号の前にGマーク(●)が付けられていました。高森線を往復していたオハフ33 212にも付けられていましたが、この車両が碓氷峠を登り降りする可能性はどれだけあったか分かりませんが、いかにも国鉄だと思いました。
快速つくばね様
つまらない投稿にご回答を下さり、恐縮です。
最近の電車話にはついていけなくて、デジ青も流し読み程度のお付き合いになっています。
とは言え、手持ちの写真があれば見せたがりの本性が出てしまうのはお恥ずかしい限りです。
横軽対策とは具体的にどんな対策だったのでしょうか?当時聞いた記憶では、連結器だったか、バネだったかを調整したように覚えています。近鉄の場合は加減速でしょうか?
C12の煙が匂ってくるような写真をありがとうございました。
米手作市様及び皆様
鉄道の質問には簡単に答えることができるものと専門家でも答えるのが難しい難題もあります。答えようとする皆さんは見たり知っている範囲で、あるいは資料を調べたりしてお答えしているのではないでしょうか。質問する人も鉄道ファンなら誰でも知っているような質問は恥ずかしくて躊躇している場合もあるのではないでしょうか。デジ青はもっと多くの人に投稿したりコメントがあると盛り上がりやすいと思いますので愚問、珍問大いに結構です。話題から外れることもありますがそういう脱線も歓迎です。但し、私は知らないことは「知りません」と答えます。投稿するテーマ、地域、年代等々でコメントの多い、少ないはある面で仕方が無いと思いますし今後も内容によってコメントのバラツキはあると思います。私の近鉄2200系ももう見ることはできない当時の日本一の電車と思って4枚の写真で始めたものです。見せたがり屋は大いに結構ですが、できればその時に感じたことなどがあると有難いです。2250系の素晴らしい窓並びと吊り掛け特急は見たかったものです。これは私の勝手な意見ですので他にもいろいろななご意見があると思います。
米手作市様
信越本線の「横川-軽井沢」間は、国鉄で最も急な66.7‰の勾配を持つ難所でした。この区間を安全に運行するため、粘着式移行後EF63形電気機関車が補助機関車として連結され、連結される車輌側にも連結器の破損や列車の座屈による車両の車体と台車の分離、浮き上がり脱線の予防、車両の逸走といった事故が発生するのを防止する目的で、大きく次の五つの対策が施されました。
① 連結器の強化
② 緩衝器容量の増大
③ 車掌弁(車掌用非常ブレーキ装置)への絞り追加
④ 台車横揺れ制限装置の追加
⑤ 空気ばね台車装着車に対するパンク機能の付加
これらを通称「横軽対策」と呼んだようですが、EF63と協調運転が可能であった169系・489系・189系の電車にはさらに特殊な機能が設けられました。空気バネ車に乗っていてこの区間に入ると空気を抜いた状態で走行したため、ゴツンゴツンと直接振動が伝わり乗り心地の悪い感触は今でも忘れることができません。
本来の近鉄の話ですが、制御装置とブレーキが改造されたので、未改造車と
ジャンパ線で接続しても仕様の異なる機器なので車両間の制御信号の橋渡しができなかったのではないでしょうか。
EF63 24を先頭に横川に到着した1996年9月28日の「あさま8号」です。
皆様
近鉄のことは興味があっても改造されたりビスターカーが通勤車に生まれ変わったりして頭がこんがらがってしまいます。1967(昭和42)年11月29日に撮影した4枚の写真で始めた近鉄2200系ですが皆さまのご協力で活発に進んでおります。特に外部の快速つくばね様、宮崎繁幹様にはご教示いただくことが多く新しい発見も多数ありました。私はどなたのコメントや質問であってもお返しするのを基本としてきましたが後半部に至っては出る幕がなく満員御礼打ち止めをさせていただいたのですが休場した方が良さそうに思いしばらく休ませていただきます。2200系も濃い緑色の時代は見たことがなく昭和30年代以前のことはわかりません。快速つくばねさんの奈良線、大阪線の線別複々線と現在見られる鶴橋駅ホームの便利になった奈良線、大阪線線同一方向複々線及び伊勢湾台風後の名古屋線改軌に次ぐ中川付近短絡線はわかったつもりです。休場明けには次のテーマを考えて行きます。