阪神軌道線 北大阪線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺④

(1) 天神橋筋六丁目

“煙”の話が続きましたので、目先を変えて。路面電車シリーズに入ります。先に“アレ”関連で阪神軌道線(阪国)の甲子園線を紹介しました。阪神軌道線には、ほかに国道線、北大阪線がありましたが、昭和50年に全廃され、廃止から50年近くが経過しました。今回は、天神橋筋六丁目~野田の北大阪線を何回か紹介します。目立つことがなかった阪神軌道線にあって、北大阪線は、阪急中津駅の近くを並行していて、阪急電車の窓からも見ることができました。小さい頃、阪急電車に乗って、梅田に着く直前に、チラッと単行の電車が見え、しかも阪急以上に地味な色の電車で、“なんやろ”の思いで見ていたことを思い出します。天神橋筋六丁目から発車していた北大阪線。阪神本線の野田までの4.3kmの路線で、梅田の外縁を半周するようにして連絡していた。

阪急から降りて、地上の天六交差点に立つと「阪神電車のりば」の巨大な看板が出迎えてくれ、阪急色の濃い天六一帯に、阪神が先鞭を付けた歴史を伝えていた。一面一線の天神橋筋六丁目。南からは大阪市電の天神橋西筋線が延伸され、新京阪鉄道がこの地に天神橋駅ターミナルビルを設け、さらにトロバスも走り、ターミナルとして発展するようになる。

〈北大阪線の歴史〉明治43年、北大阪電気軌道が、野田~天神橋(のちの天神橋筋六丁目)の建設許可を得た。発起人には阪神電鉄の役員も名を連ねており、実質阪神の子会社であった。当時、この附近は淀川河口近くの低湿地帯だったが、淀川の水を利用した紡績、織物、染色などの工業が芽生えていた。また天神橋付近は、天満宮の門前町として、賑わいを見せ、将来の交通需要を見越して工事が進められた。翌年には、阪神電鉄と合併し、以後は阪神の支線として建設がすすめられ、大正3年、同区間が開業した。阪神の路面電車が走ったのは、大阪市内が最初となった。北大阪線 天神橋筋六丁目~野田路線図、なお起点は野田だが、記述は終点の天神橋筋六丁目から記している

バックのビルは、もと新京阪鉄道の天神橋ターミナル、当時の阪急天神橋筋六丁目駅、大阪市東北部の交通の要所だった。最終日近くには安全地帯も撤去されたが、終日、賑わいを見せていた。時間帯によっては女子高生の姿も。天六付近は戦災を免れた地域で、雑多な古い町並みが残っていたが、のちに根こそぎ再開発され、いまは全く面影がない。タバコ屋、八百屋、日除けのため葦簀(よしず)を立てかけた店もなつかしい。

電車は車掌も乗務するツーマン、折り畳みステップを上がって車内に入る。“金魚鉢”らしく、Rのあるドアがアクセントになっている。発車した電車、手を挙げたオバちゃんは、“さいなら~”それとも“待ってぇ~”?北大阪線は廃止前には平日ラッシュ時は4,5分ヘッドと沿線に立地する工場などでの通勤に重宝されていた。日中も15分ヘッドで運転され、そこそこの乗客が見られた。

 阪神軌道線 北大阪線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺④」への16件のフィードバック

  1. 活気にあふれる、いかにも大阪らしい風景ですね。恥ずかしながらワタクシ、天六は地下を通過するだけで、一度も地上を見たことがありません。現在の街のたたずまいに比べ、なんと賑やかなことでしょう。路面電車がいた頃の天六の様子が、目に浮かんでくるようです。まわりの風景と人が写っていてこそですね。
    路面電車は人との距離が近い乗り物と言われますが、言い得て妙と思います。廻りの街並みや、行き交う人々の姿、看板のひとつひとつから「時代」を感じます。若者のファッションからは当時の流行が読み取れ、年配の方は和服も見られたなど、半世紀前に見た風景がよみがえってきます。
    どの写真も魅力にあふれ、時間をかけて隅々まで鑑賞させていただきました。中でも「よしず」を立て掛けた店は、「時代」の証言者と言っても過言ではないと思います。店頭に陳列されたバナナの盛りの多いこと、何本あるのでしょう? リンゴもたくさん盛ってあります。今では考えられない大盛りで、小人数の家庭ではとても食べきれません。陳列台に使用してある発泡スチロールに、今では見られなくなったリンゴの品種が書いてあるのも懐かしく感じました。おやっ、その横では猫ちゃんがこちらをうかがっています。
    このように細かいところまで見ていると、時間の経つのを忘れてしまいます。そして、そんな懐かしい風景の後ろに、しっかりと電車が写っています。子供の頃に見た千本通を走る京都市電に重ねてしまい、感傷的になってしまいます。
    ただ、女子高生の制服から、学校は特定できませんでした。

    • 紫の1863様
      いつも写真の細部まで見ていただき、ありがとうございます。「よしず」は、生ものを扱う青果店や鮮魚店でよく見られ、紫の1863さんも懐かしいものがあると思います。品川530さんが写真展示された烏丸車庫近くの「トロ箱」とともに必須のアイテムでした。
      北大阪線は、私も廃止前には関心がありませんでしたが、なくなると聞き、ちょうど天六経由の定期で通っていた時代でしたのでせ、足繁く通いました。
      制服評論家をしても、写真の制服は不明ですか。野田近くには、梅花学園がありましたので、そこの女子高生ではと、制服には門外漢の私は想像しています。

    • 藤本哲男さま
      私の撮影時期より10年以上前に撮っておられるのですね。町並みは変わっていないように見えますが、看板類、人々の服装は、さすがに時代の差を感じます。安全地帯は、たしかに廃止前と較べると、反対になっていること、始めて知りました。

  2. 小学生のころ、父の仕事の関係で東京に住んでおり、春休みと夏休みに母の実家の城東区野江に帰省してました。東京に帰るとき、いつも新大阪まで、車で送ってもらいましたが、途中、天六付近を経由してましたが、車の窓越しに見える路面電車の行き先に「野田」とあるのを見て、習ったばかり醤油で有名な千葉の野田まで行く電車だと思い込んでいました。これから東京まで、ひかり号で3時間10分かけていくんだけど、この電車で千葉の「野田」まで、どれくらいかかるんだろうと思った記憶があります。

    • デカンショまつり号さま
      コメント、ありがとうございます。大阪「野田」と、千葉「野田」ですか。私は、カン違いよりも、小学生でよく千葉の野田を知っていたものと感心しました。その頃から、地理は好きだったんでしょうかね。
      北大阪線の行き先札は「野田」「天六」の4文字がほぼ等間隔で書かれています。誰もが地名は知っていますから、タテ読みで自然に読みますが、地名を全く知らないと、ヨコ読みで「天野」「六田」と読んでしまうのでは思っています。

  3. 遅くなりました。私も天六で写真を撮りました。昭和48(1973)年5月20日で、鉄道友の会京都支部のイベントで天六~野田~浜田車庫・浜甲子園~西灘を走破しました。電車の運転手と話をしている、帽子をかぶった男性が、当時の副支部長(だったと思います)で、当時DRFCの顧問をしておられた大西友三郎さんです。

    • 勘秀峰さま
      鉄道友の会の行事で行かれたのですね。帽子からして、くだんの人物は大西友三郎さんですね。この時代、私は社会に出ていましたが、友の会の会員でもないのに、大西さんから声を掛けてもらい、蹴上の東山会館の例会に行ったり、行事にも何回か参加させてもらいました。

  4. 総本家青信号特派員様
    遅くなって申し訳ありません。天神橋筋六丁目の写真を探しましたがバックのビルが新京阪の天神橋ビルが写っているのがありました。撮影年月日は1968(昭和43)年6月23日で今とは世の中が変わったとは思いますが大阪らしい街並みと思います。

    • 準特急さま
      金融、旅館、ヒチヤと、当時らしい看板ですね(質屋ですが、大阪・京都ではヒチヤです)。背後の天神橋ターミナルは、百貨店も入る、当時としては大きな建物でした。戦災を受けていない付近は、古き良き大阪そのものでした。準特急さんが撮られた2年後に起きた、天六爆発事故で、別の意味で有名になりました。

  5. 追加
    阪神北大阪線が出たついでに新京阪ビルの阪急1514を出させていただきます。この電車のデイ100一族はP-6と言われ天神橋から京阪京都(今の阪急大宮)に向けて超特急と称して34分で走破したとの戦前の記録があります。途中大山崎付近で国鉄の看板列車「燕」を追いぬいたという話はあまりにも有名です。もう新京阪の名を知らない人もほとんどだと思いますが、この写真を撮った1968(昭和43)年6月23日には新京阪のP-6と言われた車両は急行や普通列車に沢山使われていたことを思い出します。新京阪十三支線には特急が走っていたのか天神橋と新京阪十三ではどちらのお客が多かったのか興味のあるところです。北大阪線から逸脱して申し訳ありません。尚、この旧新京阪ビルは2010年に解体されたそうです。

    • 私は、阪急で大阪へ行く時、ついぞ天神橋駅へ行くことはなく、記録も記憶もありません。天神橋ターミナルは解体されましたが、それまで、建物に突っ込んでいたホームの跡が、裏からもよく見えたことは覚えています。

  6. 総本家青信号特派員様
    遅くなりました。
    阪神 北大阪線の天神橋筋六丁目電停の南側に並行して10系統の大阪市電が走っていました。写真は大阪市電全線廃止直前の1969年3月の写真です。
    1963年ごろ大阪市交通局801形と901形が神戸市交通局に譲渡され、それぞれ神戸市電100形(2代目)と200形(2代目)となりました。転属ルートは、この天神橋筋六丁目で大阪市電から阪神北大阪線に乗り入れ、野田でスイッチバックして国道線に入り、終点の東神戸で同じく線路のつながっていた神戸市電にそのまま入線して長田の交通局車両工場まで自走したようです。

    • 快速つくばね様
      大阪市電が神戸市電に貰われたのは知っていたのですが、自走して神戸まで行ったとは知りませんでした。神戸市電が国道線に乗り入れていたことがありますから、大阪から神戸まで、自走は可能なのですね。

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