“板”の取り替え
車両の前面には、種別・行先表示や、優等列車なら愛称表示と、さまざまな表示アイテムがあって、前面のアクセントになっています。現在では、ほぼ自動の幕式、あるいはLED表示になりましたが、昭和の時代は、金属板に書かれた表示で、すべて、人手によって、運搬や取り替えが行われていたこと、思い出します。
▲いちばん身近な例として、阪急で見られた種別表示の取り替えを。当時、京都線特急は、ほぼ6300系が独占していたが、時折、ロングシート
車が混じることがあった。日中、定期的な運用があったのは梅田15:30発の特急で、梅田までは快速急行での運用だった。これが、字幕式の7300、8300系なら問題ないが、まだ幅を利かせていた5300系の板車となると、車掌による取り替え作業となる。「急」で到着すると、まず2号線側から「特急」に取り替え(左上)、1号線に回って「急」を抜き(右上)、「特急」を差し込む(上)。何ごともなかったようにして発車を待つが、なにせW標識だから結構な手間だった(平成5年)。
▲151系特急でも愛称板の取り替えが見られた。「〇号」ではなく、列車ごとに個別の愛称が付いていた時代だから、運転区間が同じでも、折り返しの場合、異なる愛称となる場合がある。ここ宇野駅でも、大阪発「うずしお」が11:40に到着、折り返しは新大阪行き「ゆうなぎ」となり、到着後、愛称板の取り替えが行われる。係員が連結器カバーに乗って、大きな愛称板を取り替えしている(上)。151系の愛称板は当初は固定式だったが、のちに着脱式になるが、大きなものだけに作業もたいへんだ。折り返しの「うずしお」となり、宇高連絡船からの客を受けて、12:45に宇野を発車して行く(下)(昭和40年)。
▲愛称板の取り替えは、天下の新宿でも見られた。小田急SE車3000系「あさぎり12号」が、12:02に御殿場から到着、右手に取り替えの愛称板を持った係員が待機している(上)。到着後、すぐに取り替え作業が始まって、「あさぎり」から「あしがら」に変更される。ホームで待っている乗客が乗り込み、12;11発の箱根湯本行き「あしがら55号」となる(左)。この間、わずか9分の折り返しで発車して行くのも大量輸送時代の昭和らしい。
▲最後に、自分で愛称板を取り付けた思い出を。昭和43年8月の盛岡機関区、1ヵ月余り後のヨンサントウ改正で、盛岡~青森が電化し東北本線全線の電化が完成する。盛岡機関区は最後の煙の競演を見せていた。D51トップナンバー、初めて見るC61、東北本線独自の小デフを付けたC60、蒸機が扇形線にあふれていた。そんななか、ラウンドハウスの横に、特急のヘッドマークが置かれているのを発見した。区の方に聞いてみると、蒸機に付けても構わないとの返事。喜び勇んで、重いヘッドマークを同行の士とともに担ぎ上げて、次々と蒸機に付け替えて写しまくった。写真はその一枚、「ゆうづる」を付けたC6016、「ゆうづる」は、C62牽引で話題となったが、これは常磐線のこと、東北本線の非電化区間は、誕生当時からDD51重連牽引で、実際にはあり得ない組み合わせではある。朝焼け空をバックに飛び立つ鶴をイメージしたヘッドマークは、出色のヘッドマークとして名高いが、「ゆうづる」はヨンサントウ改正で583系電車に置き替えられるため、ヘッドマーク自身もまもなく消えてしまう。歴史的な改正を前に、蒸機特急の晴れ姿を、区の粋な計らいで演出することができたのだった。
総本家青信号特派員さま
旧国鉄の重たいヘッドマークの交換はさぞ大変だったろうと思います。国鉄時代の「サボ」に関しても様々な想い出がありますが、大半はここには書けないようなものなので割愛します。また阪急の交換作業をご紹介戴き有難うございました。
国鉄マークには及びませんが、京阪での体験を紹介します。京阪特急のシンボルでもあった「鳩マーク」等の、1900系時代の交換(実際は裏返し)の想い出です。国鉄同様鳩マークもかなり重いものでした。なにせ鉄板は1㎝はなかったと思いますが7~8㎜ほどの厚さがあり、横幅は両手を軽く拡げたほどもあったためこの裏返しは一苦労でした。三条と淀屋橋での折返し普通や回送入庫、深草車庫出庫の三条への回送等で経験しました。鳩で苦労したのは深草→三条への回送でした。当時1900は深夜帯に分割運用するため3連+3連で組成されていて、回送時は中間運転台の貫通扉に付けられたマークは前夜の「鳩」のままで、これを10分ほどの回送中に反転して外部塗色と同じ黄色と赤の表示にしなければなりませんでした。連結部にしゃがみこんで上部左右のフックから外して反転して再装着するのですが、しゃがみこんでの重量物の上げ下ろしと再びフックに引っかけての装着は揺れることもあって困難を伴う作業でした。一度は1枚(片側)しかできず、もう1枚が鳩のまま三条に着いてしまうという惨状(笑)を呈し、折返し特急の担当車掌に詫びをいって後を託したこともありました。さらに淀屋橋の折返しは戦争でした。回送で寝屋川車庫へ向かう列車は基本放っておいていいのですが、守口市行普通(守口市から先は回送)で折り返すのは「鳩」とドア横上部の「特急」標識をひっくり返さなくてはなりません。営業車である以上誤乗を防ぐために普通仕様に変身させる必要がありました。到着担当と折返し列車担当の乗務員以外に助役なども応援に出て総がかりでした。特に難儀したのはドア横の標識でした。手を上方へ伸ばして引き上げてから抜いて反転し、再び差し込む作業ですが、標識枠の寸法がキッチリなので、ちょっとバランスが狂うと固着してしまい、にっちもさっちもいかない状況に陥ります。6分ほどの折返し時間内に特急標識だけで1列車あたり4枚/両×6両=24枚をひっくり返すのですが、スムーズに運んでも大変で、ましてどこかで詰まってしまうと一部に反転し損ねたままで発車することになります。半分はホームから作業しますが、反対側は奥のドアを開けて身を乗り出して行うことになります。幸いにして深夜帯の守口市行なので乗客はそう多くないとはいえ、ホームと反対側のドアを開け放してしていたわけで、現在ならとてもできない作業でしょう。ある時など北浜・天満橋で停車中に当該車両まで走っていき、戻って発車ということもありました。その後の幕式や現在主流の電光表示になって、忙しない時代にマッチするようになりました。
一方急行や各停など他種別の方向板はアルミ化されていて、ヒョイと持ち上げるだけで簡単に交換できました。ある時各停を担当して淀屋橋に到着後、方向板を折返しの「三条」行に反転しようと見ると、既に三条行の表示になっていたことがありました。ビックリして、ひょとして三条からこのままで下って来たのか、目撃されていたら始末書ものだなと一瞬覚悟したものでしたが、当時電車好きの少年が駅に出入りしていて、電車が到着するやいなや彼がひっくり返してくれていたことがわかり、胸を撫でおろしたことがありました。昨今は簡単かつ明瞭になった表示類ですが、なにか無機的なもののように思われ、昔感じた情緒が失われたように思うのは残念ですね。
1900生様
“板”の取り替えの大変さ、当事者から赤裸々な貴重な証言を聞かせていただきました。乗客の眼に触れるところだけでなく、回送中など、目立たないところでの大変な作業もよく分かりました。さて、添付の写真、覚えておられますか。昭和46年、入社一年目の1900生さま、まさにこれから“板”の取り替えをされるところです。たしかDRFCで見学会があり、1900生さん乗務の報をキャッチし、何人かで、乗車列車に乗って、三条から淀屋橋まで、追跡取材したものです。ネガを探し出して、出てきました。
総本家青信号特派員さま
ありゃ~エライ写真を撮られていましたね。肖像権などと固いことは申しませんが、今風に云えば一種の盗撮?のようなものですかね。前から撮られているのに全く気が付いていませんし覚えもありません。それ以前に乗っておられたことに車内巡回でも気付いていなかったとは。他に中書島で三条行各停の発車警笛を吹いている姿を後方数mから撮られた写真を後にぷるぷるさんから見せられたこともありましたが、当時は周りに誰が居るかまでは全く眼に入らず、業務をこなすだけで精一杯でした。
しかしいささかお疲れのようですね。車掌研修が丁度6~8月の盛夏でしたから、スタミナのない小生には楽しかった?ものの、厳しかったですね。
1900生様
50年以上前の盗撮疑惑、たいへん失礼しました。この時は、DRFCメンバー何人かで、1900生さんが特急に乗務されると聞き、淀屋橋まで追っかけしました(たぶん、ぷるぷるさんも)。車内アナウンスの、きりりとした声が耳に残っています。
総本家様
名鉄知多新線を完乗した時の終点、内海駅の「板」変更作業です。行き止まりの終着駅で、大胆にも車掌が線路上に降りて作業を行っています。当時パノラマカーは特急以外にも使われて、身近な存在でした。「板」の仕様は何種類かありましたが、このタイプはプラスチックの板をフックに取り付けるもので、いとも簡単に行先を変えていたのを思い出します。
昭和61(1986)年12月17日、前夜野間の灯台近くの民宿で、取引先の忘年会にお呼ばれしてからの帰り道でした。
名鉄パノラマカーの愛称取り替え作業、見せてもらいました。名鉄は、この当時、多くの愛称付きの特急や臨時が運転されていましたね。しかも、複雑な経路をたどっていました。乗り換えなしで、とにかく乗客を便利に運びたい、鉄道関係者の思いも、昭和ならではです。煩雑な取り替え作業には、やはり軽量化、作業の容易さが必須のことも分かりました。
外した愛称板をそんなところに置いても良いのか? と思ったものでした。(1974年熊本駅)
「みどり」「にちりん」ですから、これは大分駅で撮られたものでは? たしか「みどり」は、この時期、新幹線接続の岡山~大分の運転でした。憧れの特急ヘッドマークが、ホームにぞんざいに置かれているのは、私も見たことがあります。写真は、新幹線開業前の岡山駅、ファンが勝手に写真を撮っているのを見て、横撮りしました。
「みどり」「にちりん」ですから大分ですね。失礼いたしました。1975年3月の新幹線博多開業で「みどり」が廃止される前年です。
これも「みどり」です。向日町にて
タイミングを失した投稿ですみません。
阪急での標識板の交換風景を懐かしく拝見しました。
特急の2枚の標識板は懐かしい限りですね。
やっぱり2枚の特急標識板を付けた2800の特急が一番似合っていると思いますね。
5300の特急の標識板はもうプラスチック?というか化学合成品で軽くなっていたことと思います。
私達の乗務員時代は鉄板で重かった!急行も1枚とはいえ、長岡天神停車用の黄色い表示と通常の白色ベースが半月板で表示変更できるようになっていたので、1枚でも重たかったことを思い出しました。
昔話でした。