東海道の電車を楽しむ-その7-

宮(熱田神宮)宿に着いた旅人は、次は船で海越えとなる事に胸をときめかせていたであろう。那古野(なごや)と言われていた地域の西方(美濃)は大河が集積しており、海に繋がる地であることは今に至るも変化がない。幕府が川越ではなく、船で伊勢湾を乗り越える経路を東海道としたのは賢明であった。その渡船の事を七里の渡しと言っていた。七里とは乗船地から下船場所までの距離で、ウィキペデアでは27.5Kmとしている。このコースは上手く設定されており、東海道最大の宿場と言われた宮宿で神社参拝を済ませ、僅かな陸路を辿れば渡船場に到着、又は下船場となっていた。後は船の揺れにわが身を任せば何時の間にか対岸に到着、一丁上りとなる。到着地点は現在の鉄道各社が集積している桑名駅東側の浜であった。所要時間は日替わりメニュウで、分からない。

桑名から京都までの宿場は13ヶ所となっており、電車と関係ない宿場には*印をつけ分類すれば42宿桑名、43宿四日市、*44宿石薬師、*45宿庄野、46宿亀山、*47宿関、*48宿坂下、*49宿土山、50宿水口、51宿石部、52宿草津、53宿大津、54宿京都三条となる。電車と関係ある元宿場には今も電車が出入りしているが、ここ10年余りの間に経営主体、電鉄名が変わるだけでなく車両の外部塗装が変更されることもあり、頭の整理が必要となった。

1956年6月、田舎(父の生誕地)から中川経由で四日市を経て桑名駅に降り立った。四日市では三重交通湯の山線、内部線の訪問が目的で、そのため養老線、北勢線はホームで観察するだけとなってしまった。帰宅後、奥野利夫さんから桑名には路面電車が走っていた時期があり、営業距離は1Kmだったと知らされ驚いた。京都市電河原町通では、四条河原町~河原町二条ぐらいになる。この話を野崎さんに持ちかけたら、掲載の写真を頂いた。

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東海道の電車を楽しむ-その6-

Wikimediaでは東海道の中間点を28宿見付と29宿浜松の中間(247,75Km)としている。それに合わせると現在のJR線では、東京~京都間513.6Kmの中間点256.8Kmは浜松257.1Kmが該当する。図らずも江戸と京都の中間点が良く似た位置にある事が分かった。その中間点から5宿離れた34宿吉田からの東海道は北に経路を取り西に向かっている。明治維新後建設された東海道線は浜辺(常滑)を辿り宮宿(熱田神宮)に向かった。後発の名古屋鉄道は旧東海道のルートを追うようにして名古屋から延伸してきた。そのため両線が肩を並べる熱田神宮前では国鉄線の経路80.7Kmに対し名鉄線62.2Kmとなり、その差は18.5Kmとなる。さて現在、JRと名鉄は豊橋~名古屋間で熾烈な速度競争をしているが本稿では取り上げない。

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東海道の電車を楽しむ-その5-

正月はゆっくり過ごしたが、昔の旅人は正月をどんな思いで歩いていたのだろうか? 日本は地震国で、それに伴う地殻変動による津波の発生や到来は事前通告がないだけに旅人を惑わせるものであった。29宿浜松から西へ辿るには、30宿舞阪から渡船によるものであった。15世紀末まで浜名湖は淡水湖であったが、大津波を受けことにより塩水湖に様変わりしていた。1699年高潮、1707年宝永地震には津波、1854年安政東海地震の津波で宿場や渡船場の位置は変動していた。幕府にとって大きな事業は関所の維持で、今も遺構が残る今切(・いまきり)の関所もその一つであった。宿場(31宿新居・あらい)とは離れた位置だが往年の姿が再現されている。これとは別に津波のために浜名湖を渡ることが出来ない時のため、湖岸を北に辿る道(姫街道)が整備されたのは、非常時の代替となり重要なものであった。

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東海道の電車を楽しむ-その4-

旅の思い出を投稿した後で体調不良(寒波襲来)となり、テレビの番人となっていた。タトラはソ連が広大な地域を支配していた時の産物で、日本が敗戦後各地にばら撒いた規格型(間に合わせ品)とは異なる。メーターゲージ採用都市も多く、そのため別設計による2軸車の量産も活発であった。タトラはPCCの特許を使ったせいか静かで、乗り心地良いのが印象に残っている。話しを日本に戻すとその3では宿場15番目が蒲原(かんばら)宿だと紹介するのを忘れていた。東海道線開通時、蒲原宿を囲むように14宿(吉原)に16宿(由比)があり、駅の建設では設置位置でいざこざがあったようだ。そして興津17宿(おきつ)、江尻18宿(えじり)に続いで府中19宿で(静岡)となる。府中の静岡への改名は明治維新によるものであった。

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ドイツでタトラ.カ-を追いかけた

2003年初夏に鹿島さんに連れられ、吉川さんと共にドイツ路面電車全形式を撮影しようと、3週間の旅をしている。6都市でタトラカーT3D、T4Dに出会うことが出来た。またドイツの路面電車は単車が多いことで知られているが、現在は新型車導入でタトラカ-は一掃されているかもしれない。手元に2005年の各地の車両一覧表があるので導入年を調べてみたら、突出して早いのはドレスデンで、他都市は1~2両テスト購入してから本番であった。ドレスデンは1968(試作車?)年、2位はライプチヒであった。これでいかに市電利用者が多い都市であることが伺い知る事ができる。

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東海道の電車を楽しむ-その3-

本稿その2に登場した伊豆箱根鉄道及び伊豆急行の本社は三島市内で、その昔の国境(相模、駿河)箱根峠を共有しているので連結させた。観光地としての伊豆半島の存在は大きく、老人お気に入りの景色は箱根峠を登り降りするケーブルカーで、晴れた日は相模湾が一望の下に広がりとても眺望が良い。箱根峠を下り平地に出ると三島に至る。ここは駿河東地区の中心で、徳川時代の伊豆半島は「伊豆」として独立していたが現在は静岡県に併合された。三島から沼津に駿豆電気鉄道と称する路面電車が1906(明治39)年に開通したが、1963(昭和38)年に廃線となった。当線は伊豆地方の電気鉄道事業の先駆者で、以前、須磨の大人がデジ青で紹介したと思う。沼津駅の仮泊が良いと言ってくれたのも彼で、待合室で電気機関車の入れ替え作業を子守唄にしてぐっすり寝込んだ。三島は11番目、沼津は12番目の宿場となる。

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東海道の電車を楽しむ-その2-

その1で小田原が東海道9番目の宿場だとの紹介を忘れていた。くわえて伊豆箱根鉄道大雄山線も起点が小田原ということでお許し頂きたい。

卒業を前にしたDRFC例会で、同期の土肥君から2枚の青焼き図面を「土産だよ」と言って頂戴した。老人は東海道筋の電鉄線めぐりの予定がなく、「有難う」と言って書類箱に入れたままとなった。1990年秋から吉川文夫さんと文通が始まっていた。ある日、整理していたら土肥君にもらった青焼き図が出て来た。そこで吉川さんに郵送したら「掲載25年後に図面が入手できるなんて・・・」、とても喜ばれた。氏はピク誌173号で伊豆箱根鉄道の執筆者、そこには青焼図になったモハ45+クハ23の写真が出ている。

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東海道の電車をたのしむ

古来、京都以外から京都に行くことを「京に上-のぼる-」と言っているが、東京から京都に行くことを「くだる」とは言わない。老人は1986年「てっちゃん」に復活して青春18キップを愛用するようになったが、通用期間外は止む無く普通キップ利用であった。ところが2003年にめでたくジパングクラブに入会することが出来た。息子や義弟などが関東圏に居住しており、入会後は18キップよりジパング利用の方が多いが、おりにふれ東海道筋の中小私鉄訪問を重ね、楽しく電車を追いかけている。

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車輛の戦災は軽微、復興は迅速だった仙台市電

老人の年輩ともなると訪問先の鉄道で戦争中はどうでした?との質問をしたものだ。仙台も佐藤さんへの質問は先ず戦災からであった。【電線路はかなり被害があったが、車両は2両がちょっと外板を焦がしただけで、奇跡的に1両も焼けず、戦災地区の真ん中にあった変電所も防空建築で無事であった。車両は深夜になると毎晩、八幡線や北仙台線に手数を掛けて避難していたのと、車庫(北2番町)も際どいところで戦災を遁れる事が出来た。先の2両も工員輸送の深夜便で営業線にあって空襲に遭遇したのだが、大事に至らず大変幸運だった。新車の補充など思いもよらない時期に、可動状態のものは貴重品であった当時のこと、他都市からえらく羨ましがられた。】と佐藤さんは語ってくれた。以下【 】は佐藤さんの記述。

戦時中に東京市電名義車60形9両が導入されたが、中古車であるため一早くお払い箱となり、その代替ともいえる東京都電の中古車70形10両が入線したのは1948年11月であった。これより先、ボギー車80形5両が入線していた。【ボギー車については1942年に5両の新造計画があり木南車両に発注されたが、着手が遅れ中途半端の状態となっていた。それが戦後竣工し名古屋市電1070形となったことから「仙台市電の注文流れ」と言われているが、戦災都市で車両事情が悪い名古屋市に国が振り向けたもので、いくら財政状況が逼迫していたとはいえ、注文したものをキャンセルするようなことはしていない】と、きつく言われた。 続きを読む

面白山トンネルを潜り、仙台12時半に到着

山形での2線の車庫訪問は歓待を受け目的を全うすることが出来た。山形駅改札を18時30分ごろに出て付近を見渡すと上品なオバサンに声を掛けられた。「お宿ですか?今夜は空いております。1泊2食6百円で如何でしょうか?」。これに飛びついたのは正解で、8畳の間でゆっくりした風呂、銚子2本で50円の追加で終わった。作並機関区のことは古いデジ青で紹介したので一挙に仙台駅に飛ぶが、仙台市2008年発行の【文集「仙台市電」市民が綴る50年の軌跡】に投稿したら採用された。それを「引用箇所は【】で包む」しながら話を進めことにしよう。

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温泉直行便は高速線

国鉄福島駅から飯坂温泉に直行する飯坂西線は、福島市を取り巻く農村地帯を結ぶ飯坂東線とは別の性格を有し、独立したものであった。そこで西線を独立させ高規格路線に仕立て直したのであった。長岡車庫では西線の車両とは言わず高速線の車両と言っていた。先日、瀬古龍雄氏の調査記述をピク誌477号で発見、それを参考に話を進めることにしよう。写真3枚は第2次世界大戦前後、福島に疎開された野崎さんが昭和23年頃に撮影されたもので、映りは悪いが貴重なものである。 続きを読む

福島を取り巻いた電車

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先のデジ青【17434】では湯口会員から福島の電鉄線形成について経過が紹介された。図を参考にしてほしい。Aは今も残る飯坂西線、Bは廃線となった飯坂東線で、東線は1925年内に改軌と電化工事が竣工した福島電気鉄道である。梅鉢鉄工所製木造車は車体巾1676粍、車体妻外寸法9690粍、出入口巾610粍、窓寸法縦612×巾735粍、座席巾355粍、屋根高3327粍と、数字を羅列したのはどなたかペーパーモデルを制作してくれないか、との老人の呟きである。台車:梅鉢鉄工所、電動機:芝浦35HP×2、制御器:芝浦単式、制動機:梅鉢手動、空車時重量:7,950kg、最大運転速度:24km/hr、乗客定員42人となっていた。

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やっと目覚めた福島電鉄の思い出

デジ青【17434】2012年1月13付で須磨の大人から1971年4月12日に廃止となった軌道線について「出番でっせ!」と尻を叩かれた。目下幽閉の身であるので身動きできない、解放後に後塵を浴びさせてもらうとコメントを入れてから4年半近くなる。その間、身辺に……、言い訳が多い気ままな生活を送ってきたことで申し訳ない。そこで福島について思いを寄せてみた結果、、貨物列車が2ケ所から郊外に向けて運行していたことに思い当った。小学生の頃から京阪電車が天満橋~塩小路貨物駅間で貨物電車を走らせているのに興味を持っていたが、1955(昭和30)年6月25日に営業廃止となった。関西では近鉄、南海で残っていたが、両親の出生地、つまり田舎と現在の生活拠点の京都を結び種々雑多な物品が「小口便」と称するもので行きかいしていた。兄の結婚相手は近江八幡の人で、こちらは「飛脚便」で行き交いしていた。祖母は小口便を「チッキ便」と呼んでいたが、その違いはここでは触れない。

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【くまモン】は誕生前だった

 

今や熊本は【くまモン】で沸き返っている。それはさて置きデジ青【71074】では初めて熊本に足を踏み入れた時、熊本駅前から藤崎宮まで歩き当時の熊本市電を紹介した。その後も熊本には片手以上の回数で足を踏み入れている。瀬戸内海航路や航空便で九州に渡り別府や湯布院の温泉につかり、上達が見られないゴルフを諦めた後は熊本観光組となった。その頃に大阪市電900型導入を目撃した。またワンマンカーに乗り合わせた折に乗車券が区間制で、不思議な思いに駆られたことが思い出される。何故か博多経由の熊本入りは1989年までなかった。

1989年のGW5月2日、午前中に工事段取りを済ませ山陽新幹線で九州に向かった。門司港の街並み見物と夕食後、門司港初発夜行急行「かいもん」で鹿児島に向かった。小倉から転換クロスは満席、博多では釣り客で超満員となった。鳥栖を前にして転寝となり、発車衝動以外はぐっすりであった。終着鹿児島中央駅の降車客は座席定員の半分を割っていた。九州で夜行列車に乗ったのは1958年9月以来のことで、その時は松山→別府→鹿児島のコースだったのだが、台風襲来で行く先々で雨雲に追われる始末であった。今回の鹿児島は快晴だが午後になると薄曇り(桜島の灰)となり、特急で熊本に向かった。旅行業者に頼んだ宿は市電車庫の斜め向かい。これ幸いと夕食後に撮影許可を貰いに出向き、操車室で京都から来たといって歓談、ついでに手続きを済ませた。これで翌朝の動きが楽になる。

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レトロ列車出発 加悦鉄道まつり

いささか旧報になるが、5月4日朝日新聞京都版でタイトルの如きキューズ(旧ニュ-ス)が掲載された。加悦で何ごとぞと、読んでみたら次の通りであった。

「与謝野町滝の加悦SL広場で3日、初夏の加悦鉄道まつりが始まった。多くの親子連れなどが、風船プレゼントや再現列車乗車会といったイベントを楽しんだ。4日まで。

加悦 続きを読む

お城とゲテモノ訪問前に市電を少しだけ

1957年夏の電車を求めての旅の一端はデジ青【3992】で紹介している。そこでは熊本城の雄姿を掲載した。熊本に行こうと思ったのは奥野師匠から熊本電鉄には63スタイルの木造車、それも戦争中の統制で出来た代物があるとの話を聞いたのが発端であった。そこで熊本を折り返し点とするコースを辿ることにした。また京都の城には天守閣がなく、日本一と言われる熊本城の天守を見ることも目的の一つにした。恐縮だがその姿を再掲させて頂く。

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2度目の栗原電鉄を訪ねて

老人は向日町に転居後20年ばかり各地の電車めぐりを凍結した。その間、各地の小私鉄が廃止に追い込まれ寂しい思いに浸っていた。それを復活させたのは吉谷さんの一言であった。「電車の好きな君らしくない。ストレス解消には新しい電車仲間を作ることだ」と言って海外鉄道研究会と路面電車同好会への入会を勧められた。氏は1985年に亡くなったが翌年6月に海外鉄研に入会、再び電車にも目配りするようになった。

復活後、海外の電車見学に行くことが出来たが、日本のローカル線めぐりは遅々として進まなかった。その頃に野上電鉄と栗原電鉄が危ないことを知った。共に国や地方自治体の助成金で存続していたのが1993年には失効になり廃止されると報じられた。野上電鉄の調査をと思ったが、内情を知り中止とし「青信号63号:1994-10-1」に投稿、それで栗原電鉄訪問とした。出発は1994年8月12日、帰着は同月16日、実に35年ぶりであった。

35年前の電動車は健在であったが、当時の塗色は覚えていない

35年前の電動車は健在であったが、当時の塗色は覚えていない

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十和田の次は栗駒電鉄の筈が……

早朝訪問が功となり、栗原電鉄に一路突っ走るつもりが「次は花巻」のアナウンスに引かれて下車してしまった。周遊券が良いのはここにありと言ったところで、車庫事務所での竣工図拝見も即座に実現したのは東京の学生さんの訪問も多いらしく、準備万端と言ったところであった。花巻温泉の割引券があるというので購入したら木札で5円であった。その札使用は後の楽しみとして、最初の離合駅で折り返し温泉に入りたいと言ったら、あの電車に乗ると良いと言われ発車目前の馬ずら電車に急いだ。車内は高校生で満員、これで土産話が出来たと思った。写真などは須磨の大人が投稿したデジ青【13832】【13885】【50155】をご覧ください。

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日の目を見た写真、十和田観光電鉄

2002年春だったと思うが吉川文夫さんから電話を貰った。用件は「1959年夏に東北の電車を巡っておられるが、その時の十和田観光電鉄の写真一式を岸 由一郎さんに提供してほしいのですが・・・」とのことであった。岸さんと言えばピクトリアル611、613号で京都電燈福井支社関係の貨物輸送(九頭竜川水力発電)について発表されたことが頭にあり、その内容が緻密であり学生さんにしては・・・との記憶が残っていた。ポン友の依頼となれば「承知しました!」と、なったのであった。幸いなことに十和田電鉄撮影のフィルムは自家現像にしては調子よく仕上がっており、フィルムその物を送った。

表NEW

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遠州鉄道は日本一の中小民鉄!

老人は1986年6月まで冬眠生活を19年間していたが、吉谷先輩の遺言で元に戻った。先の大井川鐡道に拘ったのは、頑張る中小電鉄の一例として白井さんの情熱に惚れたのであった。その行きかえりを利して浜松に途中下車、「行き帰りの駄賃は遠州」としたのは車窓から眺めていた車両や施設の大変貌によるものであった。社会人となってからは舘山寺温泉での業界出張で、合い間を縫って赤い電車に乗っただけであった。車庫は西鹿島に移動、貨物扱いはなく都市近郊型に全てが変貌していた。車庫で若い社員の方と話す機会があったが、「車両や線路の近代化に目途がついたので続いて信号を始めとする通信関係です。無人電車が走りだすかもしれませんよ?」と、2人で大笑いとなった一幕もあった。それから20年あまり経つが、開業以来の中古客車は107号のみ、依然として良き伝統を守っている日本最優秀電鉄である、と思っている。

夏休みの宿題はすべて遠鉄で一色になっているはず

夏休みの宿題はすべて遠鉄で一色になっているはず

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