ミニ新幹線「つばさ」、「こまち」(3)

秋田新幹線は1997(平成9)年、新在直通方式のミニ新幹線として1992(平成4)年の山形新幹線に次いで開業した。盛岡から田沢湖線(盛岡-大曲)、奥羽本線(大曲-秋田)を経由して秋田に至っている。少々複雑であるが1964(昭和39)年の時刻表を見ると盛岡-雫石間は橋場線16.0km、生保内-大曲間は生保内線35.5km、大曲-秋田間51.7kmは奥羽本線となっており途中の空白区間雫石-生保内間は1996(昭和41)年に開通している。なお、生保内駅は田沢湖駅と改称、大曲駅では列車はスイッチバックしている。列車名は鳥や花ではなく公募により秋田ゆかりの歌人小野小町に決定されたが小野小町はクレオパトラ、楊貴妃と並ぶ世界三大美人に数えられるている。

秋田新幹線の列車は在来線乗り入れで奥羽山脈を越えるので「つばさ」同様にスピードは130km/h程度に抑えられ秋田到着は盛岡まで連結するE5系の新青森到着よりも3~40分遅く着く。

盛岡駅で「はやぶさ」を切り離して最初の在来線(旧橋場線)の駅が大釜駅である。ここは「こまち」は通過であるが単線なので「こまち」同士の列車交換も見られる。大釜から盛岡寄りに少し歩くとバックには盛岡のシンボルが岩手富士が見えてくる。2013.11.9 岩手富士バックのE3系「こまち95号」秋田行きである。▼

2013.12.4 上記と同一地点の1か月後を行く新鋭E6系東京行き「こまち12号」で岩手富士は冠雪した姿に変わる。▼

盛岡から暫く走ると新幹線の風景とは思えない渓谷に入る。この時もクモハ73106東ウラさんにお世話になった。道路横の茶店から新幹線が俯瞰できるが逆光気味なので下まで降りて秋田行きE3系「こまち25号」を順光で撮った。2013.11.9志度内信号場-田沢湖間 ▼

角館は武家屋敷があり、観光も兼ねてよく降りた。ここは秋田内陸縦貫鉄道の乗換駅でもある。駅から盛岡寄りに2kmほど歩くと平凡であるがさえぎるものがない直線区間になり上下「こまち号」が撮れる。丁度秋田内陸縦貫鉄道と線路が離れるあたりである。2016.7.3生田-角館間E6系「こまち19号」秋田行き ▼

2017.6.27同じ区間でのE6系東京行き「こまち22号」▼

2019.12.1 1日粘ってみた日の夕方16時43分、オクレのE6系秋田行き「こまち23号」がやってきた。冬の日暮れは早い。▼

2019.12.1  お昼前角館駅を出発するこまち7号。何でもない普通の在来線駅である。▼

2016.7.3角館市内菅沢(58k378m)踏切。新幹線本線内では見られない踏切がここでも見られる。E6系「こまち32号」東京行き。▼

2019.6.26 羽後長野-鑓見内間E6系「こまち19号」秋田行き。「こまち」のシンボルカラー赤が鮮やかである。▼

2019.6.27 鑓見内-羽後長野間 田沢湖線普通列車大曲発盛岡行きで広軌化されたクモハ701-5000番台の2連が行く。▼

2019.1.28雪の日の 新幹線の終着秋田駅とE6系「こまち」。大曲からスイッチバックして逆編成である。▼

これにてミニ新幹線「つばさ」、「こまち」を終了する。

ミニ新幹線「つばさ」、「こまち」(2)

庭坂を出てしばらくすると板谷峠に向かう勾配区間に入り列車は大きく右にカーブする。ここで福島から出発して直ぐのミニ新幹線区間に入った列車をとらえることができる。2013年11月11日大築堤を行く東京発の1番列車新庄行き「つばさ121号」がE3系7連で現れる。▼

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ミニ新幹線を行く「つばさ」と「こまち」(1)

JR東日本の新幹線には在来線へ乗り入れる直通運転のミニ新幹線があるが、この乗り入れ区間は1067ミリの在来線を1435ミリに改軌して使用。いろいろ改良もされていると思うが単線、カーブ、勾配、踏切等様々な制約があり車両限界の関係等から座席も2列2列シートで2列3列シートの本線(ミニではない基本的な高速新幹線を仮に本線とよんでみたが正式な呼称があるのかもしれない)車両と比べると小さくて車内も狭い。

しかし、ミニ新幹線は本線には見られないローカルな風景が展開し撮影にも新しい発見がある。

そこで「つばさ」、「こまち」のミニ新幹線走行を3部に分けて発表したいと思う。(1)部は東北新幹線大宮―盛岡間暫定開業の1982(昭和57)年6月の直前の東北本線で撮影した「つばさ」と福島付近の奥羽本線のその頃の状況である。(2)部は福島-新庄間の「つばさ」、(3)部は盛岡-秋田間の「こまち」を取り上げる。

それでは(1)部の東北本線特急「つばさ」である。

1980.12.31 東大宮-蓮田間 EF651010[宇都宮]牽引スハ14系の客車で運転されていた多客時の臨時「つばさ51号」8001列車。EF65のパンタグラフが今となっては大きく目立つ。上野9時3分の発車で秋田には18時20分到着である。▼

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東北新幹線「なすの号」に関連した話

先日、DRFC行事の後に米手作市さんが宇都宮からE2系新幹線「なすの号」にご乗車された。そこで「なすの号」に関連した話題を提供してみる。E2系は1995年に登場、北陸、上越線でも活躍したが両線ともE7系に置き換えられ現在は東北の「なすの号」を中心に運用されているが間もなく消えていくものと思われる。そういう意味で米手さんはラッキーだったと言える。

E2系が活躍していた頃の記録を1枚。2015年5月3日北上-新花巻間を行く仙台発盛岡行き「やまびこ97号」E2系10連。▼

晩年「なすの号」等に使われた車両に200系がある。東海道新幹線0系に似ただんご鼻スタイルをしており雪国を走るので耐寒耐雪を強化したほか、車体は0系の鋼製に対してアルミ合金製の違いがある。100系に似た200系も存在したが当時新幹線に興味がなく撮り始めたのはやはり晩年の姿である。この撮影も「なすの号」ではなく2012年9月2日熊谷駅を通過する新潟発東京行き「とき327号」であるが何となく0系の感じがして貴重品に見え追いかけたがその後E2に似た塗装に変更したものもあらわれた。▼

ところで「なすの号」は1959(昭和34)年上野-黒磯間で多客時に運行された「なすの号」がルーツで特別準急電車日光形157系「湘南日光号」とともに全車座席指定の駿足列車であった。157系はその後1963(昭和38)年には153系の出力を増強した165系に変更されて行った。両準急ともに165系使用列車第1号である。写真は1965年11月10日川口-赤羽間の荒川橋梁を行く165系の「なすの号」2512Mで黒磯10時58分発上野13時9分着で特急電車と変わらないスピードを誇っていた。▼

準急「なすの号」を撮った同じ日に総本家さんが関西にはないと言われたEF57牽引列車を上り急行104列車青森発上野行き「八甲田号」を含め撮影している。ここでは「なすの号」のすぐ後のEF576[宇都宮]牽引福島発上野行き124列車を載せてみる。因みに同列車は福島6時45分発上野13時19分着である。福島‐黒磯間はED71あたりが牽引してEF57にバトンタッチしたことであろう。パンタグラフを思いっきり前面に押し出した個性的なスタイルのEF57の人気はEF58の比ではなかった。米手作市さんとはこの頃に尾久客車区に行った時にEF57やEB10も撮っているが随分昔のことになってしまった。▼

新幹線の車両は登場しても思った以上に廃車されるのが早い。赤と青などカラフルな車両で編成された連結も見られるので興味のある方は今のうちに記録されたらと思います。

 

東日本乗るだけ5日間の旅

巷では「青春18切符」の廃止が噂されているがJR東日本の「大人の休日俱楽部パス」もどうなるか心配である。「大人の休日俱楽部パス」はJR東日本管内各路線を連続4日間乗り放題で座席指定が6回分ついて15270円と格安であったが、今回からは1日延びて5日間になり料金も19800円(えきネットで購入の場合は1000円引き)となり1日あたりにすると少し安くなったが高齢者が5日連続は厳しい。さらに東日本+北海道27620円というものもある。JR東日本では新幹線の「はやぶさ」「こまち」「つばさ」と在来線の中央、常磐、伊豆方面、高崎・吾妻線関係はオール座席指定となり少し利用に難がある。そんなこんなでブツブツ言いながら梅雨に入った6月24日(月)から28日(金)迄の5日間日帰り乗り鉄に挑戦してきたので1965~6年頃の関連写真を含めて若干の報告をさせていただく。後期高齢者なので①乗り鉄に徹する、②撮影は駅付近に限定し無理しない、③宿泊料金高騰で日帰りとするという方針で一人旅に出かけた。

(1)1日目6月24日月曜日は自由席のある列車利用でアルピコ交通(松本電鉄)上高地線の一番手軽な信濃荒井の鉄橋で撮影することにした。東京からは9時4分発E7系「あさま605号」で10時41分に長野に着く。直ぐに話題の敦賀行「かがやき507号」が到着して発車して行ったが撮影し損なう。次に篠ノ井線11時発名古屋行き「しなの10号」に乗る。勿論JR東海の383系である。塩尻まではJR東管内ということで大人の休日パス利用が可能でよく利用する。アルピコ交通は2本とも元東武20000型、20050型の20100系に変わっており京王井の頭線3000系は出番がなくなったようだ。20100系は京王重機で改造したためかシートは京王8000系と同じ緑色模様である。何れも中間車改造なので運転室を新設している。帰りは松本14時6分発「しなの11号」で長野からは15時25分発「あさま622号」に乗車した。「あさま」の車両はJR西のW7系で東京着は17時12分であった。晴れて蒸し暑かった。渚₋信濃荒井間新島々行き20102+20101。▼

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紫陽花の季節

今日6月21日は近畿、東海、関東甲信越はいつもの年より遅れて梅雨入りとなった。晴天順光が好きな私であるが、雨に濡れた紫陽花もいいのではないかと思いいつもの箱根登山鉄道大平台に向かった。雨となると高齢者はかってを知った場所にして安全に注意すべきと考えた。少し前に撮った京王井の頭線と共に発表してみる。

2024.6.10高井戸-浜田山間各停渋谷行き1734▼

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快速急行

奈良の駅名研究家さんより「快速急行の停車駅名」と題して5月23日に投稿があった。私は駅名を研究をしていないのでコメントはできなかったが、これまで撮った関西、関東の私鉄快速急行を発表してみたいと思う。併せて、本題から外れるが快速特急も数枚用意した。

快速急行の最初は奈良-三宮間の直通列車1027である。2022年7月21日近鉄奈良線の石切駅で始めて下車した。生駒のトンネルを大阪側に出た所にあるカーブした駅である。▼

阪神電鉄の香櫨園駅はカーブした下り普通列車4連を撮るにはいい場所である。香櫨園は昔は海水浴場がありここで泳いだことがある。2022年12月17日この時は近鉄の上下快速急行がすれ違ったが手が震えてピンボケ。左奈良行き後部5801と右三宮行き先頭9730。▼ 続きを読む

今読んでも面白い老人文章

最近、2009年11月29日の大阪通信員さんの「通信だより」にコメントがあり、通信員さんの女性車両誤乗の話に加えて乙訓の老人さんの京都名物(?)のアイスクリームの天婦羅などの話に飛び、多くの方々からコメントが入っている。乙訓の老人さんは電車に関しても独特の隠語が入っているがとにかく面白い。今さら言うのも失礼かと思うがとにかく文才抜群と思う。

これだけではつまらないので吉田さんの札幌市電の続きを始めさせていただく。ローレル賞を取ったA830の一部が美濃の国に行った話をしたが早速紫の1863さんが美濃時代の写真を入れてくれた。札幌時代のA830の写真が少ないので拙写であるが、駅前の姿を発表する。1969.3.10 北24条行きA833 ▼

総本家さん程うまくないがもう1枚。1969.3.18  北24条行きA838 ▼

「あんな。札幌のA830はやなー。」 京阪、京都市電だけではなく日本全国の電車、ドイツの路面電車にも造詣が深くデジ青にも必ずと言っていいほど説明をいただいた日々が懐かしい。改めてご冥福を祈りたい。

 

2箇所で撮った名鉄モ750形

「お城と鉄道」では思わぬところで岐阜金華山の岐阜城が紫の1863さんや西村雅幸さんから市内線の電車とともに紹介があり、さらに話が谷汲線まで飛んで嬉しい限りである。岐阜市内、揖斐線、谷汲線で活躍したも510形とともに最後まで残っていたモ750形についてもその前に活躍していた瀬戸線のそれも同番号で紹介するが尾張や美濃を75年間も走り去った老優であった。

モ750形は1927(昭和2)年、旧名古屋鉄道デセホ750形として10両製造された。本線昇圧後広見線系統、その後瀬戸線に移り活躍した。そして瀬戸線昇圧で揖斐、谷汲線に転属し2001年9月30日両線の廃止とともに廃車となった。モ755は旧谷汲駅舎とともに保存されている。

 

1972.9.11 瀬戸線尾張旭₋三郷間 準急瀬戸行きモ755+ク2222 後のガソリンカー改造と思われるクハが気になる。▼

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桜関東版

歳は取り過ぎてもかろうじて桜と電車を撮った。総本家さんの毎度見事な撮影に対し怖気づいているが関東では元気な快速つくばねさんが発表されてホッとした。もう新緑鮮やかな時期で今さらなんやと言われるが私の桜も見ていただきたく発表した。足腰が確実に弱くなっているので小湊鉄道や秩父鉄道にはちょっとしんどいのでワンコイン範囲内での撮影である。

近場でいつも行くのが、井の頭公園、高井戸、稲城、武蔵関、相武台前あたりであるが、今回は歳のせいか撮影回数も少なくなった。

最初は4月7日の西武新宿線東伏見-武蔵関間でここは桜がたっぷりあり駅から近いので年寄り向きだが一般客も多い。西武30000系の各停西武新宿行きでスマイルトレインと言われているがあまり好きになれない。▼

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新刊本のご案内

当会では昔から熱心な活動で時々デジ青にもバスを含めて古い車両を紹介されている藤本哲男さんがこの度この世界では有名な諸河久さんと共著(写真・諸河久、解説・藤本哲男)で「地方私鉄の記録第2巻北関東編」をフォット・パブリッシングから発行されました。

藤本さんのプロフィールには同志社大学鉄道同好会HP「デジタル青信号」に多数投稿とあります。諸河さんは路面電車に造詣が深いとご本人から聞いたことがありますが、藤本さんとの出会いは60年前のお互いが高校生時代に京都五条坂の「タカハシ写真店」で店主の高橋弘さんから講義を受けて以来とのことです。

さすがにプロと言われるだけの内容ですが、何よりも定価が安くお買い得の内容と思われますので一度ご覧ください。

 

久しぶりにお会いした親友

今年は3月が低温だったせいか桜が新入学の時期までもったようで今日は入学式があったのかランドセルを背負った小学生を見ると微笑ましく感じました。さて、皆さんもそんな桜と電車を写しにあちこちに出かけられたことでしょう。よくワクヒロさんが近鉄電車と桜を発表されていたことを思い出します。皆さんの作品も老人投稿の間隙を縫ってデジ青上で発表していただきたいですね。大体は近場でどこに行くか予め決めておられると思いますが、関東では東中野や池上線の石川台付近が定番でしたが最近は木が伐採されてアウトです。井の頭公園や高井戸-浜田山、駒場東大前などにはよく出かけますが、今日は高井戸-浜田山間の有名な定番撮影地の踏切で鉄研三田会の不錆鋼さんに出会いいろいろと話が進みました。遅い昼食もご一緒させていただき楽しいひと時が過ごせました。不錆鋼さんはDRFC-OB会に参加していただいておりますが、東急におられた関係もあり伊賀鉄道のイベントでも大変お世話なりました。(私より若い)DRFCの訪台したメンバーの話も聞かせていただきました。先日のクローバー会写真展も鉄道友の会京都支部の会合の参加の前に見学されております。湯口さんが上京された折に元三田会会長の高井薫平さんとのお酒の席に不錆鋼さんもよく同席されたそうです。それでは今日は曇天気味でしたので2年前の令和4(2022)年4月2日に撮った高井戸-浜田山間の1779先頭の急行渋谷行きを貼り付けます。

 

 

 

 

広島駅の大型機の思い出

最近は健康食品とかサプリメントとかやたらに老人向けの広告を見かけるが、そんなによく効くのかといつも疑いの目で見ている。ところで、今日4日の日経新聞の文化欄を見るとこんな記事が出ていた。『 認知症、うつ、孤立に【処方】と題して「絵の中にカエルがいる!」「そういえば子供の時、よくカエルでザリガニ釣ったなあ」。3月上旬の佐倉市美術館(千葉県)、認知症の自覚症状がある高齢者など十数人が絵画を前に話し合った。最初は口数が少なかったが、次第に感想があふれてくる。1時間余りの鑑賞会の後半にはみな笑顔で、昔の記憶がよみがえってくる人も。様子を見守っていた家族は「普段はこんなに話さないのに」と驚き、喜んだ。』(原文のまま)

他人から見たらうるさいなと思われるかもしれないが、懐かしい思い出話をすることは健康にいいと申し上げたことがある。懐メロに加えて最近は小学唱歌なども同様の感じがする。私は一人住まいの後期高齢者であり、認知症、うつ、孤立の予備軍であるが今日もデジ青に拙い駅撮りを出してみた。双方向であるとより楽しいが、気が付けば同年代の趣味人の方は大変少なくなったのが寂しい。勿論、若い方からのコメントは嬉しく返事を差し上げているつもりである。

さて、広島駅の大型蒸機は何回か機関区を訪問して撮ってきたが、今回は1964年4月3日、九州から帰りに広島区に立ち寄った機関区巡りの後の2~3カットを出してみた。広島と言えば三原の西村さんが思い出されるがまだ京都にお住いの頃である。当時は同駅発着の山陽本線旅客列車は特急から普通列車迄C59かC62という最高の役者がそろった駅であった。ホームで列車を撮っていたらもう一つの大型蒸機D52が堂々と貨物を牽引していた。

下り貨物のD52373[広島] 戦時設計の粗悪機であったがこの頃は大分標準装備に改装されていた。関西では吹田に長い間在籍していた。▼

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東急多摩川駅にて

最近は日本の人口が減少に向かい、特に地方では過疎化が進んで鉄道のローカル線や路線バスの廃止のニュースをよく見る。このような中でも東京だけは人口があまり減らないのか多くの駅で電車がひっきりなしに上下する風景が見られる。東京、新宿、渋谷、池袋、上野界隈がそうであるし先日も総本家さんが中央本線阿佐ヶ谷での複々線4列車総並びを発表されておりその一端がうかがえる。関東では私鉄に目を向けると関西の阪急十三、南海新今宮、近鉄鶴橋のような圧巻的風景は見られないが東急東横線の多摩川駅では実に多種の電車が見られる。特に最近は神奈川県内のみ(横浜-海老名間、支線の二俣川-湘南台間、厚木貨物線)の営業であった相模鉄道がJRや東急と相互乗り入れを実施して東京心部や埼玉県まで顔を出すようになったことで多摩川駅の車両のバラェティを深めている。

東急多摩川駅では東急の他、横浜高速鉄道(みなとみらい線)、東京メトロ、東武鉄道、西武鉄道、東京都、埼玉高速鉄道、そして相模鉄道が加わることにより8社の車両を見ることができる。各車両ほぼ同じ位置の単調で面白みに欠ける記録であるがこれだけの会社がそれぞれ2~3種類の車輛を投入してくるので飽きることはない。併走も含めて発表してみる。

まず最初に今回の定点多種車両撮影に至った起爆剤的な相模鉄道についても若干触れてみたいと思う。独特の単一カラーでよく目立つ相模鉄道通称相鉄は以前は準大手私鉄の位置づけであったが、1990(平成2)年4月にいずみ中央駅まで延伸されたのを機に同年5月31日正式に大手民営鉄道として認定を受けた。相模鉄道の歴史がややこしいのは相模鉄道とは現在のJR相模線のことで大正6(1917)年に創立され、現在の相模鉄道は当初神中軌道、後に神中鉄道となった鉄道でやはり同時期の創立である。昭和18年(1943)年には神中鉄道は相模鉄道に吸収合併され、元の相模鉄道自身は1944年に国有化され残った神中線が相模鉄道となって今日に至っている。その間相模鉄道は東急になったり小田急の干渉があったりして紆余曲折の歴史があったが横浜駅西口(相鉄ジョイナスや高島屋のある所)の土地買収により安定的な経営をするようになったと言われている。私が最初に見た相模鉄道には神中時代の汽車ポッポのムードが残っていた。駅の改札口は木製のラッチが多く海老名などは田圃に蛇が出てくるような田舎であった。1955年の流線形湘南窓ボディマウントの5000系や続いて登場した1961年の6000系20メートル車の導入で大手に近づいて来たように思う。5000系、6000系の写真である。

1972.2.20 大和付近を行く急行海老名行き5011。湘南窓に車体下部を覆ったスタイルに人気があったが直ぐに更新改造されて消えて行きそのスタイルが惜しまれる車両である。▼

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DF50思い出写真(10)山陰本線

DF50は北海道や関東地方を除き概ね各地で見られた。伯備線、大社線や中央本線では撮ることができなかったが、0番台スルザー形(ズルツアー形)65両、500番台マン形73両計138両の走行線区は一応網羅したつもりである。

最終回はDF50が健在であった時代にDRFC-OBの皆さんが日常よく見たり乗ったりされた山陰本線である。所属は勿論DF50が大量に配属されていた米子区である。

最初は1969.5.4京都駅山陰線ホームから撮ったDF50525である。カラーでなく残念であるが旧塗装(新製時の茶系)の方が急行を含め旧型車を牽くのに似合っており私は古い色が好みであった。▼

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梅小路区を塒(ねぐら)としたC57達

東海道本線電化後の梅小路区では旅客用機関車として名機C51最後の活躍が見られたがその後継機として北陸本線富山電化による金沢区や他区からC57が転属してきた。C51と同じように京都-園部間の旅客列車を中心に活躍していたので京都在住や近郊の方々には最もなじみのあった機関車ではなかろうか。かく言う私も4年間の京都での下宿生活の中で山陰本線京都-馬堀間は授業の合間というより授業をさぼって撮影を楽しんだ場所である。特に京都駅から僅か30分のC57牽引オハ61系客車の旅で保津川の渓谷を楽しめるとは京都に縁のある蒸機ファンには最高の路線であった。

それでは[梅]の区名の入ったC57のラインアップを若い番号順に紹介する。

C575  金沢区からの転属で正面の形式入りナンバープレートが人気を集めた。

C5715  金沢区からの転属でC575と同様当初はツララ切りが残っていた。

C5739 金沢区から名古屋区を経ての転属である。

C5743 遠く羽越本線酒田区からの転属で梅小路区在籍期間は短かった。

C5789 これも金沢区から亀山区を経ての転属である。

C57127 常磐線平区からの転属である。

C57190   同じ関西の和歌山区からの転属で戦後製の異色スタイルであった。

それでは順に彼女達(貴婦人ではなくそこらのよく働くおばはんと思っていた)の在りし日を追ってみる。梅小路区からさらに他区へ転属した機関車は可能な限りその姿も紹介する。

 

C575   1937年7月 川崎製造 製造番号1800  新製後の配置は何と梅小路区でその後宮原区、姫路区を経て戦前に金沢区に配置され64年10月福知山区へ配属されるまでずっと金沢育ちである。福知山区の後66年9月に梅小路区に配属された。71年7月豊岡区を経て72年3月に浜田区へ転出し74年7月に同区で廃車となっている。この機関車は形式入りナンバープレートが見事で美形のC57であった。71年5月23日には京都-姫路間をC575+C5739の重連で「汽車ポッポの旅」として走行している。尚、廃車後は姫路市の御立交通公園に保存されている。

1967.12.3 保津峡-馬堀間を行くC575牽引の923列車敦賀・豊岡行き。▼

1969.2.25馬堀駅発車のC575牽引敦賀行き923列車。朝降った雪が少し残っている。▼

1972.8.24  出雲市-知井宮間を行く C575の浜田区へ転属後の姿で形式入りナンバープレートもなくなっている。左の線路は今は廃止された大社線。▼

 

C5715 1938年1月川崎製造 製造番号は1869 新製後の配置は名古屋区で2年後の 1940年9月に金沢区に転属し以降63年4月に梅小路区に転属するまでずっと金沢育ちである。71年6月に梅小路区で廃車となっている。

1965.6 京都 C5715の金沢区時代からのツララ切りをアップしてみた。蒸機の専門家にツララ切りはD51にない理由を訊いてみた。D51はデフステイが少し高いこととC57の方が速度が速く運転室の窓が割れやすいからではないかとの回答を得た。飯山線のC56にもツララ切りがあったと思うがどなたかツララ切りについてご存知の方はご教示願いたい。▼

1968.10.8  馬堀駅到着前のC5715牽引敦賀行き923列車。この時はツララ切りはなくなっていた。 ▼

1968.10.8  到着前の写真を撮った後に走って出発も撮ったがピンボケで二兎を追えずやはりうまくいかなかった。若い元気なころの思い出写真である。▼

1968.11.14  嵯峨付近を行く午後の園部発1832列車京都行き。 ▼

 

C5739 1938年1月日立製造 製造番号947 新製後金沢区に配属され一時米原区にあったが44年以降はずっと金沢区にあり北陸育ちである。64年9月に梅小路に配属され山陰本線京都近郊で活躍後の71年6月遠く鹿児島区へ転属となり74年4月同区で廃車となった。

1969.2.25  保津川渓谷を行く園部発1830列車京都行き。 ▼

C5739はC575と重連で71.5.23に京都・姫路間を記念列車として往復したが、記録された方がおられたら貼り付け願いたい。

1972.5.1  同区を訪問した際に庫の中にいる姿を発見。右は翌1973年4月9日お召し列車を牽引することになる門鉄デフのC57117[宮崎]。▼

 

C5743 1938.3三菱製造 製造番号227 新製後の配置は水戸区で以降宇都宮区、白河区、千葉区、尾久区、酒田区等東日本の各地を回り65年6月に梅小路区にやってきた。しかし同機は同年10月豊岡区に転属してしまった。その後68年10月には米子区に転属し69年12月同区で廃車となった。動輪が米子駅前に保存されている。

1965.6 C5743が梅小路区にいたのは65年6月より同年10月福知山区に転属するまでの僅か4か月。ターンテーブル(転車台)にのる同機はデフレクター(除煙板)下部の点検用開口部があることと正面のシールドビームの前明灯が特色。▼

65.6 C5743のキャブ(運転室)で区名札には確かに「梅」の表示が入っている。▼

梅小路区を4か月で追い出されたC5743は1965年10月に豊岡区に転属した。同年11月12日姫路駅を出発する播但線下り貨物牽引のC5743。前照灯がLP403に換装され見栄えが良くなったがこの後直ぐに長い煙突に集煙装置を装備し再び醜い姿になった。▼

 

C5789   1939年3月日立製造 製造番号1064 新製配置は名古屋区で41年9月には金沢区に転属。以降北陸線で長く活躍した後64年10月に亀山区、翌65年10月に梅小路区入りし以降園部等京都近郊区間を中心に活躍した。71年5月には宮崎区に転属し76年6月同区で廃車されるまで日豊本線で活躍した。5、15、39号機と同じく金沢育ちである。

1967.12.7   京都駅で出発待ちの元金沢組のC5789+C5715重連の1827列車園部行き。▼

1968.9.21  夏が終わり陽が早く傾くようになってきたころ馬堀駅出発するC5789牽引の1827列車園部行き。 ▼

1973.4.10  宮崎区に転出したC5789に再会したのは日豊本線青井岳。都城発宮崎行き列車を牽引して鉄橋を渡って行った。 ▼

 

C57127   1940年3月三菱製造 製造番号277 新製配置は尾久区で54年9月に平区へ転属。常磐線育ちで63年6月に梅小路区に転属して金沢組と共に活躍した。71年4月26日園部発1828列車牽引を最後に定期列車運行を終えている。同機はさらに71年6月に宮崎区に転属し同年11月に鹿児島区へ再転し74年4月に同区で廃車となっている。

1964.5.4  京都を出発して東海道本線と分岐し梅小路区横の大カーブを行く923列車敦賀・豊岡行き。▼

1968.5.19  珍しく京都駅東海道本線ホームに到着したC57127牽引の列車。かつて東海道本線蒸機時代はこのような感じでなかったかと想像しながら夢中でシャッターを切った。臨時列車か回送ではないかと思うが詳細はわからない。▼

1972.5.1  川中さんの車で鉄鈍爺さんと九州横断旅行をしこの日の午後鹿児島入りした。鹿児島区には懐かしい梅小路から来たC5739とともに、C57127がいた。ボイラ端面が角形なのが特徴。右は宮崎区のC57117。▼

1972.5.1   C57127の斜め横のビューで三菱の銘板と[梅]から[鹿]に変わった区名表示が読み取れる。▼

 

C57190 1946年12月三菱三原製造 製造番号523 新製配置は門司港区で以降56年10月米子区、1959年10月伊勢区、61年2月和歌山区、65年10月梅小路区と前半九州、後半関西で活躍した。C57の第4次車(190~201号)は九州、北海道に多く配置され本州は当機190と亀山区の198の2両だけであった。別形式にしてもいい程のスタイルでC59似とも言われファンも多い。

1963年8月6日 C57190は梅小路区の前は和歌山区にあって準急列車なども牽引していた。この日は庫の中で休んでいたが何となくC59に似ている。左は同区の入れ換え用C50115。▼

1965.5.3  紀勢本線南部駅で交換する2106列車天王寺発白浜口行き準急「しらはま」牽引のC57190。▼

本題の梅小路時代に入る。ところで金沢区等から転属してきた梅小路区のC57は毎日やってくる福知山区のC57と外観上大きく異なるのは福知山区のC57はドーム後方に重油タンクが付いていることである。関西地区にはタンク付きが多い。これに対して梅小路区の他区からの転入車は重油タンクはなく比較的オリジナルな姿である。参考に64年5月4日梅小路区で撮った福知山区の重油タンク付きのC57128である。この機関車は大津に保存されており大津の86さんに案内していただいた。▼

一方、同じ関西の和歌山区から来たC57190は同区の他のC57と同様ドームの後ろに重油タンクがついている。さらに梅小路に来てから煙突に集煙装置を付けてしまった。写真は66年6月5日早朝の馬堀付近の園部発624列車京都行きC57190である。番号が見えなくてもその風貌で分かる。▼

続いて馬堀の定番撮影地。1968年10月8日園部発京都行き1830列車。▼

終わりに

阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震に続いて今年は元日の夕方能登半島で大地震が起こった。阪神・淡路や東日本と比べて死者は少ないが、3週間経っても復興が見えにくく趣味の投稿をやっていていいのかと思うことがある。私は多くの病気を抱えており整形外科、眼科、皮膚科等で通院し25日は要介護認定検査を控えているが一人住まいで気が滅入るのでデジ青を利用して投稿やコメントをすることが気晴らしにしているのも事実である。ただ最近は特に記憶が薄れ、何回読み直しても誤字や間違った表現が減らないのが気になる。「梅小路のC57」は今書店で販売されている「蒸機の時代No94」北陸線特集に掲載された諸先輩の金沢時代のC57等に触発されたのも事実である。蒸機を知らない方も多くなりそういう方々には迷惑をかけているような気がするがお付き合いいただき御礼申し上げる。今度はカラーでもう少し新しい車両を紹介したいと思う。

C57の履歴は交友社SLNo3を参考にした。

 

 

 

 

DF50の思い出写真(9)土讃線・予讃線 

世界の恐ろしい戦争に加えて新年早々いろいろな悲しいニュースが飛び込んできた。さらに政治の世界はどうなっているのか嫌な年のスタートとなった。この様な中で正月もあっという間に1週間が過ぎてしまった。デジ青もなかなか気分的に進まないが、私のヘボシリーズが残っているのでこれを片付けないといけないと思いDF50の思い出写真シリーズを始める。

今回は四国のささやかな思い出である。確か快速つくばねさんからご指摘があったかと思うが、当時の時刻表には土讃本線、予算本線とあるが、最近の時刻表にはなし表示であることを確認しそれに従った。

1977.8.27  松山から高知までバスで山越えし、南国土佐の高知駅12時41分発のDF50517[高知]牽引226列車高松行きの最後部オハフ332392四コチに乗車。メモにはこの日は酷暑とあるがDF50の正面貫通ドアはだらしなく開けっ放しで男前台無しである。このDF50517~520は1958年新製当初から四国に配置され78~79年の廃車まで基本的に高知区から他区へ出ることがなかったのも珍しい。▼

DF50517を再度撮ろうと思い土佐山田でキハ58128の急行「あしずり3号」に乗り換え大歩危で降りて追い抜いた226列車を山間部で待つも現れたのはまたドア開けっ放しのだらしない姿のまま。諦めて次の急行「土佐5号」で阿波池田に向った。夕方の225列車高松発高知行きDF5012[高松]を撮影。この日は阿波池田で泊まった。▼ 続きを読む

DF50の思い出写真(8)播但線

私の知る播但線DF50は列車牽引でなく補機運用であった。播但線は過去に生野峠のトンネル内で機関車の不幸な事故が起きた暗い過去もあったが、回送を兼ねたC57の3重連を生むなどファン向けのサービス運行もあった路線である。北陸本線の杉津峠のような印象的なシーンではないが播但線補機の数少ない記録である。

1962.12.16和田山駅で待機する前補機DF5064[米子]+本務機C5523[豊岡]の貨物列車。DF50はピカピカの新車の感じで茶系の落ち着いた旧塗装であった。C5523は少し見づらいが流線形改造の面影が運転室付近に残っている。▼

196712.16生野駅の城崎発3606列車週末準急「ゆあみ」大阪行き。本務機C5562[豊岡]と前補機DF5064[米子]が側線に後退する姿。DF5064はこの日は補機専用の仕業であった。C5562はラストナンバーで姫路からはEF58交代して大阪に向った。▼

撮影とフィルム現像の失敗で申し訳ない写真であるが、1969.2.23生野付近で下ってくるDF50前補機+C57本務機の姫路方面に向う上り貨物列車。C57は既に絶気状態である。各列車こんな姿で和田山-生野間を走っていた。▼

東のC59、C62の記録

総本家青信号特派員さんの「西のC59、C62全記録」シリーズが一段落されたと思うのでここで仙台を中心とした「東のC59、C62」を発表したい。特派員さんほど秀麗な写真はないが、わずかな記録であるので、見たことがあるシーンも含まれているのはそれだけ撮影枚数が少ないということでご容赦いただきたい。

まず、C59であるが東北本線のC59は上野から宇都宮、白河、福島あたりで活躍してきたが私が見たのはわずかに残った仙台区の2両で最後の活躍をしていた頃である。

2両は戦前型のC5990と戦後型のC59176 である。何れも山陽路のそれとは異なり予備灯がついていた。仙台機関区は駅の横にありC59~C62の大型旅客用の機関車が狭い場所にたむろしていた。因みに貨物機は長町区が中心であった。1965.9.4 仙台C5990▼

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DF50の思い出写真(7)紀勢本線・関西本線

関西にいても紀勢本線は遠く、さらに関西本線のDF50の活躍は限定されていた。1965年5月2日名古屋23時20分発夜行ディーゼル準急紀伊勝浦行き「うしお2号」に乗車。翌5月3日早朝5時過ぎの新宮で下車した。ここで新宮6時30分発天王寺行き123列車で紀伊田辺で下車しC57やD60の撮影に向った。この時、雨の早朝の新宮駅で撮ったのが唯一のDF5016[亀山]である。この後に交換する列車にDF50は見られず、準急もC57、C58であった。▼

もう少し前の1963年5月3日亀山区で撮った茶系塗装のDF5031[亀山]でピクのDF50特集に掲載された。▼

1972年9月9日下庄駅でC57198の126列車を撮った後下り多気方面に向かうDF5014[亀山]の列車。▼

1968.9.29関西本線加太-中在家(信)の大カーブを行く廃止直前の急行「大和」湊町行きを牽引するDF5025[亀山]。大阪通信員さんを始め加太会の皆さんの主戦場。この写真も趣味誌に掲載されたことがある。今見るとこの写真はあちこちに氾濫している。▼