名鉄岐阜市内線 “長良線”  ~路面電車あれこれ噺⑭

準特急さんの「お城と鉄道」特集号に多くの応援コメントが入りました。皆さんの関心の高さを思いましたが、なかでも、西村さんや紫の1863さんから名鉄岐阜市内線のレポートがありました。金華山の岐阜城から市内線を超俯瞰した写真もあって興味深く拝見しました。岐阜市内および近郊へは多くの路面電車が走っていましたが、市内中心部で最初の廃止が、この岐阜市内線の徹明町~長良北町、通称“長良線”でした。廃止は1988(昭和63)年6月で、ことしで36年目になります。私も一度だけ、短時間でしたが撮ったことがありました。 岐阜の繁華街である柳ヶ瀬から、写真の岐阜城のある金華山のふもとを通り、長良川を渡って岐阜市北部を結んでいたのが“長良線”、城下町・岐阜の歴史ある町並が続いていた(昭和50年12月)。公園前

鵜飼い船も見える長良川を渡る。長良線は美濃電軌によって大正4年に長良まで開通し、のちに名鉄岐阜市内線の一部となった。大正2年に、すでに長良~高富には長良軽便鉄道により高富線が開通していて、長良線と接続していた。

 

城下町・岐阜を通る路線であり、道路は狭く、何度も直角に曲がっていた。電停も安全地帯はなく、写真のように白線を引いただけ。電車は昭和42年廃止になった北陸鉄道金沢市内線から来たモ550形10両(金沢時代2000形)、ほかにモ530形1両、モ560形6両があった。城下町に似合う細面の車両だった。

本町、材木町、公園前と、クランクを曲がるたびに、瓦屋根や黒漆喰で塗り固めた旧家が連なり、歴史豊かな町並の風情を醸し出していた。廃止間際には電車は例のスカーレット一色に塗り替えられたが、訪問時は緑・クリームの塗り分けで、町並みに似合っていた。550形の車体幅は2200mmで、京都市電なら2440mmだから確かに細い。廃止は以前から検討されていたが、直接の契機は1988年に開催された岐阜中部未来博という博覧会への交通障害になるからという理由であった。

 名鉄岐阜市内線 “長良線”  ~路面電車あれこれ噺⑭」への23件のフィードバック

  1. 長良線の懐かしい風景を見せていただき、ありがとうございます。直角カーブが連続する区間は、この線ならではの風景ですね。
    私、岐阜には縁もゆかりもありませんが、どういうわけか気になる街です。長良線は昭和51年の夏、北海道旅行の行きがけの駄賃に立ち寄り、わずかながら写しております。まったくと言ってよいほど記憶はないものの、長良線の運転間隔は長かったのではないでしょうか。しかも山の上にある岐阜城へ行ったり、長良川の河原で鵜飼い舟を見たりしていたものですから、ほんとに電車の写真は少ないのです。
    添付の画像は冒頭の写真とよく似た街並みに見えますが、私のは本町付近です。ただ、このころはメモを取りませんでしたので、場所の特定には四苦八苦しました。
    なお、この日に見たモ551は評判のよろしくないスカーレット一色のいでたちで、すでに塗り替えが始まっていたようです。

    • 紫の1863さま
      岐阜の思い出、ありがとうございます。私も美濃町線の末期などは、毎週末に岐阜へ通っていました。やはり路面電車が走っていたこと、しかも独自のスタイルを持っていた名鉄の路線であることが岐阜の魅力で、京都から2時間足らずで行けたものでした。この付近は、古い町並みのなかを、何度も直角に曲がっていて、私も撮影場所はよく分からず、書籍や雑誌を引っ張り出して、やっと特定できました。

  2. スカーレット一色のモ551です。場所は本町~材木町と思います。間違ってたらごめんなさい。

  3. 総本家青信号特派員様
    蒸機以外には路面電車をよく撮られていることは京都市電や阪堺電車等々で存じ上げていましたが今回は女子高校性が写っていませんね。代わってお城や古い街並みを車両と絡めてうまく撮られています。その車両も金沢から10両も移籍した細身のモ550等今となっては羨ましき限りです。私の瀬戸線訪問が1972年で谷汲・揖斐線訪問が2001年でその間岐阜市内線が1988年まで健在であったことはやはり「何をしとったや!」と言われても仕方がありません。総本家さんに見ていただいた生家あばら家がまだ残っていますが一応岐阜県生まれの人間としては失態です。

    • 準特急さま
      そう言えば、岐阜で女子高生に出会った記憶はありませんね。代わりの岐阜城も、たまたま入っていただけで、当時は、車両中心の撮影でした。緑とクリームの細身の電車は、街並みによく似合っていたと、改めて思います。同じ岐阜県にある、準特急さんの生家跡を訪ねながら、ご一緒に中央西線のEF64を撮ったのも、ちょうど今頃のシーズンでした。

  4. 総本家様が撮影されてから半世紀近い時間が過ぎておりますので、場所の特定はむつかしいですね。ですが、これは私の得意とする分野です。
    4枚目 モ558の左手に黒っぽい蔵が写っています。ここは材木町電停のすぐそばで、現在では上大久和町の交差点となります。この蔵を含む立派なお屋敷は「旧大野家住宅」で、史跡に指定されているそうです。ストリートビューで見ただけですが、大半が取り壊されてしまい、わずかに電車の左に見える屋根の部分のみが残っています。
    5枚目 モ556と商店が写っています。ここも材木町で、4枚目の少し奥に当たります。ボールペンと万年筆の看板があるので文具店と思ったのですが、「三ツ星堂書店」という本屋さんでした。建物は現存していますが、看板の類が一切見当たりませんので、どうやら閉店されたようです。
    付近は建て替えが進み、ビルが目立ちます。その反面で昔ながらの木造家屋も所々に見られます。ただ、半世紀前に比べますと活気が失われ、人通りのない町並みはさみしく思えてなりません。
    総本家様が撮影された半世紀前の岐阜の町並みを拝見し、ひそかな楽しみの住宅地図に新たな情報が書き込めます。ありがとうございます。

    • 紫の1863様
      朝起きてデジ青を見るのが、私の楽しみのひとつですが、たくさんのコメントが入っていると、嬉しくなって、いい一日の予感がします。的確な考証をしていただき、ありがとうございます。金華山の麓で岐阜市内線は4回直角に曲がっていますが、どの区間で撮ったか全く記憶がなく、ただ背後の金華山との距離感で公園下~材木町と推察しました。ストリートビューも確認しましたが、道路が拡幅されていて、昔の街並みも見られませんでした。1863さんの調査された、旧大野家住宅や三ツ星書店も見逃していましたが、まだその面影が見られるとのこと、もう一度、ストリートビューで確認してみます。ありがとうございました。

  5. 現役時代岐阜市内線の思い出を一つ披露したいと思います。
    1967年7月22日~24日、彦根のお寺で「産業関係学専攻」の勉強会がありました。
    中日の23日の昼間は、フリータイムとなり、同じ専攻の山川幸夫氏より「名古屋にキハ90を見に行かへんか」と持ち掛けられました。私は、近鉄養老線に行くつもりをしていましたので、「両方行こう」ということになり、初めに近鉄養老線に行きました。
    大垣から名古屋に向かう時、「パノラマカーで行こう」ということになり、岐阜で降りると、何と市内線単車の最終日でした。
    大垣からストレートで名古屋に向かっていたら、撮影できなかった訳で、偶然とはいえ、本当にラッキーでした。
    モ3は、明治44年、天野工場製です。

    • 藤本様
      岐阜市内線の単車最終日の写真、また名古屋付近の写真もありがとうございます。そうか、山川さんとは同じ学部、同じ専攻でしたね。私の岐阜市内線は、金沢から来た「大型ボギー車」から始まっていて、単車は知りませんが、岐阜駅前のシーン、単車だけでなく、背後の商社や繊維会社の看板、繊維で栄えていた岐阜らしさを感じますし、バスがチラリと写っているのも藤本さんらしさを感じます。

  6. モ10は、大正3年、名古屋電車製作所製です。
    名古屋電車製作所は、名鉄の前身、名古屋電気鉄道那古野工場のことのようです。

    • 岐阜駅前の戦前か戦後早い時期の建築と思われるモダンな繊維ビルの全体像を撮っていました。イトマンが入居していたことを初めてしりました。私の撮影は1988年8月で、岐阜の博覧会が行われた年です。

  7. 翌日から走る「大型ボキー車」ですが、「どこが大型やねん」とツッコミを入れたくなります。

  8. この後、パノラマカーで名古屋に行き、近鉄に乗換え、2つ目の「黄金」で降りて、名古屋機関区でキハ90の試運転ダイヤをお聞きし、名古屋駅で撮影することにしました。
    時間があるので、名鉄金山橋で暫く撮影しました。
    車体更新前のモ3400です。

  9. 名古屋駅で試運転のキハ90を撮影して、彦根に戻りましたが、まだ時間があるので、近江鉄道の車庫にも行きました。
    以上、57年前の思い出でした。

  10. 総本家青信号特派員様
    藤本哲男様
    準特急様の『梅小路区を塒(ねぐら)としたC57達』へのコメントの前置きで「学生時代、アルバイトで車を運転して親戚の会社を手伝っていましたが、運転席の横にカメラを置き、信号待ちや線路の傍を通る時に列車や路面電車を写していました。残っているのはフイルムだけで日時や場所の記録を残していません。」と言い訳をしました。その状況で1967.7.1(入場券の購入で判明)に岐阜市内を通っていた時、名鉄岐阜市内線の写真を撮っていました。今回は“長良線”なので投稿を見合わせていましたが、藤本様の単車のご説明があり、氏素性が分からなかったものの正体が明確になりましたので、場所が特定できず線名も分かりませんが、同時期の写真を3点投稿いたします。まず「10」です。

  11. 私も藤本さんや、快速つくばねさんと同じ、単車10号を撮っています。昭和41(1966)年の夏だったと思います。撮ったことは憶えていたのだが、場所が何処だか思い出せず、岐阜在住の後輩に聞いたら、長良橋北詰めとのことでした。電車の両脇に建っている、歩行者用信号は、当時の岐阜に独特のものだった由です。

    • 宮崎繁幹さま
      お久しぶりのご投稿、お元気でなによりです。
      この場所は電車進行方向の左(南)へ行くとすぐ長良橋に入り柳ケ瀬・岐阜駅前方向へ向かいます。鵜飼屋という停留所がありました。この交差点の周りには美味しい鰻屋とみたらし団子の店がありました。右へ1キロほど行くと長良北町の終点です。親爺の実家がさらに北へ1キロほどにあり、ずっと昔は実家の裏を長良北町からさらに高富へ向かう線路がありました。廃線後は道路になり名鉄バスも走っています。幼少のころから単車からボギー車まで良く乗って通った懐かしい場所です。緑にクリームの車体色は田舎車輛の好ましい標準色のひとつでした。

      • 大阪通信員さま、コメントを有難う存じます。デジ青には岐阜県に御縁のある方が、何名かいらっしゃるのですね。小生の祖父もそうで、忠節の橋の下流寄りにある島と云う地区の出身です。宮崎姓が多数の土地で、屋号で呼ばないと判らないのだとか。私の単車10号の写真は、その地の親戚を訪ねた折のもので、撮影行ではなかった為、写せたのは2枚だけでした。もう1枚の写真も貼っておきます。

        • 宮崎繁幹さま
          二枚目の画像ありがとうございます。ホイルベースが短くヤジロベイみたいな車輌でよく走行していたものです。
          なお小生の妻は則武の出身で島中学校を卒業しています。旧姓は栗本で高橋と共に両姓が近所にいっぱいです。

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