DF50思い出写真(4)奥羽本線

これは再度申し上げるが蒸機の撮影の合間に撮ったDF50の気まぐれ写真である。カラーの変色、ピンボケを敢えて出したがお許し願いたい。秋田にもDF50マン形が集中配属され、奥羽本線、羽越本線の優等列車牽引等に活躍していたが、羽越本線では撮る機会がなかった。今回はやや日誌風にし、番号の分かる機関車はその変遷を記した。

1965(昭和40)年8月31日急行「八甲田」で早朝の青森に下り立ち、初めての東北の爽やかな空気を吸った。キューロクの入れ換えやC60の上野行きを撮ったあと奥羽本線の列車に乗った。一人旅で気の向くまま鶴ヶ坂で降りた。そこでC60、C61、D51の旅客列車とDF50を撮った。

8時40分大館発青森行きを牽引する秋田区のDF50549が鉄道防雪林の横を青森を目指してやってくる。

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「お城と鉄道」番外編 会津若松城(鶴ヶ城)

「DE50の思い出・磐越西線」で忘れていた城がまた一つ出てきた。同志社の方ならご存知NHK大河ドラマ「八重の桜」に出てくる名城である。綾瀬はるか主演の大河ドラマ「八重の桜」は2013年に放映されたのであれからかれこれ10年経過したことになる。

会津若松城は文禄2(1593)年に蒲生氏郷が本格的な天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名し、慶応4(1868)年戊辰戦争では新政府軍の1か月に及ぶ猛攻に耐えた難攻不落の城として知られる。明治7(1874)年に建物全てが破却されたが昭和40(1965)年に天守閣が再建された。

山本八重(後の新島襄の妻)は、会津藩士山本権八、佐久の両親のもと1845年というから丁度私の100年前に会津で生まれている。兄は山本覚馬で京都府議会議長、京都府顧問などを歴任。新島襄の協力者で今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。

慶応4(1868)年、板垣退助率いる新政府軍が攻め入った鶴ヶ城で婦女子、老人、少年兵とともに24歳の八重は鳥羽・伏見の戦いで戦死した弟三郎の形見の服を着て戦うなど幕末のジャンヌ・ダルクと言われた。さらに薙刀の名手で22歳の若さで壮烈な死を遂げた中野竹子の名も忘れられない。

「逆賊」の汚名を背負わされた会津藩は下北半島に斗南藩など貧しい土地を与えられたり苦難の道を歩んだが、その後徐々に復権されていった。山本覚馬の京都での活躍もそうであるが津田梅子らとともに日本最初の女子留学生に選ばれた山川捨松(薩摩の元老大山巌の妻)も会津藩士の娘であるなど明るい話題も出た。また、京都守護職であった9代藩主松平容保の孫にあたる松平節子は秩父宮妃勢津子殿下となられている。

198911.18 会津若松城(鶴ヶ城)▼

2013.4.10   「八重の桜」ポスター 東武下今市駅 ▼

2018.10.25 会津鉄道会津田島駅に掲載の会津宣伝ポスター ▼

2013.4.10  東武鉄道上今市で方向転換して東武日光に向う会津若松発 東武日光行き快速「AIZUマウントエクスプレス号」AT751+AT701。2010年新潟トランシス製造の車体には「八重の桜」の宣伝が入る。

 

DF50思い出写真(3)磐越西線

1963(昭和38)年4月1日の動力車配置表によると郡山に磐越西線用に3両(564,565,566)のDF50が配属されている。1966(昭和41)年3月21日に常磐線蒸機の撮影後、磐越西線の蒸機を撮りに行った。目的はD50であった。川桁で寒い布団で寝た翌22日に撮ったDF50の旅客列車で何れも川桁-猪苗代間の高原地帯である。

早朝の日出谷発郡山行き222列車。この時点ではまだ磐梯山の山容を見ることができた。▼

上野発喜多方行き2401列車牽引のDF50。先頭はスハフ42か。DF50のブルンブルンに続きズシン、ズシンの客車音。▼

DF50は3両しかないためか上り急行「第1ばんだい」2404列車会津若松発上野行きはD51[磐越西線管理所(会津若松)]牽引であった。珍しく蒸機牽引急行列車である。朝方見えていた磐梯山も昼前にはご覧の通りである。▼

この日は曇天であったが、目的のD50貨客共に1本づつ撮ることができた。

DF50思い出写真(2)日豊本線

比較的優等列車の多い路線には500番台マン型が配属された。当時の大分運転所にその500番台が集中配属されていた。ここでもC55やC57が旅客列車や貨物列車を担当し、DF50は急行の「高千穂」、「日向」、「ぶんご」、「夕月」等に、また、ブルートレイン特急の「富士」、「みずほ」、「彗星」に使われた。

1962.10.20 修学旅行は関西汽船で別府に行き、1泊後高崎山に行った。お猿に土産物を盗られないようにしながらDF50の列車を撮った。西大分-東別府間を行く520列車南延岡発門司港行きで左手に駐車中の観光バスが見られるがこの付近を大分交通別大線(1972.4廃止)が走っていた。▼

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DF50の思い出写真(1)福知山線

DF50は亜幹線の無煙化を目的に1957(昭和32)年に先行試作され1963(昭和38)年まで増備された電気式ディーゼル機関車である。1-7号機は試作機である。

DF50と言えばED60やED70等と似た顔で国鉄設計陣の思想なのか車両会社の提案なのか、はたまた両者の合作なのかよくわからないが、とてもいい顔をしていると思う。それにBーBーBの軸配置は丙線入線を考慮したようであるがこれが16mの短い車体に綺麗に収まっている。一方、同じディーゼル機でもDD13やDD51は凸型であることも影響しているのか好きになれない機関車だった。また、DD50と異なり暖房車連結不要の蒸気発生装置がついていて正しく無煙化対応がなされていた。0番台は新三菱重工、汽車、日車でスイスのズルツァー社との提携で65両、500番台は西ドイツ(現ドイツ)マン社との提携で川車、東芝、日立で73両計138両が製造された。500番台のマン型の方が僅かながら定格速度が速かったので優等列車の多い路線で使用された。機械的なこと、技術的なことはよくわからないが、マン型はドドドドという連続した音で、ズルツアー型は焼玉のようなポンポンポンというリズミカルな音だったということだが私にはの2種類の区別がわからなくいつもブルンブルンブルンという音に続くオハ61系等の客車のガタンガタンの音の記憶が強くとにかくスピードが遅い機関車という印象を持っている。当初は茶色っぽい色(こちらの方が貫禄があって好きであった)で後に明るいオレンジとグレーに変更されていったが線区によってあるいは列車種別や固定編成客車用に対しても一貫してオレンジ、グレーの色を変えなかったことが嬉しい。

1961.4.2 私が最初に撮った鉄道写真は宝塚駅手前でのDF5049[米子]牽引の門司発712列車山陰線経由大阪行き長距離鈍行であった。ご覧の通り下手な写真であるが、鋼体化改造客車のひとつ開いた窓や木製の日よけ、ドアを開けて風にあたるお客など開放的でこれが客車と思う日常いつでも見られた列車風景であった。▼

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お城と電車(25)彦根城

徳川家康の命により、関ケ原で戦功のあった上州高崎の井伊直政が近江に封ぜられ慶長8(1603)年頃に築城に着手し元和8(1622)年に全体の完成がなされた。彦根城はその普請に際して近縁の諸城から門や櫓など多くの建物を移建したとも伝えられ、石垣も運ばれたという。大津城、安土城、長浜城、小谷城などがその対象となったようである。

2023.8.29 彦根城 三層三階の天守に石垣は牛蒡積み(野面積みでも奥行きのある胴長石を用いる)▼

2023.8.29 本丸太鼓門 ▼

2023.8.29  彦根駅の3475M近江塩津発新快速姫路行きクモハ224-104 ▼

彦根城は車を運転していた頃近江八幡城や安土城訪問後に行こうとしたがテントを張って工事中のため諦めた経緯がある。今回の訪問で日本の残存天守のある城は全て行ったことになる。猛暑の中、彦根駅からは徒歩でも行けるが往復タクシーを利用した。タクシーを降りてからが大変で長い階段状の道を歩き、天守へは急な階段を登り一苦労で会った。電車からは遠くに彦根城を見ることができたが、線路端を歩き城を入れて電車を撮る気力はなかった。湖国に聳える国宝彦根城を最後に「お城と電車」シリーズは終了とさせていただく。

 

お城と電車(24)姫路城

姫路城の始まりは羽柴秀吉が姫山に三重の天守を構えた時からである。慶長6(1601)年に姫路に入城した池田輝政は大造営に着手し、同14年までに城郭全体の事業を成し遂げた。白鷺城とも言われ最も美しい城である。

2014.4.10  国宝であり、世界文化遺産登録の姫路城▼

2014.4.10 満開の桜と姫路城 ▼

姫路城をバックにした鉄道写真は是非撮ってみたいが場所が見つからず今日に至っている。あれだけ大きな城であるから新幹線、播但線、山陽電鉄のどこかで見えると思うが熊本や松山の様にはいかない。皆さんで撮れそうな場所があれば情報をお願いしたい。仕方なく姫路駅付近で撮影した写真を貼らせていただく。

2014.4.10 EF651136牽引西鹿児島発新大阪行き32列車「なは」と播但線用103系 ▼

1965.11.12 姫路駅を出発するC5743[豊岡]牽引の播但線貨物列車 ▼

 

お城と電車(23)松山城

夏目漱石の「坊っちゃん」や道後温泉で有名な松山にも残存天守がある。松山城は姫路城、和歌山城とともに三大平山城に数えられている。賤ケ岳の七本槍の一人加藤嘉明が築城した最初の松山城は五層であった。現存する天守は安政元(1854)年の再建であり、日本の残存天守の中では一番新しい。

1998.5.1 勝山山頂にある壮麗なたたずまいの松山城 ▼

伊予鉄道市内線電車と松山城を入れて撮れる場所が愛媛県庁付近にあるが、その機会を逃してしまった。伊予鉄市内線ではDRFCの間では元京都市電2000形の活躍が人気であるが、どのような形式でもかまわないのでお城を入れて撮られた方がおられたら貼り付け投稿していただきたい。私のは2017.7.16JR松山駅前の2103である。▼

お城と電車(22)島原城

「お城と電車」と何気なく題を付けてきたが気動車が走る非電化区間も題としては電車である。今の若い方、特に女性は気動車であっても電車と表現する方も多いのでその辺は気にしないで進めることとする。気にするのは今デジ青上では総本家さんが自主公演「あの日あの頃ほぼ同月同日に還る~26~」で島原鉄道を取り上げられていることである。この点についてはつい先日総本家さんと東京渋谷で島原城ほかの話をさせていただいたのでここに発表させていただく。お城シリーズもそろそろ打ち止めであるが話が進むうちに思った以上に立派な島原城があったので今回の発表とした。

島原城は1618(元和4)年から松倉豊後守重政が約7年の歳月をかけて築いた近世城郭で五層の天守閣と大小の櫓から成る壮麗な城であった。それ以来4氏19代の居城であったが、1876(明治9)年に石垣と堀を残して解体された。1964(昭和39)年に地元の方や関係者の熱望もあり天守閣が復元された。4万石とは思えない分不相応の立派な城である。

2007.10.28 朝撮影した島原城 ▼

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お城と電車(21)犬山城

暑くて投稿が進まないが久しぶりの「お城と電車」である。残存天守のお城には鉄道を入れて撮れるのがなかなかないのが悩みである。今回の犬山城はNHK大河ドラマ「どうする家康」の舞台となった木曽川河畔にある風光明媚な国宝の城である。犬山城は天文6(1537)年に創築された美濃金山城の移築説もあり同年信長の叔父信康が築城したとも言われているがはっきりしていない。本能寺の変以降は秀吉対家康・信雄連合の小牧・長久手の戦いを経て、世の中は徐々に家康が優勢となっていった。この間、家康が名古屋城を築くまでは犬山城の軍事的な位置づけは大きかった。一方、犬山城は成瀬家個人の所有で有名であった。元和3(1617)年に成瀬正成が城主となり以降9代の長きに渡り城地を守り続け明治を迎えた。濃尾大地震では天守以外は倒壊したが、旧城主の成瀬家の努力で保存された。1981.1.21のカラー写真の保存状態がよくなくこれ1枚が一番マシであるので掲載させていただく。▼

2009.3.7にDRFC-OB会の会合が犬山で開催されたが、翌日は明治村の古典蒸機、N電、蒸気動車それに古い建造物を見学した。行事終了後、名鉄犬山線と並行して走るJR高山本線を撮影した。その中に名鉄5402~5302の新岐阜発犬山行きを撮った写真があるが遠くの山の上にかろうじて犬山城が見える。5300系は5700系と同様にパノラマカーなき後にも残っていた2ドアクロスの車両で5700系が新造車であるのに対し、5300系は5000系や5200系からの機器流用車である。▼

 

横浜市電保存館

横浜市電を投稿するにあたり7月15日に市電保存館に行ってきた。保存館は田浦の梅林を見た直後2011年3月11日の東日本大震災に遭遇して夜間横浜まで歩き通した時にチラッと見ているが実際館内に入ったのは始めてである。保存館は市電時代の滝頭車庫にあるが、磯子、根岸、京急上大岡あたりからバスに乗ることになるので便利ではない。館内には523(単車)、1007、1104,1311,1510、1601と花電車らしきものが保存されている。保存車と同一ナンバーの車両の現役時代の姿も併せて発表する。

まず、横浜と言えば単車王国でその代表である500型(501~559)は昭和3(1928)年から60両(うち15両は600型に改造)もつくられたのであちこちで見かけたことは前回に記した通りである。保存車輛のこのブルーカラーは残念ながら見たことがない。▼

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横浜市電

横浜は2023年時点でおよそ人口が377万人あり大都会である。昔は神戸とともに2大貿易港として君臨した。一方、我が国始めての鉄道が明治5(1872)年新橋(汐留)-横浜(桜木町)間に開通したことは誰もが承知のことである。人口は2番目であるがその印象は東京の影に隠れてもう一つ薄いような感じがする。横浜の有名な観光スポットとしては中華街、山下公園、三渓園等があるが京都、東京、大阪と比べても少ないように思う。歌の世界では美空ひばりの出身地であり、「赤い靴」など物悲しい童謡があった街である。青江美奈の「伊勢佐木町ブルース」や石田あゆみの「ブルーライト横浜」などよく知られた曲が多数ある。石田あゆみは女優、歌手でフィギュアの選手であり、姉は同競技で全国3位になったことがある同志社大学卒業生である。最近のデジ青では駅弁が賑わっているがここは崎陽軒のシウマイである。

さて、本題の市電の話であるが、大学時代の4年間実家が横浜にあった関係で学校が休みの間に時々暇を見ては撮っていたものを今回発表させていただく。従ってかなり記憶が薄れて街並みも大きく変化したので一度かつての場所を見てみたいがこの猛暑では無理である。総本家青信号さんお得意の新旧定点撮影もできず全体に曖昧な所もあるがお許しを願いたい。加えてカラーは1枚もないことをお断りしておく。

横浜市電は明治37(1904)年7月に横浜電気鉄道により開業。途中、大正10(1921)年に横浜市が買収し、昭和47(1972)年3月に廃止されるまでの約70年間市民の足として活躍してきた。従って、70年の歴史のほんの最後の5~6年間の記録であるが、それでも廃止後50年を経過しており街の風景や人々の姿は今とは変わってしまっているので記録として報告する。

横浜市電は昭和40(1965)年から撮影を始めたがいつも見慣れていた京都市電に比べて今ひとつ洗練されていないように感じた。また、都電のように車種が多くないことも面白みに欠けていた。ただ、嬉しいことに単車がゴロゴロいたことである。

<単車群>

それではその単車から見て行きたいと思う。最初はダブルルーフであった400型である。この車両は32両あり、昭和41(1966)年に廃車されて形式消滅しているのでギリギリ間に合って撮ったことになる。1965.12.21元町付近⑤系統419号▼

500型は昭和3年(1928)年に東京瓦斯電気、蒲田車両、雨宮製作所で20両ずつ計60両製造された。戦後、15両が600型に改造されたが、昭和44(1969)に廃車となった。これだけの両数があったので市内の至る所でこの500型を見ることができた。この有名な麦田のトンネルを撮っていないと横浜市電を撮ったことにならないと言われた名所である。1967.2.11雪の日の麦田町-元町間の専用軌道を行く⑤系統539。

600型は戦後空襲で焼失した500型を復旧した車両で窓が二段式となっているのが特徴である。1966.8.17反町停留所を出た①系統603号弘明寺行き。▼

700型は戦前に200型と貨車を改造して作られたとのことであるが木工に秀でた職人がいたとかで木造のようだが定かではない。昭和42(1967)年に廃車となっている。1966.7生麦車庫で廃車直前の717号▼

この他に戦後の混乱期に最後の単車800型がつくられたがお目にかかることはなかった。

<ボギー車群>

1000型は横浜市初のボギー車で昭和3(1928)年震災復興事業で20両製造された。馬力が小さいため、平坦な路線を中心に運用され昭和45(1970)年に廃車された。

1969. 市庁前を行く②系統三渓園行き1019号。この付近に平和球場があり、現在は横浜スタジアムとしてDeNA横浜ベイスターズの本拠地になっている。市庁は現在は関内地区とみなとみらい地区の結節点に移転新築されている。▼

1967.7.31 杉田線廃止の最終日の⑬系統桜木町行き1005号。杉田▼

正月を迎えると停泊中の舟から一斉に汽笛が鳴り、新年を新たに感じたものである。漁船等は大漁旗を挙げて港横浜の正月を演出してくれた。ゴチャゴチャして見にくいが桜木町駅前の橋の上を行く1000型である。バックは海であるが、現在はみなとみらい地区になっており想像できない風景である。1969.1.2桜木町駅前▼

1968.8.17  東海道線の見える反町-青木橋あたりを行く⑫系統1019号葦名橋行き。▼

1100型は昭和11(1936)年に新式中型ボギー車として梅鉢車両にて5両製造された。クロスシートが装備され「ロマンスカー」と呼ばれたこともある。昭和42(1967)年ワンマン化改造されたが、1972(昭和47)年の市電全廃まで活躍した。

1969 市庁前付近の公園をバックに走る④補系統麦田町行きの1102号▼

1150型は和製PCCを目指した1500型の使い難さ経費増などの反省から従来の考えに戻して新たに製造したものであり外観は1500型に類似している。1952(昭和27)年から1955(昭和33)年にかけてナニワ工機、宇都宮車輛、交通局で22両製造され1972(昭和47)年の市電全廃まで使用された。1967.7.18 かつては海水浴場があった間門付近を行く⑤系統洪福寺行き1166。▼

1967.7.31 杉田線最終日の装飾された最終滝頭行き1166号。▼

1200型は1942(昭和17)年に製造された3扉ボギー車。1967.7.31桜木町駅前を行く⑬系統杉田行き。船と市電が写るのも横浜らしい。 ▼

1300型は終戦直後の混乱した昭和22(1947)年に輸送力増強のため30両を製造。車体も軽く、性能も安定しており、高馬力であって③、⑦系統のでの使用が多く最後のツーマン車として昭和46(1971)年まで使用された。1969.1.2 元町停留所の②系統葦名橋行き1317号。後方右に入った所がファッションの元町商店街があるが私には全く縁がなかった。▼

1400型は昭和24(1949)年木南車輛で10両製造され昭和45(1970)年まで在籍した。ノーシル・ノーヘッダーの丸みを帯びた外観が特徴。▼1967.7.31杉田停留所で発車を待つ⑬系統1405と後続の1403▼

1500型は300型の代替として1951(昭和26)年に製造。和製PCCカーだが吊り掛け駆動の間接制御車である。台車に防振ゴムを使い振動、騒音を少なくし、電機と空気ブレーキを使用するなどした。しかし、現場の評判がよくないのか20両の製造に終わったが、市電廃止の日まで使われた。1967.7.31杉田停留所で折り返す⑬系統桜木町駅前行き1509号。▼

1969 吉浜橋付近の④系統三渓園前行きの1513号▼

1600型は昭和32(1957)年交通局で6両製造された最後の新造中型ボギー車。後部乗降口を中央に移したバス型配置で出入り口を大きくとり、4枚折り戸を採用。昭和45(1970)年に廃車。1967.7.31オート三輪が走る国道16号杉田停留所の1603号。▼

次回はその2として滝頭にある横浜市電保存館を紹介して終わりにする。

お城と電車(20)丸亀城

予算本線の下り列車が宇多津を出て間もなくすると左前方の小高い山の頂にそびえる丸亀城のが見えてくる。ここで城シリーズの間が空いたので年をとっても頭脳聡明な諸兄には失礼であるがおさらいをさせていただく。快速つくばねさんからも詳細なご説明があったとおりが日本の残存天守は20あり、そのうち四国には4カ所ある。高知、松山、宇和島そして今回の丸亀である。

丸亀城は生駒、山崎、京極氏と三氏にわたって築かれ自然の山をうまく利用した城である。豊臣系の生駒氏はお家騒動で出羽矢島に転封され、山崎家治が寛永18(1641)年に入封し、この頃に現在の丸亀城は完成したと言われる。山崎氏も不運な城主で三代で絶家となり以降近江佐々木源氏の末裔京極氏の時代となり明治まで続いた。

版籍奉還後は多くの櫓などが取り壊されたが、旧藩士の必死の嘆願により天守や御門などは破却をまぬがれて、現在は重要文化財に指定されている。

三層の天守は、小藩であったため遠慮したのか、旧藩時代には櫓と称していて目の前に見る天守は小さい。しかしここから見る眼下の街や瀬戸内海は見事である。以下撮影は1998.5.3 ▼

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お城と電車番外編 熊本城と福山城、ついでにJR西500系

奈良の駅名研究家さんから「駅前喫茶店(第61回「城」を含む駅名)」で「城」とあったので一瞬びくっとした後、快速つくばねさんからのコメントでこの分野は準特急さんの専門と言われ、最近はあまり投稿していないので背中を押されたような気分で急遽ネタ探しをしたのがこれです。大分日が経ちましたが今回北九州大旅行をして来た時の話です。途中抜け出して熊本に墓参りに行ってきましたのでえらそうなことを言えませんが、イベント前後の話です。航空券が入手できなかったので普段はなかなか乗車できない山陽新幹線にしました。帰りに乗ったことがない500系に乗ることが目的でした。定宿にしている東横インの小倉駅新幹線口は少し辺鄙な所ですが客室から小倉駅を発車する新幹線が見えました。2023.5.26  岡山行きこだま874号500系8連▼

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北九州ツアーの御礼と思い出写真

吉田耕司先輩は私が入会した時の4回生でした。卒業後も当時存在した江若鉄道の近江今津までご一緒させていただいたことがあります。先輩はもっと遠い所に旅立たれてしまい寂しい限りですがこの場をお借りして生前にお世話になりましたことに対して御礼を申し上げますとともにご冥福をお祈り申し上げます。

さて、北九州ツアーですが、参加者名簿を見ますと私が、最上段にあり、つまり最高齢参加者ということになり、皆さんにご迷惑をおかけすることはできないので前日26日に新幹線で小倉入りしました。おかげさまで天気に恵まれ幹事の方にもよくしていただき会長さんの投稿にありますように大変楽しい旅行ができました。特に最初の門司港にあります九州鉄道記念館ミュージアムには懐かしい国鉄時代の車両が展示されておりましたのでそれら展示車両の現役時代のフィルムを見つけ出して対比してみました。記念館の展示車両は参加できなかった方にも見ていただこうと思い掲載しました。

最初に目についたのはやはりC59のトップナンバーC591でした。1941(昭和16)年汽車会社製造で製造番号2000で名古屋区に配属され以降、姫路、門司港、熊本と転属していきました。準鉄道記念物になっております。▼

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総本家青信号特派員さんレイルにお召し列車撮影記発表

連日デジ青の自主投稿でご活躍の総本家青信号特派員さんが株式会社エリエイ発行のレイルNo126に登場。これだけでは何ということはないが、55年前の越美北線の8620形重連のお召し列車の機関士さんとの交流やその奥さんとのエピソードなどまるで映画のストーリーを見るような内容である。レイルに掲載されたきっかけはデジ青を毎日見ておられるレイルの編集長が総本家さんの越美北線のお召し列車重連の撮影記を見てこれはいけると考え昨秋から準備に取り掛かった次第である。写真の構成も申し分なく一度皆さんにも見ていただきたい。なお、マルーンさんと思われる方も文面に登場されている。発表が遅くなり申し訳ない。

 

笠置のこと

ゴールデンウィークに入ったが、各人どのような計画をお立てだろうか。総本家青信号特派員さんが草津線に続いて関西線本線やナローの私鉄等の思い出の作品を報告されている。どれも立派な写真や記事を自主投稿され続けていることに毎度のことながら頭が下がる。そのような中で笠置駅のD51と見事な桜(2023年4月18日投稿)が目に留まった。私自身は笠置は景勝の地であるが降りたことはなく、ただ、1963(昭和38)年5月3日に亀山に蒸機を撮りに行った時に笠置駅に名古屋区のC57102が臨時列車を牽いて停車したのには驚いてシャッターを切ったことがある。ゴールデンウィークの真っただ中で行楽客を運んでいたものと思われる。通常、名古屋や稲沢の機関車は関西本線は亀山までの運用であったが、珍しく加太を越えて来たようである。▼

戦後という言葉も使われなくなったこの頃は高度経済成長期に入っていた。笠置駅も行楽客が大勢下車したが子供の姿は見受けなかった。832D奈良発笠置行きキハ3613。次の列車迄の20分待ちの間にキハ55系準急かすが1号+はまゆう+平安1号も撮ったがどういう訳かフィルム劣化で見られる状態でなく割愛した。▼

亀山区での定番の撮影場所。C51225は倉の中で撮影には不向きの状態でありボックス動輪のC51240とパイプ煙突のC5152は原形くずれで不満であった。不満と言えば、亀山まで来ていた名古屋区のC55は北海道に移った直後であり本州では豊岡、和田山だけになってしまったことである。▼

帰りに寄った奈良機関区は扇形庫にD51、C57、C58が一杯入っていた。この辺りは今はどうなったのか知りたいものである。奈良の駅名研究家さん専門外かもしれませんがどうでしょうか。▼

笠置駅で思いがけず出会ったC57102はこの日亀山からの帰りに奈良区に寄ってみたら既に方向転換をして名古屋に戻る準備ができた状態であった。モノクロでは分からないがナンバープレートは勿論赤ナンバーであった。 ▼

お城と電車(19)松本城

最近は城ブームなのか各地の城をテレビでもよく見かける。スマホで見ると今回の松本城は人気ナンバーワンになっているが、松本城は三名城にも入っておらず国宝(他に姫路城、犬山城、彦根城、松江城)ではあるがいささか驚いている。松本界隈にはその昔いろいろな城が点在していたようである。松本城はそのうちの深志城を武田氏が修築拡張したのが始まりのようで、その後織田氏によって滅ぼされた後に豊臣氏の命を受けた石川氏によって近世城郭への大普請が行われた。天正18(1590)年に入城した石川数正、康長父子二より造営された。天守は五棟からなり、康長時代の文禄元(1592)年から慶長元(1596)年に築造したものであるが、諸説がありはっきりはしていない。

1998.3.29  天守は五重六階で五棟が国宝となっている ▼

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お城と電車(18)備中松山城

備中松山城は現存12天守のうち唯一の山城である。標高420mの臥牛山にあり、JR伯備線備中高梁駅から徒歩で20~25分かかり、高齢者にはタクシーの利用がお勧めである。この地は鎌倉時代から城や砦があったが、関ヶ原の合戦以降家康の傘下となり、小堀新助政次、その子政一が入った。政一は小堀遠州のことで城や庭造りの名人と言われた。現在の城は寛永19(1642)年水野(みずのや)氏の時代のものである。城主は目まぐるしく代わったが水野氏の後には播州赤穂の浅野氏となり大石内蔵助が城代となっている。昭和の初めの古写真を見ると天守はボロボロで崩壊寸前の姿である。明治6(1873)年の廃城令で藩主の居宅等は破壊されたが、天守や櫓、門等は不便な山の上にあったことが幸いし、そのまま放置され昭和16(1941)年に国の重要文化財に指定されている。

訪問したのは2002. 8.18の午後で暑い中を徒歩で行ってみると何と天守は工事中でがっかりした。▼

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こんなんあるで韓国版残り

前回、東大邱で撮ったミカド形ボックス動輪の蒸機と狭軌の蒸機を「こんなんあるで韓国版」と称して投稿した。最後にまだナローの客車列車など残りがある旨述べたところ、訪韓実績ナンバーワンの米手作市さんから「余命いくばくない者はぶつぶつ言わんと早よ発表せい」とお叱りを受けた。よく考えたら年齢的にまさしくそのとおりであり、ここに残りを発表する。但し韓国の鉄道に知識がある訳でなく単なる観光旅行の次いでの写真であり説明するに至らない点をお許し願いたい。前回は狭軌ナローゲージのヒョーキ蒸機について乙訓の老人の甥さんに助けていただいたのでここに感謝申し上げたい。

最初は角度を変えて再びボックス動輪のミカド形蒸機であるが、この機関車についてどなたか多少でも経歴がわかれば教えていただきたい 1971.4.24東大邱▼

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