車両のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈15〉

ナンバーの話③ 形式入りナンバー C51225

前回の本シリーズ〈14〉で触れた形式入りのナンバープレートでも、皆さんから多くの思い出を寄せていただきました。なかでも、準特急さんが、亀山区の形式入りC51225をきっちり収められていたこと、“先達のやることは違う”と感嘆しました。C51225は、形式入りのナンバープレートはもちろん、化粧煙突、スポーク動輪とC51が具備すべき要素は、完璧に備えた機でした。現役のC51を実際に見た人間は、もう私のような後期高齢者しかいませんが、すべての年寄りが憧憬の念を持っていた蒸機でした。撮影の昭和38年と言えば、準特急さんは高校3生のはず、目覚めの速さと言うか、その気づきには改めて畏敬の念を持った次第です。翻って私は寸前のところで撮り逃がした口で、パイプ煙突の梅小路のC51を何とか収めた世代でした。その悔しい思いは、今も沸々と湧いてきて、先輩から美しいC51たちの姿を見せてもらって、溜飲を下げているのです。形式入りプレートを備えたC51 225号機、最後は亀山区にいて、当時の蒸機ファンの人気を一身に集めていた。同じ形式入りにしても、前記のC575に較べて、英数6文字あり、左右寸法が大きい。

非の打ちどころのない完璧のC51225、昭和40年以前、C51が急速に数を減らして来た頃、原型のC51に注目が集まっていた。なかでも、新津のC51239、米子のC5180、そして亀山のC51225は、原型C51として、とくに注目を浴びていた。新津は239号機はかつてのお召し専用機で、現在は梅小路蒸気機関車に保存されている。米子のC5180も継ぎ足しのない化粧煙突で人気があった(私も逆光下での1枚だけ撮影)。ただ、いずれも形式入りの無いナンバープレートで、唯一「形式入り」のC51225は、ほかを圧するオーラがあった(写真=鳥羽にて 昭和39年10月 神戸M,S,さんから移譲されたネガをスキャンして掲載)。

C51225はずっと亀山にいたような印象を受けるが、亀山は末期の4年間のみで、それまでの10年間は、梅小路区にいて、山陰本線の列車を牽いていた。2023年1月、私と佐竹さんで開催した写真展「煙の記憶」でも、保津峡を抜け出て、亀岡盆地に入るC51225を会場のセンターの奥に飾らせてもらった。

 車両のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈15〉」への3件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    鉄道写真とC51、私にとっても初撮影の組合せだったので深い想い出があります。高校生だった昭和39年頃かと思いますが、自宅から自転車で20分ばかり走った花園駅の西方で初シャッターを切りました。親父の2眼レフを借りて11時頃の園部発上り客レを撮りましたが、なにせ初撮影のことゆえ、ファインダーのギリギリ一杯のところでシャッターを押したはずが、写真を見るとなんと遠くに小さく写っているだけで、機番も虫眼鏡で拡大しないと見えない代物でした。現地では通過後にC51であることを見て、未だ走っているのかと思った記憶があります。その後に二条で交換して来た下り準急「きのさき」(キハ55・58混成)を撮っていますが、本来はこちらが撮影目的でした。ことほど左様にDRFC入会まではあまりSLに関心がありませんでした。勿体ないことをしました。もっと早く目覚めるべきでした。
    余談ですが亀山のC51といえば未だに憶えている話があります。クラブ員と一緒に亀山区を見学した際に、所長さんから伺った鳥羽快速とC51の話です。覚えておられる方も居られると思いますが、加太越えのC51に亀山からD51の後補機が付きましたが、加太の上りで補機がサボっていると感じた本務機関士は、柘植から先の草津線内を高速で飛ばしたそうです。動輪径の差から補機D51は相当きつく揺れ、ヒーヒーと悲鳴のような汽笛を吹いていたとか。所長さんの面白い語り口もあって、楽しく拝聴したので未だに頭に残っています。総本家さまのご投稿からC51~山陰線~亀山と、また懐かしい想い出が走馬灯のごとく繋がりました。ありがとうございました。

    • 1900生様
      C51との出会いを聞かせていただきました。花園駅だったのですね。私も何度も経験しましたが、“決まり!”と思って撮った写真が、はるか向こうにポツンと写っているのは、何度も経験しました。
      亀山の区長の話ですが、これは、私が入学した昭和43年の新入生歓迎旅行の時でしょうか。かすかに覚えています。あとで知ったことですが、湯川さんという区長で、たいへんな鉄道ファンだったと聞きました。ファン向けの話に長けていたのでしょうか。

      • 総本家青信号特派員さま
        そうだと思いますね。いかにDRFCとはいえまた見学者が珍しかったとはいえ、わざわざ席を設けて話を聞けるというのは、自惚れると歓待されたということかもしれませんが、なにか一言伝えてみたかったのではないでしょうか。面白可笑しく話されたのもそういう思惑もあったのだと思います。
        総本家様が入会された年でしたか。加太詣で?はよく行きましたね。青春の一ページでした。
        余談ですが小6の修学旅行は鳥羽快速で伊勢・二見でした。往きは殆ど記憶にありませんが、復路は亀山から後補機が付いたこと、おそらく加太の大カーブだと思いますが、窓から顔を出して見ると前後のカマが咆哮していたことを憶えています。後年先輩に教えてもらってここを頻繁に訪れるとは思いもしませんでした。

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