正月はゆっくり過ごしたが、昔の旅人は正月をどんな思いで歩いていたのだろうか? 日本は地震国で、それに伴う地殻変動による津波の発生や到来は事前通告がないだけに旅人を惑わせるものであった。29宿浜松から西へ辿るには、30宿舞阪から渡船によるものであった。15世紀末まで浜名湖は淡水湖であったが、大津波を受けことにより塩水湖に様変わりしていた。1699年高潮、1707年宝永地震には津波、1854年安政東海地震の津波で宿場や渡船場の位置は変動していた。幕府にとって大きな事業は関所の維持で、今も遺構が残る今切(・いまきり)の関所もその一つであった。宿場(31宿新居・あらい)とは離れた位置だが往年の姿が再現されている。これとは別に津波のために浜名湖を渡ることが出来ない時のため、湖岸を北に辿る道(姫街道)が整備されたのは、非常時の代替となり重要なものであった。
31宿新居に続き32宿白須賀、33宿二川で現在の豊橋市圏内に入る。現在の豊橋を名乗ったのは明治維新後で、それまでは吉田藩の領地であった。従って吉田城の配下に豊橋市があり、これを中心として電車網が作られた。豊橋の電車網と言えば「はてな?」と首を傾げる方もあると思うが、東はJR東海、西に名古屋鉄道、南に豊橋鉄道渥美線、北にJR飯田線と四方に鉄路が伸びている。加えて元城下には路面電車が走る町、豊橋なのである。地方都市の中でも老人お気に入りの町である。その骨格の一つ、渥美電鉄は豊橋~三河田原間18,1kmを架線電圧600Vで全通したのは1925年5月10日であった。1997年7月に1500Vに昇圧されたが、一両として600V車を昇圧改造したものはなかった。昇圧前まで生き残った主要車両は次の通りであった
そして1997年2月2日、1500V昇圧に伴い一挙に28両の名鉄旧7300系が準備され、2期に分かれ納入された。これは地方鉄道では前例がないと思う。名鉄はその頃、特急車の更新で1000系シリーズへの取替えが推進中であった。
東山本線を名乗っている市内線は、1925年7月14日に豊橋電気軌道により開通、当初4輪単車による運転であった。戦後の豊橋は産業都市となり、それに伴い1968年のボギー車導入で4輪車を追いやった。導入は廃線(東京都荒川線を除く)となった元名鉄軌道線のもので、新造車は先年入線のT1000型が最初となった。先日ぶんしゅう氏から現況報告があったので、本稿ではその前に運転されていた車両紹介となるが、近年車庫訪問なしで思い違いあれば御免なさい。市内線の写真は野崎昭三氏撮影のものとした。氏は吉谷さんと古くから親交を結ばれており、老人は1989年に路面電車同好会名古屋支部例会に参加したことにより親交を結ぶことになった。それには吉谷さんの後輩であることが基になっている。
乙訓の老人様
東海道は宮(熱田神宮)の渡しで桑名に渡るところが有名ですが、舞阪にもあったことは東海道徒歩の旅で初めて知りました。豊橋が吉田であったことなども最近知りました。また、旧東海道は今のJR東海道本線ではなく名鉄線沿いであったことも歩いてわかりました。知立も昔は池鯉鮒であったそうです。豊橋鉄道ですが今は東急7200ばかりで趣味のひとつのジャンル譲渡車両にもっと早く着手しておれば元名鉄の車両を豊鉄で撮れたと残念に思います。次の発表も楽しみにしております。
準特急さん、コメント有難う。豊橋鉄道には三八豪雪の前年春に行きましたが、その時は三島出張の帰途のため渥美線往復だけで富山へ帰社しました。
それから26年ぶり(1993年)に行きました。初めて覗いた時と比べ気動車改造のトレーラーは廃車後で、寂しい思いがしました。この時のフィルムは三八豪雪の時に工場火災で焼失してしまいました。とはいえ車庫外部には買収国電の成れの果てが3両、哀れな姿をさらして居りましたので、それらの故郷めぐりをその後、果たして来ました。次回は脱線で、その話から熱田へ飛ぶことを考えております。