早朝訪問が功となり、栗原電鉄に一路突っ走るつもりが「次は花巻」のアナウンスに引かれて下車してしまった。周遊券が良いのはここにありと言ったところで、車庫事務所での竣工図拝見も即座に実現したのは東京の学生さんの訪問も多いらしく、準備万端と言ったところであった。花巻温泉の割引券があるというので購入したら木札で5円であった。その札使用は後の楽しみとして、最初の離合駅で折り返し温泉に入りたいと言ったら、あの電車に乗ると良いと言われ発車目前の馬ずら電車に急いだ。車内は高校生で満員、これで土産話が出来たと思った。写真などは須磨の大人が投稿したデジ青【13832】【13885】【50155】をご覧ください。
温泉入湯後は盛岡駅に戻った。前々日の下見で広い待合室に荷物置き場、これは仮眠にもってこいだと見当つけておいた。そして日替わりの夜行普通列車で石越に向かったのは良いとして、ぐっすり寝込んでしまい「次は小牛田」の車内放送で眼は冷めた。新松島からDCで折り返し石越に到着、車庫(列車区)は若柳町だと教えられた。乗った湘南スタイル両運の単行車(M181)は西武鉄道丸出しやと思った。下車した反対ホームにはC142+M151の編成が出発信号表示を待っていた。これを送り出し列車区のお邪魔虫となり、在籍車両の要目を筆写させてもらった。その中で140番台の木造車、これは阪急の中古車のボデイだとピンときた。旧番号は81,86号車、との教えは奥野師匠によるものであった。
当線は軽便鉄道として石越-沢部間を蒸気運転で1921年に開通、翌年に岩ヶ崎へと延長された。戦時中に岩ヶ崎の奥地、細倉鉱山の開発が進み鉱石運搬のため1942年に更に延長された。これには三菱鉱山の資本に拠った。1950年9月電化と共に電機ED18型3両、電車モハ2400型2両(翌年1両増備)、客車サハ1400型5両、サハフ1400型2両が登録されていたが、客車は蒸気時代の改造車らしく詳細は分からずで、後に須磨の大人に教えを乞うことになった。電車3両は新造で、車両長が2両と1両では寸法が違い、改軌後は下津井電鉄に売却されサハとして使用された。標準軌に改められたのは昭和30年9月で、改軌に合わせ改造されたのはED18の3両で、走り装置のみの改造であった。鉱石運搬では重連で使用されているとの話であった。
末尾の2枚の写真は吉川文夫さん撮影で、1975年5月22日に訪問された時のもの。