駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈9〉

駅名標②  終着駅

駅名標の写真を投稿したのが、一日余り前のこと、この間に、速攻の紫の1863さんはじめ、多くの方から、駅名標にまつわる思い出の写真を寄せていただき、改めて、駅名標への関心の高さを思いました。なかでも、西村さん、奈良の駅研さんから、終着駅の駅名標を載せていただきました。今回紹介しようとするのも、「終着駅」てす。当時の駅名標の場合、下部には、両端の駅名が書かれていますが、終着駅の場合は、どちらか一方が白地のままで、“これ以上は行けない!”感を無言で表現しています。ここが白いだけで、なんとも感慨深さを覚えたのではないでしょうか。さらに終着駅は、その後の変転があります。延長されて、もう一方に駅名が記入されることもあるでしょうが、大部分は、廃止の運命をたどり、終着駅としての歴史を閉じたものです。

 

駅名は4文字、仮名もローマ字も長い。それだけに次駅がない白地が余計に目立つ(岩代川俣、昭和46年)。こちらは、左方面に路線が延長されて、昭和50年に両端の駅名が入った。ところが2018年には全区間が廃止、延長区間は43年しか持たなかった(浜原、昭和45年)。もう廃止になってもいいような駅も、終着駅のまま、奇跡的に残っている駅もある(伊勢奥津、昭和45年)。こちらは、第三セクターの秋田内陸縦貫鉄道に移管されてから、左の区間へも延伸されて、晴れて両端に駅名が入った(比立内、昭和46年)。

九州各地の終着駅、駅名だけでなく、所在地や標高が記載されているのが、九州の特徴。右の高森は南阿蘇鉄道として残ったが、熊本地震で被災、長い復旧工事の末に、昨年に全通した(室木、香月、高森)。

関西にも、考えたら終着駅が多くあった。第三セクターに移管された線区も含めて、すべて廃止された(鍛冶屋、三木、尼崎港)。

JR西日本になってからの終着の駅名標。次駅表示のところに、コーポレートカラーや路線カラーがあるので、白地の“これ以上行けない”感がない。いずれも、いまは見られない駅名ばかり(大嶺、湊町、三段峡)。

 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈9〉」への2件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    私にとっての究極の終着駅、1967年8月21日の根北線(こんぽくせん)の越川駅です。根北線は1957年11月10日に開業し、1970年12月1日に廃止になったので僅か13年の営業期間でした。開業時貨物列車も運行されましたが、終着駅がこのような状態ですので、3年で営業休止になりました。

  2. 総本家青信号特派員様
    鍛冶屋線とよく間違えられた徳島県の鍛冶屋原線の終着駅鍛冶屋原です。1967年12月29日の撮影ですが、南国では珍しく雪が降っていました。

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