駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈7〉

給水塔  

登録有形文化財に指定された名松線伊勢奥津駅の給水塔。名松線松阪~伊勢奥津が開通した昭和10年に設置された。高さ10mで、四本の鉄筋コンクリート柱の上に、汲み上げた水を入れる直径3mの鉄製タンクがあり、蒸機の活躍していた時代、炭水庫に注水していた。近くに給水槽や、雲出川からの取水口も残っているそうだ。

昨日は、非鉄グループで、青春18きっぷを使った乗り鉄、呑み食べ鉄として、“名松線乗車と松阪牛を食す旅”に行きました。ホントささやかですが、この夏初めての遠出でした。名松線は、台風豪雨のため、前日までの数日間、運転抑止、この日から運転再開でしたが、18きっぷシーズンにも関わらず、18族があと2人、一般の乗客はゼロのまま、終点の伊勢奥津に到着しました。名松線は、クローバー会のツアーでも2021年12月に行ったことがありますが、終点の様相には変化もなく、何気に給水塔の近くへ行ってみると、写真のような“ニュース号外”が貼られていました。知らなかったことですが、給水塔が、ことし7月に登録有形文化財に指定された速報でした。鉄製の給水塔としては、若桜鉄道若桜駅に次いで登録有形文化財の二例目だとのこと。

蒸機時代の給水塔の写真も入れられた、名松線を守る会の「ニュース号外」

蒸機の動力である蒸気をつくるのは、水であり、蒸機にとっては、石炭以上に重要でした。水なら何でもいいという訳ではなく、不純物があると、ボイラーで目詰まりを起こしたり、腐食したりするので、純度が要求されます。蒸機も、清缶剤を使用することもありました。相当の水を消費するため、運転中は、定期的に給水する必要があり、機関区以外でも駅ホーム端の機関車停車停車位置に給水塔が設置されていました。蒸機が消えると、必須の設備であった給水塔も、機関区跡や駅に、大きな円筒形をさらして、朽ちるまま残された例が多く見られました。まだ終端駅らしい面影があった伊勢奥津駅、給水塔も現役のような姿を留めていた(昭和46年)。駅で列車到着を撮っていると、偶然、給水塔が入ることがあった。こちらの給水塔の台は鉄骨造り(会津坂下)。京都周辺では、やはり園部の給水塔に存在感があった。煉瓦の土台も大きく、上部をアーチ状にした窓が設けられている。

 

 

人吉機関区の給水塔、台は石造り、台の中は空洞で送水パイプが通っていた。北海道の給水塔、水が凍りつかないよう、がっちりした造り、給水ポートもある(厚床)。私鉄の給水塔。江若鉄道にも近江木戸に給水塔があった。江若の駅舎はいずれも木造で、外観がよく似ている。近江木戸であることの判別ポイントになっている。

給水塔は、蒸機が無くなっても、電化しても、そのまま放置されることが多く、煉瓦造りに、ツタが絡まり、独特の光景を見せていた(小浜)。機関区跡でも、建造物は撤去されるが、給炭台や給水塔は、そのまま放置されることが多かった(今庄)。多度津に今も残る2つの給水塔、左の煉瓦造りは大正年間、右の鉄骨製は戦後製、こちらも登録有形文化財に指定されている。

 

早岐機関区跡もすっかり更地になっていたが、訪れた時は、給炭台だけ残っていた。

 

 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈7〉」への11件のフィードバック

  1. これも給水塔でしょうか? かつては加太越えの補機に活躍したD51が休んでいた、柘植駐泊所を久しぶりに訪ねてみると、廃墟のような風景が広がっていました。撮影は1992年5月です。今は跡形もなく、荒れ地になってしまいました。

    • 紫の1863様
      今度は柘植、ありがとうございます。私も先般の草津線乗車で見ましたが、駐泊所跡は、何も残っていませんでした。これも給水塔ですね。撮影者で賑わう「デゴイチ伊賀号」の後ろに写っていました。

  2. 総本家青信号特派員さま 
    こまめに給水塔を記録されていたのですね。これはついで撮りかもしれませんが、列車と同様に「記録しておこう」という意思が働いていた結果ではと思います。列車にしか眼が向いていなかった小生には考えもつかない対象でした。会津坂下駅の列車は会津若松行で、給水塔は下り列車用だと思います。この先の勾配に備えて給水していたのでしょう。
    紫の1863さま
    学生時代から幾度となく足を運んだ加太越えでした。柘植で下車して中在家信号場まで歩いたことも一度ならずありましたが、やはり気が付いていませんでした。その待機線のD51も撮ったことがありますが、やはりSLだけでした。

    • 1900生さま
      会津坂下の給水塔は、会津川口方面に向かう下り列車用ですね。これから始まる勾配区間に備えてのものでしょう。給水塔ですが、特別に撮った訳ではなく、たまたま撮った列車写真のなかに、給水塔が写り込んでいただけです。ただ、今でも、無用の長物と化した給水塔が残っている例があり、これは、蒸機の時代の遺物として、記録していました。

  3. 多度津駅の給水塔を取り上げて頂きましたが、残念ながら鉄骨造分は解体され、レールで組まれていた脚部のカットされた物が添付写真の案内看板の下に保存されています。
    カットされたレールだけですので、案内がないと、とても給水塔には見えませんが。(2024.4.18撮影)

    • 77タツ様
      多度津の給水塔の現況を、ありがとうございます。
      2022年のクローバー会ツアーで四国へ行き、77タツさんにご案内いただいた時は、まだ健在だったように思うのですが、その後に移設されたのでしょうか。やはり給水塔は、台や足があってこその給水塔で、水タンクだけでは寂しいですね。

  4. 総本家青信号特派員様
    近江木戸の写真ありがとうございます。この駅の前後に天井川の木戸川隧道と大谷川隧道があり扇状地なので水位が高く給水塔への水の補給が楽だったのでしょうね。小学生の頃お盆の暑い時期に毎年通っていたこの駅で不思議なことがあったのを思い出しました。浜大津と近江今津の中間にあたるためこの駅で交換する列車が多く、暫く停車している間に職員の人が気動車の各車両にホースを接続し給水を始めました。しばらくすると給水口から熱湯が噴出しましたが、当然トイレや洗面台が付いていないので給水の必要がないと思ったのですが、当時の機関は水冷式だったのでしょうか。写真でも上下の線路の間に給水ホースが見えています。
    写真は準特急様から「お城と電車(17)弘前城」のコメントで「C60、C61、D51の奮闘した矢立峠は1枚でも2枚でも発表してください。」とご指示を頂いた時、このような風景があったことを思い出しました。1968年9月3日の弘前ですが、後側が機関区に見えず、どうしてこのような場所にあったか分かりません。

  5. 快速つくばねさま
    それはエンジンラジエーターへの注水だったのではないでしょうか。私はキハ20への注水を現認したことがありました。以前にもご披露した出来事ですから詳細は省きますが、米手さん、西村さんの3人で鳥取発岡山行因美線のDC3連に乗った時の出来事でした。中間にキハ20が連結されていたので乗車していたところ、土師を出て連続登り勾配にかかって暫く経った頃にフト見ると床下のラジエーターから熱湯が噴出していたのです。そのうち事故に繋がる予感がして、あれは何だろうと話し合ううち、たまたま車掌が巡回に回ってきたのでそれを告げました。窓を開けて確認して「運転士に言います」と去った後で、突然米手さんが「これは危ないぞ!エンジンが爆発して火を噴いて火事になるかもしれん。隣の車両(形式は忘れました)に移るぞ」と囁かれたのです。コソコソと先頭車に移って一安心していると、周りの客にも聞こえたのか「危ないんやて。火事になるんやて」とゾロゾロ後からついて来ていました。で、その後どうなったか。間もなくキハ20のエンジンはカットされ、列車はノロノロと喘ぎながら那岐駅に着き、運転士がとんできてラジエーターに注水しました。これで回復するだろうと思った次の瞬間、あろうことかホースの水を全開にしてエンジン本体に浴びせかけたのでした。これで爆発の可能性が一気に現実のものとなり一瞬身構えましたが、列車は10分ほどして何事もなかったのように物見トンネルのサミットに向かって登り続けました。

    • 1900生様
      ご教示有難うございます。よく理解できました。
      小学校低学年の頃は、こんなところで給油するのだと思っていましたが、熱湯が噴き出る様子からそうでないことが分かってきました。夏の間、下り列車は必ずこの駅で給水していましたので相当無理をして走っていたのですね。

      • 快速つくばね様
        私もそこまでの認識はありませんでしたが、コメントを読ませて頂いて、当時の様子を初めて知り得ました。エンジンなどの諸機関の信頼性が今ほど高くなかったことや、暑い夏場の運転条件などを勘案しての運転障害の予防策として実施されていたのかもしれませんね。余談ですが小さい頃に父に連れられて琵琶湖へ海水浴に行きました。三条から京津線~浜大津から江若鉄道だったはずですが、車両が何だったかや、どこへ行ったかのかも全く記憶にありません。ただ憶えているのは三条と浜大津ともに、ホームから開いた窓に押し込められて乗車?したことだけです。

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