最近は健康食品とかサプリメントとかやたらに老人向けの広告を見かけるが、そんなによく効くのかといつも疑いの目で見ている。ところで、今日4日の日経新聞の文化欄を見るとこんな記事が出ていた。『 認知症、うつ、孤立に【処方】と題して「絵の中にカエルがいる!」「そういえば子供の時、よくカエルでザリガニ釣ったなあ」。3月上旬の佐倉市美術館(千葉県)、認知症の自覚症状がある高齢者など十数人が絵画を前に話し合った。最初は口数が少なかったが、次第に感想があふれてくる。1時間余りの鑑賞会の後半にはみな笑顔で、昔の記憶がよみがえってくる人も。様子を見守っていた家族は「普段はこんなに話さないのに」と驚き、喜んだ。』(原文のまま)
他人から見たらうるさいなと思われるかもしれないが、懐かしい思い出話をすることは健康にいいと申し上げたことがある。懐メロに加えて最近は小学唱歌なども同様の感じがする。私は一人住まいの後期高齢者であり、認知症、うつ、孤立の予備軍であるが今日もデジ青に拙い駅撮りを出してみた。双方向であるとより楽しいが、気が付けば同年代の趣味人の方は大変少なくなったのが寂しい。勿論、若い方からのコメントは嬉しく返事を差し上げているつもりである。
さて、広島駅の大型蒸機は何回か機関区を訪問して撮ってきたが、今回は1964年4月3日、九州から帰りに広島区に立ち寄った機関区巡りの後の2~3カットを出してみた。広島と言えば三原の西村さんが思い出されるがまだ京都にお住いの頃である。当時は同駅発着の山陽本線旅客列車は特急から普通列車迄C59かC62という最高の役者がそろった駅であった。ホームで列車を撮っていたらもう一つの大型蒸機D52が堂々と貨物を牽引していた。
下り貨物のD52373[広島] 戦時設計の粗悪機であったがこの頃は大分標準装備に改装されていた。関西では吹田に長い間在籍していた。▼
11時54分鹿児島発名古屋行き急行「さつま」が戦前型C5999[広島]に牽引されて到着。鹿児島を前夜23時に出発して山陽本線内は昼行急行のようなものでホームには大勢のお客さんが列をなしている姿が見られる。また今では見られない洗面する場所や駅弁売りの台などがあり大きな駅ではどこでも見られた懐かしい風景である。▼
続いて12時1分発岡山発門司行き225列車。回送と思われるC6216[下関]+C6215[広転]の重連。これらのC62は後に糸崎区から北海道小樽築港区に行ったがそこまでは追いかけて行かなかった。▼
そして12時6分発616列車糸崎行きC59179[糸崎]。この列車のオハフ33132に乗車して糸崎に向かう。途中天応でÇ59167[糸崎]の23列車「安芸」と交換。▼
準特急さま
年寄りには、“紅こうじ”より効く、“デジ青回顧談”ですね。
駅で撮られた列車の編成記録は、たいへん価値があります。駅間を苦労して歩いて自然いっぱいのところで写すより、その時代の鉄道の正しい姿を伝えています。私も以前「駅撮り一時間」として、広島駅を紹介しました。中線もあって撮りやすい駅で、何よりも山陽本線の中枢駅で、本線(山陽本線のことを広島駅では「本線」と言い慣わしていること、すごく印象に残りました)を行き来する列車に目を奪われました。私が最初に撮った昭和41年には電化が完成していて、C62の牽く列車が辛うじて見られる程度でした。D52が大手を振って通過したり、見慣れないナンバーのC59がいたり、そしてC62重連まで、昭和30年代後半の広島駅を楽しませてもらいました。
総本家青信号特派員様
大畠の海辺での撮影後に広島区に立ち寄りその後の呉線乗車迄のひと時ですが、分刻みでホームをうろついていたことになります。当時の時刻表を見てみますと広島から関西に向かうのには11時48分の「みどり」、14時55分の「第2宮島」、15時11分の「筑紫・ぶんご」、15時20分の「安芸」、16時48分の「かもめ」くらいで12時2分の「さつま」は大阪17時58分着と丁度いい時間帯の急行列車でした。だからホームに沢山のお客さんが並んでいるのがわかりますが今なら新幹線「のぞみ」「みずほ」「さくら」等が15分おきくらいにいくらでも出ています。総本家さんのように駅を主戦場にしてこなかったですが、大阪駅や京都駅では若いころホームのうろつきをよくやりました。最近はホームドアの設置などで追い立てられているなど別の意味でホーム撮影も増えています。C59の「さつま」もシャッターが早過ぎたと思いましたが、列車待ちのお客さんが入っていてよかったと思います。鉄道ピクトリアルのHさんは駅の風景、駅舎などが入った写真が欲しいと言われましたが私の写真がよく落ちる理由がわかった気がします。
準特急様
私も“デジ青回顧談”の仲間に入れさせてください。ここでも準特急様とニアミスをしているのでびっくりしました。実は1964年4月3日の翌4日に九州への修学旅行の帰途、長崎から大阪までの団体列車で広島を通過しています。山陽本線の西の区間が夜行区間であったので現状がよく分かりませんでしたがこのような列車が走っていたのを初めて知りました。目を覚ましたのが補機を連結する瀬野で、D52を連結することを期待していたのですが、すでにEF59に変わっていました。
急行「さつま」懐かしい名前ですね。たぶん一時期日本で唯一走行中に2回夜行列車となり2泊3日で走った列車ですね。もとは1949年に「筑紫」と名付けられた東海道区間夜行の東京-博多間の列車でしたが、1953年に鹿児島まで延伸され東海道区間、鹿児島線区間の2回の夜行となり、列車名も1956年に「さつま」に改称されました。(同時に「早鞆」を「筑紫」に改称)この列車は、1958年に寝台特急「はやぶさ」の登場により門司港-鹿児島間に短縮されましたが、1961年に名古屋-鹿児島間に再延長されたので、この列車を写されたことになります。1965年に名古屋-博多間が電車化され「はやとも」に改称、残る門司港-鹿児島間が「はやと」に分割されました。「はやとも」、「はやと」には乗車しましたが、2泊3日で走った期間は僅か5年6か月間ですが、今でも乗ってみたかった列車のひとつです。
快速つくばね様
船1泊、列車1泊なら体の弱い私でももちますが、ハザ連泊ならちょっとしんどいですね。長崎発の大阪行き修学旅行団体列車は昭和37(1962)年10月に乗車しています。長崎→鳥栖C57、鳥栖から同種の鹿児島方面からの団体列車を連結してC59かC57が門司まで牽引、関門はEF30、山陽広島までC59、後は大阪までEF58でしたが、セノハチはD52が押していました。遠い昔のことですが本当に有難うございます。併せていつものことながら列車の変遷等も説明いただき御礼申し上げます。多分セノハチのD52後補機の写真はあると思いますので明日準備致します。
快速つくばね様報告その①
今日はバスツアーでひたちなか海浜鉄道に行っていました。遅くなり申し訳ありません。昨日の続きです。瀬野駅には1962(昭和37)年10月24日8時前に到着しました。補機連結に時間が若干かかるのでその時に撮った瀬野区のD52398です。EF53改めEF59はまだ配置される前だったのでしょうか現物を見ていません。
快速つくばね様報告その②
今日初めて補機の写真を見てみましたが、テンダーの形から戦時スタイルのD52に見えます。そうすると時間をかければナンバーもわかるかもしれません。
快速つくばね様報告その③
先頭はEF58で茶色ではなく特急色に見えます。私が乗車したのは長崎発前から6両目で後ろ7両は鹿児島・熊本方面からの団体列車で鳥栖で併結しています。鳥栖から13両編成でした。
先頭車EF58の貼り付け忘れです。
準特急様
瀬野区のD52398と関連する写真ありがとうございます。ご訪問されたひたちなか海浜鉄道は、国営ひたち海浜公園の南口付近までの1.4キロの区間について、国に工事の認可を求める3月に申請をし、早ければ6年後の2030年春に開業させる計画で、久しぶりに明るい話題です。
今回、修学旅行のスハ43の車内風景を投稿します。夜行列車に乗った朝方なのでけだるい様子ですが、少しは前年に発売された舟木一夫さんの「修学旅行」の雰囲気が出ていると思います。
投稿された文中にありました吹田第一機関区の最後に残った2両のD52の写真がありますので併せて投稿いたします。糸崎から転属したD52 28と姫路第一機関区から転属したD52 142ですが、いずれも城東貨物線の無煙化により1969年3月に五稜郭に転属しましたが、半年も経たずに1969年秋に廃車となってしまいました。
準特急様
高架化された直後の片町線鴫野を通過する単機回送のD52 28です。現在この線路はおおさか東線が使用しています。
準特急様
龍華操車場に向かって放出を発車するD52 142とD51、C58の異形式の三重連です。8620を含めて当時の城東貨物線では回送を兼ねた迫力のない重連や三重連がよく見られました。
快速つくばね様
ズシンズシンのスハ43系ですが、網棚にはお土産が沢山入っているのでしょうか少し詰め込み過ぎのバッグなどで少し圧迫感を感じられるような車内の様子が見てとれます。でも、思い出いっぱいで楽しかったことでしょう。「高校3年生」は私が高3の時のヒット曲ですが、その後同じ舟木一夫の「修学旅行」という曲も流行りましたね。内容は少し違いますが、磐梯山麓沼尻方面の「高原列車は行く」の次に好きな曲です。
さて、ひたちなか海浜鉄道の延伸は始めて耳にしましたが、そういえば三木鉄道のミキ300-103というのも居ましたが使っている様子でした。
D52の写真有難うございます。D5228が吹田に来る前の糸崎時代の写真です。広島で大型機を撮った後に糸崎区で写した64年4月3日の撮影です。ただし、この写真はデジ青は2度目の登場です。悪しからずご了承ください。次に同じ1964(昭和39)年5月21日阪急中津駅の下、梅田貨物駅のD5228+D52340+D52423のこれまた迫力なしの3重連です。
快速つくばね様
もう1枚です。
セノハチと聞けば参加せずにはおれません。
米手作市様
お待ち申し上げておりました。
コメント有難うございます。恐らく、現在活躍中のDRFC会員で蒸機時代のセノハチで撮られた猛者は作市さん以外にもうおられないのではないでょうか。大阪の元学校の卒業生である通信員さんは撮られているかもしれませんね。吉田耕司さんは高橋正雄さんとセノハチへ行かれたと聞いたことがありますが、お二人とも今頃天国から見ておられるかもしれません。ところでこの2両の後補機の前の1両は給水温め器は付いていますがテンダーやドームの形状は紛れもなく戦時設計の名残りを残しています。番号の記録はないでしょうか。私の修学旅行の補機はテンダーの形状から多分この機関車だと思うのですが。
大阪の元学校は大阪の元女学校が正しいです。
この日は曇り空から降り出した雪がやまず、同行のK君が線路端で食べようとしていた「カキ飯」も凍るばかりで這々の体で広島駅へ戻りました。
いつもながら記録は取らず、ただただ撮りまくっていました。昭和39年の2月です。
米手作市様
若いからいいようなものを雪が降りだしたら大変ですね。しかし、冷凍ガキもおいしいですよ。気温が低いのか2両の機関車の煙の出方も最高です。他にも目の覚めるような傑作があると思いますので宜しくお願いします。
吹田のD52にはこんなのがあります。
これも貴重です。給水温め器がなく、角形ドーム、板張り(?)テンダーなど正しく戦時スタイルで私と同じ昭和20年か19年の生まれの粗悪大型機です。同じく撮影日、機関車番号があれば完璧です。
D51216です。
米手作市様
デゴイチとデコニが違っていますがお互いに高齢者ですからそんなことよりD52216は鷹取区から吹田1区に転属したころの写真で私は撮ったことのない機関車です。有難うございます。
梅小路で撮った吹田のD52203
梅小路のD52も初めて見ました。非常に珍しい記録です。吹田から東海道本線を上ってきたのでしょうがどういう仕事があって上洛したのでしょうか。
昭和39年の2月は、DRFCに入学する直前の春休みでした。
その時の写真にこれがありました。左のD52417は給水暖め器はなく、角形ドームの戦時型です。
米手作市様
雰囲気が出ています。ブラボー!