いとしの広電1900形 ①  ~路面電車あれこれ噺~

広島の街を40年以上走り続けている、もと京都市電の1900形、よく言われていることだが、京都時代よりも広島時代のほうが長くなって、すっかり広島に溶け込んでいる。歳のせいか、とみに1900が愛しく感じるようになった。

最近“デジ青”の低調さが気になりますね。私も、締め切りのある依頼が続いて、いつでもOKの“デジ青”は、つい後回しになってしまい、自省の念に駆られています。言い訳無用、とにかく、自分でできる範囲で頑張るしかありません。

この歳になると、活動は衰えても、頭のなかは、いろいろな思いが巡ります。ひとつは、鉄道趣味も本卦還りするのではという思いです。春にクローバー会で北九州・福岡を訪れた際、広島で路面電車を撮り、北九州・福岡市内でも路面電車の廃線跡を巡りました。生まれた時から市電に囲まれて育ち、その原体験が鉄道趣味へと繋がっていきました。廃止された各地の市電を思い、今も元気に走っている路面電車を見ると、この歳になって愛おしさを感じるようになりました。まさに“本卦還り”ですね。

そこで路面電車への思いを、あれこれ綴ってみたいと思います。まず広島で活躍する京都市電の1900形のことです。広島も新駅への乗入れ工事が進捗し、車両も体質改善が進みます。1900も今は元気に働いていますが、先が見えてきたという話も聞き及びます。京都市電の写真展をやると、フツーのオバちゃんからも「広島へ行ったら走ってまっせ」と何度も聞き、京都人にとっては広島1900に格別な思いがあるのです。

ただ、私にとっては「広島電鉄の1900形」に過ぎず、とくに思い入れがあったわけではありませんでした。ただ、前記のように新緑の広島で見た、大勢の乗客を載せて元気に働く1900を見て考えが変わりました。思えば、最初の京都市電900形から見ると、70年近くが経ちます。路面電車で70年間、それも16両がいまも元気に働いている例は、ほかにない事例です。前面も改造はされているが、京都市電らしい、品格は失われていない。京都市電全廃前の昭和52年に2両、全廃後の昭和53年に13両、計15両が広島電鉄に譲渡された。2次車の1916~1931が、広電1901~1915となったため、番号は一致しない。背後の広島商工会議所は、平和公園の背後で、いつも目障りなビルだったが、移転が決定している。

黄昏の街を行く。帰宅を急ぐ乗客をいっぱい乗せて走り去る1900は、まさに京都時代を彷彿とさせた。

 1900形三世代(京都931→京都1931→広島1915) 「譲渡車両を一人で記録できるのは、長く続けて来た老人のみに与えられた特権である」、師と仰ぐ準特急さんの格言である。私も900は撮っている、1900は廃止前にイヤほど撮った、広島1900も調べたら1両を除いて全部撮っていた。三世代の比較はカンタンと思っていたら、意外に難関だった。まず900のうち、1900に改造されたのは、900形2次車の一部であり、残りは900のまま廃車されている。広島転属の際には、原番号が変更されていて、話を複雑にしている。結局は、上記の車号の三世代のみとなった。

 いとしの広電1900形 ①  ~路面電車あれこれ噺~」への46件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様

    いつも多種多様なシリーズを精力的にご投稿なさっておられ、感服の至りです。

    デジ青の低調さは確かに仰せの通りだと思います。私の推測ですが、若年層の投稿にはいくつかのハードルがあるように思います。

    まず、SNSの普及で簡便な投稿方法に慣れ過ぎてしまい、ブログ投稿が煩わしく感じてしまうことです。私も不定期で投稿いたしておりますが、細心の注意を払って投稿ボタンを押すようにしています。誤植があった際、修正作業に時間がかかるためです。

    そして、過去の投稿を拝見しておりますと、若年層の投稿へ寄せられるコメントが少ないことも投稿から遠ざかる要因でないかと思います。SNSの普及で、そもそも若年層の閲覧自体が少ないためかもしれません。

    デジ青存続のためには、投稿を促す以前に、いかに「デジ青を開いてもらえるか」という点を考えていく必要がありそうです。抜本的な策ではありますが、例えば投稿のコメント欄とは別に、SNSによくある「いいね」ボタンを設置し、簡単にレスポンスができる仕組みを作るのもアリかもしれません。

    私も引き続き、投稿を頑張っていこうと思います。もちろん、ノルマが課されたという感覚でなく、自分の備忘録としてです。年内には第100回を達成したい所存です。

    • 「抜本的な策ではありますが」→「抜本的な策ではありませんが」です。訂正いたします。

      SNSですと、コメント修正もコメント投稿者の方で容易に可能です。

    • 年寄りは、SNSが苦手です。すぐ投稿できる利点には、当然、内容の適格さ(正確、公平)が要求されます。それを吟味する時間が必要です。LINEの時は、いつもハラハラして投稿して、年寄りは心臓に良くありません。じっくり確認しながら投稿できるデジ青のほうが、年寄りは似合っています。

      • 総本家青信号特派員様

        コメントありがとうございます。仰せの通りです。SNSはすぐに投稿できる分、思わず発した言葉が独り歩きしていしまい、それが誤解を生み、時には衝突のきっかけになることもあります。やはり、デジ青に勝るものはないと思います。

        心配なのは、20、30年後です。果たしてデジ青は一体どうなっているのでしょうか。SNSに慣れた層にいかにデジ青の良さを知ってもらえるかを考える毎日です。

  2. 総本家青信号特派員様
    富山県や秋田県では人家のある所でクマが出没していますが、私は穴があったら入りたいです。広電の1900は北九州イベントの前に総本家さんと同じ日に撮っています。ところで小田急の8000や東急の9000が西武に行くらしくてこれは面白いと思っております。こういう大手から大手への譲渡は大昔のことはわかりませんが、東急から名鉄の例がありました。1067ミリという同じゲージと車両の動力部分に共通性があったようです。写真を貼りますが1978.5.6木曾川堤駅での名鉄モ3881で元東急のデハ3701です。沖中さんのお友達でドイツにも一緒に行かれた吉川文夫さんは譲渡車両の本を出されていました。あの頃は譲渡も頻繁に行われていたようです。今は中間車に運転台を付けた譲渡車両、例えば、松本電鉄(アルピコ交通)の元井の頭線3000系は中間車に運転台を付けた車両で中間車時代の1両、1両は撮っていないので新旧対比写真ができない難があります。何れにしてもこのジャンルでは当会にもっと詳しい方がおられますので今後譲渡車両の新旧対比ができたなら発表したり競演していこうと考えております。

    • 準特急様
      譲渡車両の比較、その面白さも、困難さも、港の見える丘で聞きました。でも、これぞ年寄りの特権、ぜひ実現したいですね。

  3. デジ青投稿の低調さに関して総本家さんから問題提議があり、奈良の駅名研究家さんから早速ご意見がありました。奈良の駅名研究家さんから若い人の投稿に対してコメントが少ないというご意見には反省しております。コメントするしないは自由ですがもう少し多くの方の参加(投稿やコメント)があってもいいのではないでしょうか。私はSNSができず、投稿にも時間がかかり、写真も大きさを変えたり、強調したりすることが苦手でいつも同じスタイルです。もう少し勉強すればいいのですが徐々に億劫になっています。デジ青を見てもらえるように努力すればいいのですが、私は多分若い人と感性が違い、古い話題を懐かしむような傾向は強いです。海外よりも日本、関東よりも関西の方に話題を多くした方が興味があると思いますが大事なことは何を投稿しようとするのかもっと自分なりに工夫して考えていくようにしたいです。もう一つ、知識がないから投稿を遠慮するという意見は多いのではないでしょうか。当会は今の現役もそうと思いますが、知識の多い少ないは関係なしです。コメントの訂正が簡単ではないことについては同感です。私も毎日のデジ青が楽しみですが、コメントは嬉しいのでなるべくお応えするようにしています。コメントをもらうために投稿しているのではありませんが、投稿がないと寂しいのも事実です。デジ青は他大学鉄研にはないDRFCの強みです。これをいつも盛り上げたいと思っています。とりとめもない話で恐縮でした。

    • 準特急様

      私も、読むだけでコメントをしていなかったのは反省しております。

      「コメントは嬉しいのでなるべくお応えするようにしています。コメントをもらうために投稿しているのではありませんが、投稿がないと寂しいのも事実です。デジ青は他大学鉄研にはないDRFCの強みです。」はまさに私も同じ思いです。

      何人の方が投稿に目を通してくれたのかが一目瞭然で分かる既読機能があれば良いのかもしれませんね。ただ、そうなるとデジ青がSNS化し、なんだかなあという気持ちもあるのも確かです。

      デジ青はネット上の貴重な資料館だと思います。書物でしか読めなそうな記事をいつでもタダで読めるのは大変素晴らしいことだと思います。

      デジ青の発展に向けて、何ができるのか今一度考えてまいります。

      • 奈良の駅名研究家様
        いつも投稿やコメント有難うございます。各人興味の対象が異なるのは事実で、テーマによってコメントのあるなしは当然ですが、もう少し投稿があってもいいような気がします。駅名研究家さんのおかげで最近は駅名板をよく見るようになりました。一度出したことがありますが、昔の阪急電車の駅名板は隣の駅は→ではなくて人差し指でした。能勢電車も傍系なので同じでした。京王電車は隣駅までの距離が表示されていました。白い板に黒い字がある単純なものでどこも同じようでしたが、今から思いますと手作りの暖かみを感じます。私も駅名はそれほど興味を持っている訳ではありませんのでコメントがなく、申し訳ありません。小林旭の「昔の名前で出ています」という古い曲がありましたが、坊中、浅川、田口、龍ケ森、狩太、軍川、麻績など昔の駅名の特集はもう終わりましたか。
        明日は横浜で総本家さんとデジ青長談義をします。

        • 準特急様

          昔の駅名シリーズはまだ出していませんね。いつかやります。

          阪急の駅名標です。お洒落です。

        • 準特急様
          懐かしい駅名ですね。若い人には想像がつかないと思います。
          調子に乗って「昔の名前で出ています」にいくつか付け加えさせていただきます。「尻」の付く駅が5駅改称されています。
          弟子屈、野付牛、虻田、古間木、尻内、黒沢尻、陸中川尻、蟹沢、平、(常)川尻、助川、東那須野、江尻、沓掛、初鹿野(はじかの)、三留野(みどの)、大井、作見、金津、山田、丹波市、神崎、那波、己斐、三田尻、馬関、出雲今市、正明市(しょうみょういち)、大里、雑餉隈(ざっしょのくま)、富高。

          • 快速つくばね様
            いつも有難うございます。懐かしいですね。昔は交通公社の時刻表を教科書にしていたので大体わかります。車返しとか金子とかわかりますか。何れにしても奈良の駅名研究家さんと一緒に研究したいなと思います。

          • 快速つくばね様
            準特急様

            いつもありがとうございます。昔の駅名でいいますと、富雄(近鉄奈良線)は一時期、鵄邑(とびのむら)という駅名だったそうです。そして、由来を調べると、学研奈良登美ヶ丘(近鉄けいはんな線)の「登美ヶ丘」も由来の起源は同じであるということが分かりました。

            準特急さん、新たな課題ができましたね。どうぞよろしくお願いいたします。

          • 準特急様
            奈良の駅名研究家様
            解答は京王電鉄京王線の
            「車返」→「武蔵野台」1959年6月1日改称 
            「金子」→「つつじヶ丘」1957年5月15日改称
            ですね。
            東海道本線でも数え方によりますが、駅開業時から改称された駅名は16駅あります。
            参考までに常磐線で改称された駅名は、
            「佐貫」→「龍ケ崎市」2020年3月14日改称(以下省略)
            「石神」→「東海」1957年4月1日
            「下孫」→「常陸多賀」1939年10月1日
            「助川」→「日立」1939年10月20日
            「川尻」→「十王」2004年3月13日
            「関本」→「大津港」1950年5月10日
            「綴」(つづら)→「内郷」1956年12月20日
            「平」→「いわき」1994年12月3日
            「長塚」→「双葉」1959年10月1日
            「高」(たか)→「磐城太田」1898年12月1日
            「中村」→「相馬」1961年3月20日
            「吉田」→「浜吉田」1915年6月1日
            の12駅です。

    • 準特急さんからは、「組織には、“強み”と“弱み”がある。“弱み”には眼をつぶって、“強み”をさらに伸ばすようにすべき」は、けだし名言です。デジ青は、クローバー会の強み、もう、一心不乱、前後不覚で、デジ青に取り組みますよ。

  4. 1900形を三代にわたって記録するのは、やはりベテランファンでないと難しいですね。私が市電にカメラを向け始めた頃、900形はわずかに残るだけになっていました。京都市電の廃止からすでに45年が過ぎ、記憶があるのは50代以上でしょう。先日所要があってわら天神前の信用金庫へ行った時、若い職員に「西大路通りに路面電車が走っていて、目の前に乗り場があったんですよ」と話すと驚かれていました。
    広島へ行った京都市電1900形は、ほとんど撮っていません。この前に広島へ行ったのは1992年で、30年以上が過ぎていました。広島駅前で待っていると、1929が入ってきました。

    • 実は私も、広島の1900には、広島電鉄の一形式ぐらいの思いで、それほどの入れ込みもなく、40年間過ごして来ました。たまたまですが、パソコンの壁紙に、ことし撮った1900を貼っていて、毎日、1900を見ることになり、急に愛おしさに繋がりました。
      紫の1863さんが行かれた信用金庫とは違う、もう一つの信用金庫の本店で、来週から急遽、市電写真展をすることになりました。またご案内します。

    • 紫の1863様、
      わら天神前の信金とは、今や東京の城南信金を抜いて、預金量全国一の中信のことですね。営業用に添付のような下敷きを配布していました。系統板下の広告が西武百貨店になっていますので、昭和52~53年頃の写真でしょうか?

      • ハイ、その通り京都中央信用金庫金閣寺支店です。へえ~っ、日本一の預金量ですか、すごいですねえ。その割に近頃はサービスがイマイチで・・・。
        西武百貨店の大津進出が昭和51年6月ですので、おそらく昭和52~3年の写真でしょうね。その頃の私はさほど市電に関心が無く、廃止が迫ってきてようやく重い腰を上げたので、撮った写真は多くありません。昭和52年は一枚も無いので、確認ができません。やはり市電の神様、総本家青信号特派員様と勘秀峰様の御両人にお出ましいただくのがよろしいようで。
        それにしても良いものをお持ちですねえ。市電の全廃が迫った頃に製作されたのでしょうか?

        • 紫の1863様、
          昭和52年の河原町・七條・烏丸線の最終日のカットを確認してみますと、西武百貨店の広告はありました。私もそれ以前についてはわかりませんが、中信が京都市電の晩年に作製し、京都市民に寄り添っていることをアピールしたかったのではないかと思います。
          先般、「西鉄ライオンズ、バンザ~イ」というM氏のラジオ番組が少し話題となりましたが、昭和51年頃、当時のピザレストラン「サンマルコ」(現在のカレー屋さん?)が大津店に出店していたようで、サンマルコ提供の番組内で「におの浜」という地名をよく聞いた記憶が蘇ってまいりました。

      • 四方誠様
        改めてネガを探したところ、わずかな枚数ですが見つかりました。
        昭和52年3月6日の撮影で、系統板の広告枠に「西武百貨店」の文字が見えます。同じ日に撮影した2617号にも「西武百貨店」の広告がありました。この日より古い撮影は昭和51年3月31日までなく、西武大津の開店前で広告は見当たりません。

        • 1863様 四方様
          系統板下広告「西武百貨店」の件です。
          私のネガで一番古い日付は昭和52(1977)年1月ですが、前年の4月から12月までは青春しており、市電の写真は全然写していませんでしたから、その間に掲出を始めたものと思われます。
          西武百貨店の広告は系統板下のみならず、車内の窓上を大きく使って宣伝をしていました。一つの車輌の半分くらいは西武百貨店の時もありました。市電がどんどん廃止され、乗客が減少する中で、車内広告はスカスカの状態でした。そこへ資金力のある西武流通グループが市電を「乗っ取って」広告を出した格好になりました。「京都の電車になんで大津の百貨店の広告?」と私は違和感を覚えましたが、少しでも赤字を減らしたい交通局にとっては、西武百貨店様は救世主だったことでしょう。
          写真は1977.9.15四条河原町です。1929号は広島1913号です。

          • 勘秀峰様、紫の1863様、
            私の思い付きの「西武百貨店」について、ネガまで探していただき、ありがとうございました。大津店開業に因み、広告を打ったようですね。
            中信も下敷より広告を打ってくれた方が、交通局としては嬉しかったはずですが、現在の金融機関はTVコマーシャルを打ったりもしていますが、当時の護送船団方式の金融機関では無理だったのかも知れません。仮に打てたとしても、市電の沿線にはいやというほど支店がありましたから、意味なかったでしょうね。

      • 四方誠様
        系統板下の広告は目立つ場所で、それなりの収入もあったのでしょうね。実はワタクシ、あまり注目していませんでした。「塩昆布 かじの」と「週刊文春」が多く、「西武百貨店」は少数派とばかり思っていました。ところが意外にも、昭和53年9月30日の市電最終日、京都駅前行き6号系統の最終電車を務めた1920号に「西武百貨店」の広告が入っていたのです。
        添付の画像は京都駅前に到着する1920号を、混乱の中で捉えた一枚から切り出しました。見苦しいのはお許しを・・・。
        ちなみに反対側には「かじの」が入っていました。

        • 紫の1863、
          反対側の「かじの」は、これですね。
          この車が、広電1906号「西陣」だそうで、機会があれば撮影したいと思います。最近、広島出張はないので、いつのことになるのかわかりませんが。

  5. 上のコメントで1929としましたが、これは京都時代の番号で広島では1913ですね。うっかり間違ってしまいました。
    鉄道趣味と一口でいっても数多のジャンルに分類され、世代や個人の趣向はは多岐にわたります。また時期によっても興味の対象に変化があって、熱中の度合いも違ってきます。私はSLが国鉄の線路から姿を消した頃から次第に情熱を失い、長らく鉄道趣味から遠ざかっておりました。ふとしたきっかけで鉄道模型に手を出し、やけぼっくいに火が付いてしまいました。1990年のことで、まだ関西には魅力ある私鉄が健在で、国鉄型車両も当たり前のように見られました。休みが来るたびに近い所から訪問し、それなりに記録できたと思っていました。しかし、それも長くは続きません。21世紀に入ると私好みの鉄道や車輌は次々に消えてゆき、また興味が薄れて行きました。
    そんな時、これまた偶然か、それとも神様のいたずらなのか「デジ青」に出会ってしまったのです。昔の鉄道から最新の鉄道まで話題が豊富で、こんな楽しいサイトがあったのか! と、狂喜乱舞したものです。自由にコメントが書き込め、自分の写真も添えられるのです。投稿される方のご苦労も顧みず、好き放題に書きこんで申し訳ないと思いながらも、興味を持った記事にはコメントせずにはいられません。
    私も高齢者の仲間入りし、最近の話題には付いていけず、古い話題に飛びついてしまいます。近頃では鉄道に乗る機会もめったになく、新幹線から喫煙室が消えるニュースに悲観しております。取りとめもないことを長々と書き連ねてしまい、申し訳ありません。
    添付の画像は広電1913号の京都時代、1929号です。撮影は1978年9月17日で、廃止が迫ってきた頃に慌てて撮りに行きました。

    • いえいえ、一昨日も準特急さんと会った時、紫の1863さんからの時宜を得た、心の籠ったコメントこそ、デジ青の宝物であるとの、お言葉がありました。お世辞も突っ込みも大歓迎、これからもよろしくお願いいたします。

  6. 横はいりでコメントします。
    投稿が少なく、従ってコメントも少なくなっている、同感です。
    また、「若い会員の投稿に対してコメントが少ない」も分かりますが、同じく「年配者の投稿に対して若年層のコメントも少ない」のです。
    私はこれで良いと思っています。
    興味のあるものに反応し,ないものは反応も少ない、やむを得ません。
    ただ、私は興味のないものでも知識として興味が湧くように努めています。これは個人の性格にもよるでしょうが。
    また「コメントの訂正が出来ない」との意見がありましたが、私は間違いに対して誰が指摘してくれるかを楽しんでいます。
    それにシレッと訂正されるとその間違いに対するコメントが浮いてしまい、何のことか分からなくなります。訂正しないとまずい事は【訂正】を再度コメント欄に書き込めば済むことです。
    いずれにしても学会の論文のように固く考えずに気楽にいきましょう。
    要は興味があるものには反応があり、興味のない物への反応は少ないということです。反応が少ないと怒ったり嘆いたりせず、楽しくやっていきましょう。
    これからもおもしろい(私にとって)投稿を期待して待っています。

    • 米手作市様

      コメントありがとうございます。
      そうですね。気楽に考えていけたらよいですね。

      ちなみに私は、誤植があった際は決まって本投稿内容を修正し、必ず【2023/10/20修正】といった具合に加筆するようにしています。これは、自分の投稿を自分自身で見返したときに「できるだけ」正しい情報を即座に知りたいためです(備忘録も兼ねています)。

      興味対象が各人によってバラバラなので、だからこそデジ青でもっと多種多様な投稿があってもよさそうです。そのためには幅広い年代からの投稿が望まれます。SNS発信にはない素晴らしさが、デジ青(ブログ発信)にはあると思うのです。

    • 米手さんから、コメントが少ないのは、突っ込みを入れる余地のない完璧な投稿の証拠と、これまた至言を頂戴しました。もうコメントゼロでも、弱音は吐きません。

  7. 総本家青信号特派員様、
    紫の1863様も仰っておられますが、1両だけとはいえ同一車両を三代に渡り撮影されているとは、凄いことだと思います。1900形も、軌道故に速度が遅く走行距離は鉄道ほどではないのでしょうが、それでも整備がよいとは思えない軌道上を70年近くも現役で走っているとは驚きです。同じ1957年製のDF50が40年前に引退していることを考えるとなおさらで、どうせなら1900形を好きになっておけばよかったかもと、ちょっと考えたりもします。
    紫の1863様に釣られて、私からも京都市電最終日の大徳寺前での1931号(広電1915号)です。

    • 四方誠様
      写真、ありがとうございます。そう、1931号は、最終日にヘッドマークを付けて走ったんですね。あまりの騒ぎに、途中で車庫へ引っ込んだのも思い出です。その最終日の電車が、違う街で40年以上も元気に働き続けています。番号が同じで、塗装も同じなら最高ですが、それでも考えたら驚異的なことです。

  8. 総本家青信号特派員様
    いとしの1900形に対し、私はこいしの1800形です。1969年2月21日場所も総本家さんをはじめDRFCの方にはこいしの場所同志社前の1832です。1800形はJTBキャンブックス「京都市電が走った街今昔 沖中忠順・著、福田静二・編」によりますと800形をワンマン化して1000をプラスし昭和43年から昭和45年まで1801~1870までの70両が登場したとあります。余談ですが、皆さんは1800形と言えばどのような車両が浮かびますか。私は京阪1800、小田急1800、東武の1800です。井の頭線から京王線に転属した京王1800もありますが印象が薄いです。京阪1800の特急時代は知りませんが、急行への格下げ後は見ております。小田急の1800は元のロクサンの20メートル車で、江ノ島線の急行に使われていた写真もあります。その後、秩父鉄道に行きました。東武の1800は急行「りょうもう」に使われていた車両です。赤い色の車両で伊勢崎線特急「りょうもう」ではその赤の復活色も走っていました。関西の方は興味はあまりないと思いますがまだ走っているかもしれません。1800を改造した300や350は特急「きりふり」や「しもつけ」などに使われていましたが最近廃車となりました。以上、総本家さんの京都・広島と3代にわたる力作1900に対して脱線した無駄話で失礼しました。

    • こいしの1800列伝、ぜひ実現してください。わたしは、しばらく、いとしの1900続けます。同志社前の赤の1番1800、モノクロでも、その色が瞼に浮かびます。京都市電名景のひとつです。

  9. 準特急様と同じく、私も1800形が恋しいです。ハンドルネームに「1863」を使っているのも、やはり1800形に愛着があるのかもしれません。
    京都市電全廃まで1900形と共に生き残り、見慣れた「電車」でした。しかもすべての車庫に配置され、70両という大所帯でしたので、見る機会も多くありました。市電を知る普通の人には1800形も1900形も同じように見え、おそらく晩年の京都市電のイメージは両形式ではないでしょうか。「広島に京都市電が走っている」との言葉も、車体の塗り分けが京都時代と変わらず(ドアの塗り分けに変化がありますが、それは鉄道ファンの視点です)、二つのヘッドライトもおなじみですので懐かしく思い出されるのでしょう。
    添付の画像は烏丸線最後の日、西大路通り廻りの京都駅前行き4号系統の運用に就くため、烏丸車庫を出庫する1863号です。

    • 紫の1863様
      ハンドルネーム、私は個人的にはニックネームというよりは芸名と思っていますが、写真を拝見させていただきよくわかりました。私の友人でいつもお世話になっておりますクモハ73106東ウラさんの106も何か訳があると思います。昨日、横浜で会合があり、総本家さんといろいろ話をしましたが、総本家さんの三本立て力作に少し、関西の有名な漫才師を使う話を事前にさせていただきましたが今頃は自宅に戻られているころと思います。

    • ちょっと下からあおった1800、いいですね。私も1800は、800時代より、2個ライトになったせいか、顔が引き締まって、男前になった気がします。対して1900も悪くはないのですが、900の時代を知っている身には、やっぱりツーマンの時の緑・クリームの900が、京都らしくて好きです。

    • 紫の1863さま
      1863様による烏丸車庫を出庫する1863号を懐かしく拝見しました。実は小生この風景を実際によく目撃していたので思わずコメントしたくなりました。
      通学は季節の良い時期は自転車でしたが、夏と冬はわら天神前~烏丸今出川間で市電を利用していました。このルートには二つありますが、購入時の気分?で北の烏丸車庫回りと南の白梅町回りを使い分けていました。とはいえ朝の今出川線➊系統の混雑がひどいので、だいたい北回り2/3、南回り1/3くらいでしたでしょうか。
      北回りの下校時に烏丸車庫で本来直通するはずの系統が度々打ち切りに会い、前後の西大路線方面行に乗り換えるのですが、たまに後続の電車が中々来ずに、写真のような風景で車庫からお出ましになる電車が車庫始発として充当されることがありました。
      写真の1863号は車庫のクロッシングを渡っていることから、これから西大路か千本方面の西行(烏丸・東山方面行の場合は直進して右側線路から北大路通りに出ます)仕立てられるようです。
      余談ですが烏丸線を北上すると烏丸車庫の一つ手前の下総町に次の車庫前から先の系統操車表示器(正式名称ではありません。勝手に名付けたものです。そのまま同系統になるのか、系統が変わるのか、はたまた打ち切りになるのかを運転手に知らせる装置)があって、打ち切りと表示されると乗換えが面倒くさいと思う反面、入出庫の操車風景が見られて何型が来るだろうかとの楽しみもありました。このあたりの思い出話は色々ありますがまたの機会に譲ります。
      半世紀ぶりに懐かしい風景が蘇りました。有難うございました。

  10. 準特急さま
    はい、コメントを入れるためだけに、酒の誘いも断って、静岡から帰って来ましたよ。かつて準特急さんも暮らしたと言う、港の見える丘公園でいただいた数々の激励やツッコミ、ありがとうございました。なかでも“いとし・こいし”の名句、これは、今年のデジ青流行語大賞ものです。紫の1863さんからも的確なコメントを頂戴しました。夢路いとし喜味こいし、おもしろかったなぁ、評伝を見ると、死んだ上岡龍太郎は、関西の下品な漫才ではなく、凛とした品の良さを感じると言ったそうです。加えて、新作漫才の多さも挙げていました。クスッと笑えるけど、品の良さを感じる、新作が続く。これは、まさにデジ青の目指している方向ではないですか。私も“いとし・こいし”路線で、頑張りますよ。

    • 特派員さん、準特急さん
      港の見える丘公園で何を話したのでしょうか?
      私も横浜勤務の時代にたびたび行きました。
      淡谷のり子の歌だと思っていたのに平野愛子の歌だったとは、その時まで知りませんでした。
      街に「ブルーライトヨコハマ」が流れる年の暮れでした。

      • それはヒ~ミツ!? 実は、鉄道書のヒット作を数々出されていた編集長が亡くなられて一周忌を過ぎ、関係者で偲ぶ会が、公園のなかのホテルで開催され、一緒に出席しました。準特急さんも、一時期、公園のすくそばに住んでいたと言われ、その場所も案内してもらいました。いかにも横浜らしい、いいところでした。

      • 米手作市様
        順番が前後するかもしれませんが学生時代に父の官舎がここにありました。住所は中区山手町で港が見える丘公園の西のはずれでした。夏休みなどに撮っていた横浜市電の拙作をデジ青に発表しました。そして米手作市さんからもコメント写真をいただきました。有難うございます。偲ぶ会に参加してきましたが亡くなられた元編集長は私と中学、高校が同じであったため総本家さんを介してお付き合いしていました。懐メロの平野愛子など知っている会員はいないと思います。平野というとオリックスの守護神で9回にでてくるピッチャーということくらいなら若い人でも知っているかもしれません。

        • 私はオリックスの平野を知りません。
          いしだあゆみのお姉さんは同志社大スケート部の選手でオリンピックに出たはずです。
          夢路いとし喜味こいしを書くなら平和ラッパ日佐丸も書いて欲しかった。砂川捨丸中村春代も。

  11. 本題の「広電1900形」を貼り付けます。京都市電が全廃になった翌年、広島で元気に活躍していることを知り、伊予鉄の2000形と併せて撮りに行きました。譲渡から間もなくて、車体はピカピカ。京都時代には見られなかった光景に気を良くしたものでした。
    そして何より嬉しかったのは、系統板の色は1が赤字に白ヌキ、2が白地に黒と、京都を彷彿させる系統板だったことです。広電は京都市電1900形を大切に使ってくれると確信しました。今から44年前の7月です。写真は1908号(京都市電1921号)紙屋町です。

  12. 皆さんから、1900形だけでなく、京都市電への思いを寄せていただき、投稿者冥利に尽きます。本当にありがとうございます。なかには、京都市電とは異なる方向へ向かう書き込みもありますが、どこへ向かうか分からないのがデジ青の伝統、自由奔放にお願いいたします。個別に御礼のコメントを入れたいのですが、ほかの用件に追いまくられて、まとめての御礼で失礼します。その用件のひとつが、10日前に舞い込んできた、京都市電の写真展とは、なんとも皮肉ですが、まもなく開催です。必死に準備しています。また報告できるようになりましたら、お知らせします。

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