国道線の西半分を偲ぶ
もともと大阪~神戸を結び、国鉄、阪神、阪急に次ぐ、第4の鉄道とも言える国道線でしたが、国道2号線の渋滞に巻き込まれて、末期は昼間48分ヘッドと、地方ローカル線並みの本数になっていました。特に神戸市内で混雑が著しく、西端の東神戸~西灘が昭和44年12月、続いて乗客減少も著しい西灘~上甲子園が昭和49年3月に廃止されています。私は残る野田~上甲子園の最終間際しか撮っていませんでしたが、本を出版した際に、多くの協力者から、東神戸~西灘~上甲子園の写真を預かっています。ここでは移譲を受けたKさんの写真を載せました。
▲西灘が終点だった時代、野田へ向けて発車を待つ金魚鉢。交差するのは阪神本線で、左手に西灘駅がある。右手には「ゴンチャロフ」の看板、当時の西灘工場だったが、阪神大震災で全壊し、いまは右手に本社・工場がある。
▲阪神国道線の全体図、今回は国道線のうち、東神戸~上甲子園
▲西灘に掲げられた時刻表、たしかに昼間は48分に一本の路面電車だった。左は運転室のスタフ、西灘~野田25.1kmを1時間24分で結ぶ。いまのJR新快速が、同じ距離を走ったとしたら、軽く2往復してしまう。
▲住吉川に架かる住吉橋を渡る。普段は小さな流れだが、過去にはたびたび氾濫を繰り返した。橋のすくそばに、全国屈指の進学校、灘高校がある。住吉駅前~灘高等学校前▲同じく住吉川を渡る。神戸市バスも行き来している。右の38号系統は今でも阪神御影行きとして生き残っている。▲国道線を行く“金魚鉢”の車内、窓が大きく車内も明るい。
▲阪神本線と交差する西灘。乗り入れの山陽電車が見える。ダイハツ、マツダのそれぞれのオート三輪が顔を並べて信号待ちしている。御影石の本場らしく、美しい敷石が最後まで残っていた。▲国道2号が、国道43号と合流して終点の東神戸方面に近づく。右手の信号塔はかつて実際に機能していたが、廃止前には使われていなかった。▲左が終点の東神戸、右は神戸市電脇浜線の終点の脇浜町で、両者は100mほど離れていた。線路、架線は直結されていたが、一部は無電区間もあり、乗り入れは無かったが、「神戸みなとの祭」の時だけ、下のように花電車が走った。
▲10月に行われる「神戸みなとの祭」で、国道線に乗り入れた神戸市電の花電車、祭りのPRのため、神戸市内の住吉駅前まで走り、渡り線で折り返していた(昭和38年、これのみOHさん撮影)
総本家青信号特派員様
阪神間に住んでおりながら阪神電鉄国道線の存在は全く頭になく、例の上甲子園-浜甲子園の車両を撮っただけです。よく自転車で武庫川堤防沿いを南下して阪神本線とか国鉄東海道本線を撮りに行ったことがありますが、武庫大橋の所を通っているはずでしたが、国道電車は本数が少なかったのか見ておりません。先日初めて阪急電鉄阪神国道駅から乗車しましたが、この時国道電車と立体交差したであろう阪神国道(2号線)を撮りましたがその写真は整理が悪くまだ見つかりません。こんな具合でもっとも疎遠な国道電車でしたが、今思うともっと撮って置けばと悔やまれます。
準特急さま
コメント、ありがとうございます。人間だれしも生まれ育った街を流れる川の思い出があるのでしょう。私なら鴨川ですが、準特急さんの場合は武庫川なのでしょうか。阪急今津線と国道線の交叉ですが、なんせ48分ヘッドの国道線ですから、なかなかチャンスは訪れません。本に協力していただいたNさんが、みごとに交叉が捉えられていました。
総本家青信号特派員様
Nさんお見事です! 私の頭の中にある今津線は500+300(310)+500です。そしてこの場所から左手に少し離れた野球場では米田、梶本、バルボンがまた右側(海側)に少し行った野球場では村山、小山が活躍していました。
「国道電車」と言えば、天六、浜田車庫、東大島と西大島、
上甲子園、灘校前、住吉駅前、東神戸などは小生に取って
結構縁が深く、懐かしさも一入です。
それなのに、「国電狂?」の小生には自分で撮った写真は
僅かしかありません。
それでも今回の話題に参加したくて、探し出した愚作のシ
ョットを臆面もなく貼って見ました。
写真は順に、①武庫大橋に差しかかる下り電車 ②灘校前の真黄色のPR電車 ③住吉川(灘校前)に向かう金魚鉢
河 昭一郎
河さま
いつもご覧いただき、ご配慮も頂戴し、ありがとうございます。「国電狂」ながらも、いずれも貴重な阪国の写真を拝見しました。
再掲
「国道電車」と言えば、天六、浜田車庫、東大島と西大島、
上甲子園、灘校前、住吉駅前、東神戸などは小生に取って
結構縁が深く、懐かしさも一入です。
それなのに、「国電狂?」の小生には自分で撮った写真は
僅かしかありません。
それでも今回の話題に参加したくて、探し出した愚作のシ
ョットを臆面もなく貼って見ました。
河さまと言えば、この「灘高前」電停の真ん前にあった高校へ通われていたこと、お聞きしました。写真も貴重ですね。こんな真黄色の広告電車は初めて見ました。「甲子園の科学博」と書かれていますが、いつの時代でしょうか。今でも「科学の甲子園」と言う高校生が科学を競うイベントがあるようですが、これとは別の催事ですね。
前2枚の同内容のコメントが上手く連続せず、改めて・・・・・
「国道電車」と言えば、天六、浜田車庫、東大島と西大島、上甲子園、灘校前、住吉駅前、東神戸などは小生に取って結構縁が深く、懐かしさも一入です。
それなのに、「国電狂?」の小生には自分で撮った写真は僅かしかありません。
それでも今回の話題に参加したくて、探し出した愚作のショットを臆面もなく貼って見ました。
あの阪神国道に一台のクルマも見られないのも貴重な記録です。戦争中、真っすぐで、幅の広い阪神国道を、戦闘機の滑走路に転用することが真剣に考えられたことがあったことも聞きました。
福田 静二様
コロナの予防注射による後遺症で、以後歩行不全状態となり体調がすこぶる悪く、散歩ですら外出できない状態です。
そんな中、「デジ青」で国道電車の話題を読ませて頂き、俄然ファイトが出て来ました。
早速、本来展示には程遠い「ピンぼけ」や「キズだらけ」の写真を臆面もなく投稿してしまいましたが、そんな写真に「お相手」頂き感謝に堪えません。
仰る通り、①枚目の武庫川大橋に登って来る箱型車の写真には車らしき物は無く ③枚目の金魚鉢を「後追い」したショットには大八車こそ有っても自動車の姿はかろうじて遠く平地部分に遠望出来るだけの状態です。
なお、③の、当時阪神パークで開催された「科学博覧会」宣伝用黄色い電車は、ピク誌1958年11月号トピックフォト欄に採用掲載されており、写真説明には撮影日が33(1958)-9-20、車号が34と有ります。
仰せの戦争中の話、幼少の頃近所の爺さんから聞きましたが、反対にグラマンが来て機銃掃射で狙い撃ちされた犠牲者が多かったとも聞きました。
久しぶりにGordon Davisさんのカラーをお目に掛けましょう。行先に東神戸が掲示されているので、国道線であることは、間違えないと思いますが、場所が判りません。木立も見え、昭和30年頃には、阪神間でもこのような長閑な場所があったのだなと思わせます。若し、此処やぁ~とお判りの方がいらっしゃいましたら、御教示下さい。
宮崎繁幹様
いつもお世話になっております。Davisさんの綺麗なカラー写真を拝見しノーコメントが続いていることは誠に申し訳なく思っております。学校が京都ですので国道電車を知る人間は限られると思います。私は阪神間と言っても宝塚に住んでおり、しかも行動範囲の狭かった当時の人間としては全く知らない路線です。当てずっぽうですが、バックの木々は武庫川沿いの松林ではないかと思います。そうすると武庫大橋から東神戸に向った所ではないかと思いますが自信はありません。武庫川から尼崎方向は徐々に工場地帯になっており木々はなかったと思います。天国におられる西尾克三郎さんやDRFCーOBで先年お亡くなりになったIさんも芦屋高校出なので知っておられたかもしれません。同じくDRFC-OB会をリタイヤされたTさんは国道線はよく撮られていたのでご存知かもしれません。最近はデジ青のコメントが少ないのが悩みです。
準特急様には、お気遣い頂き、恐縮です。まぁそんなに堅苦しく考えて頂かなくても、大丈夫です。趣味は楽しんでやるのが、一番です! タネを撒かねば花は咲かないではなく、コメントでないのは御説の通りと思います。もう暫くしたら、ここどこ、わただれシリーズを再たやってみましょう、
皆様、これひとえに私の責任です。
言い訳を致しますと引っ越しの最中で、パソコンが使えません。
昨日はガラクタの廃棄日で、今日は新居のクリーニングでした。パソコン台も廃棄したので昨日から使えません。スマホと子供達のパソコンから送信しています。宮崎さんのすばらしい写真にコメントしようとしても今まで出来ませんでした。引っ越しが5月中旬(この頃になると安く出来るそうです)になるのでスキャナーを使うのはそれ以降になります。それまでさみしくてもガマンして待っていてください。
とりあえず緊急報告しました。