江若交通 ⑤ 堅田葛川線(下)
堅田葛川線の続きです。堅田駅前~途中~細川のうち、「途中」から、花折トンネルを抜け、比良山系の西側に沿って若狭街道(367号)を北上、細川までの区間です(以下、昭和55、56年撮影)。▲「途中」を出発した細川行き。街道らしい街並みが続く。実際は狭い道にクルマがあふれる渋滞の名所だったが、いまは高架バイパスができて、静かな街並みに戻っている。
▲花折トンネルに入る江若交通のボンネットバス。標高591mの峠で、かつては若狭街道の難所だったが、昭和50年に花折トンネルが完成し、交通の便は改善された。峠の名は葛川の明王院への参詣者が、この峠で仏に供える樒を折ったことに由来する。
▲「途中」を出て、街並みが途絶えると、つづら折りの道が続き、ボンネットはあえぎあえぎ上って行く。▲▲杉木立を進む。トンネルの手前に、かつての旧道が見え隠れする。ボンネットバスにとっては大変な隘路だった。
▲延長727mの花折トンネルを出る、細川発堅田駅行き。「花折」の名は、京都にとっては、花折断層の方で有名になった。▲花折トンネルを出ると分水嶺となり、道路に沿うのは安曇川の上流で、水は琵琶湖に注ぐ。木戸口付近▲ところどころに小さな集落があって、かつての街道の面影を偲ばせた。▲この日は全区間乗車すべく、堅田から細川までボンネットに乗った。乗ってしまうと撮れない。そこで、絵になりそうなバス停が来ると、乗務員に頼み込んで、下車させてもらい、撮影タイムとなった。撮影の間、近くのご婦人が雪かきをするシーンも撮れた。余裕のある運転時分があったとは言え、客を乗せたまま、一人の撮影者のために停車してくれるとは、良き時代だった。坂下にて
▲367号は離合がやっとの狭い道、何度も対向車とギリギリの離合をして進んだ。坂下付近。▲冬が去って、待望の桜の季節、撮影にも格好のアクセントになった。貫井付近▲この桜を気に入って、戻りの堅田駅行きも、反対側から順光でとらえた。貫井付近
▲もう鯉のぼりが泳いでいた。平にて▲比良山の登山口に当たる「坊村」に到着、シーズンは多くの登山客が下車する。
▲「坊村」バス停は、京都バスと共同の標柱に。▲▲戻りの本堅田行きにも登山客が次つぎ乗り込んだ。▲坊村を出て、終点の細川に近づく。▲堅田駅前を出て、一時間余り、終点の細川に到着する。つぎの折り返しまで、車庫に入庫。▲細川にあった車庫、安曇川から来たマイクロバスと一緒に仲良く並んだ。細川に19:35に着く最終便は、乗務員とともに駐泊、翌朝6:55に堅田へ向けて発車する。
▲▲お尻を向けて洗車を受ける。ボンネットは、いつも大事にされていた。
途中から花折を越え、葛川の細川へと走るボンネットバスを楽しませていただきました。1980年代に入っても、このようなのんびりとした風景が見られたのですね。木戸口付近の安曇川沿いを走る区間は特に気にいり、何度も見ています。それにしても国道367号線の幅員は狭かったのですね。小浜線へ何度も通った1990年代の半ばには、拡幅工事や新道の付け替えが多くの個所で見られ、2000年代に入ってようやく一応の完成を見たようです。
途中の交差点から花折れ峠への道は一層狭く、対向車があった時などバスは離合に苦労したことと思います。この道は車で何度も通っており、狭さを実感しています。途中のトンネルと高架のバイパスは1988年に開通しますが、有料道路だったのです。普通車の通行料金は150円とわずかな金額でしたが、距離も短く朝も早いと言い訳をして、タダで走れる旧道を選んだのです。同じ考えのドライバーが多く、トラックやダンプカーなどの大型車は570円の通行料金を払わねばならないため、狭いのを承知で旧道を走りました。せっかくバイパスができたのに、利用車は増えませんでした。2010年10月になると行政も重い腰を上げ、途中トンネルの通行は無料化されます。するとドライバーは旧道から走りやすいバイパスへ流れます。沿線の住民には、やっと静かな環境が戻ってきたのです。
運行本数の少ない区間で多くの写真を撮影された陰には、そうですか、そんな裏話がありましたか。総本家様のお人柄によるところが大きいと思いますが、撮影の便宜を図ってくれた乗務員や、文句も言わずに発車を待った乗客など、良い時代だったのですね。
紫の1863様
367号線の思い出、ありがとうございます。そして、私の人柄までお褒めいただき、恐縮です。バスだからこそ、こんな身勝手なことも許されたのかも知れません。いい時代でした。花折峠から以北の安曇川に沿う区間は、ホントいいところで、まさに“ボンネットの里”そのものでした。私は、ボンネットの末期だけ集中的に、367号をバスに乗ったり、歩いたり、人のクルマに乗せてもらっただけで、その前後に、367号を体験したことはなく、新道・旧道や、バイパスの時期など、曖昧なところがあります。また何かありましたら、ご指摘ください。
鯖街道のボンネットバスの風景、懐かしく拝見しました。仕事時代1991年に福井県上中に工場ができ、家から頻繁に車で通っていました。若狭に抜ける道は161号線今津経由と鯖街道を走る道の2つがありましたが、1990年代当時は161号線バイパスの湖西道路も工事中で、途中何か所か161号線に降りなければならず、時間がかかりました。これに対して鯖街道経由は信号がなく距離も5kmほど短いので、こちらを通ることがありましたが、花折トンネルを出てからの川沿いの道は狭く離合が困難で神経を使いました。2000年代に入ると道が拡幅されトンネルで新しい道となったため、その後は鯖街道を選ぶことが多くなりました。当時も車庫はあり、車庫のある細川まで来ると行程の半分を超え道も走りやすくなって気分も楽になったのを覚えています。
それにしても足の便の悪いところでのボンネットバスの追っかけ、大変だったと思いますが、改めて総本家さんの熱意と行動力には感服いたしました。
大津の86さま
仕事時代の鯖街道の思い出、聞かせてもらいました。私が江若のボンネットにほれ込んだのは、「バスも面白いし景色も良い」でした。これは、江若鉄道時代の同機、「DCも面白いし景色も良い」と全く同じで、いわば江若の生まれ変わりのようなものです。それに、同じバス仲間だった藤本哲男さんや、ほかのバス好き仲間の影響も大きいものがありました。
総本家青信号特派員さま
途中以北の江若ボンネットバスの貴重なシーンを、一挙に公開していただき、どうもありがとうございます。
期待以上のカット数で、沿道のあちこちの情景が蘇ってきます。車窓からは見ることのできなかった走行の様子も知ることができました。
とくに離合のシーンや雪かきなど、バスと沿道の様子を一緒に捉えたカットは、積雪地域の生活記録としても貴重なものです。
国道367号も改良され、バイパスやトンネルができて便利になりました。かつてはガードレールも少なく、離合する際には「譲り合いの精神」が不可欠だったことも、昔話となりにけりです。
takaginotamagoさま
再びのコメント、ありがとうございます。途中以北の写真をお楽しみいただいたようで、私も嬉しいです。今回は通常時のものですが、ボンネット末期になると、会社主催の撮影会や趣味団体の貸切撮影会、それに最終日の「さよなら運転」など、特別な記録もあります。掲載は、休みながらですが、まだ続きます。この時期、典型的な日本の山里を行く、ボンネットをお楽しみいただければと思います。
総本家青信号特派員さま
撮影対象こそ違え、撮影場所の選定、写真の構図、またその撮影技量などなど、列車撮影に通ずるものを感じます。真の写真家とはそういうものではないかと改めて感服しています。最近の列車撮影では減便により、車に乗らない小生は地元タクシーの廃業等も重なって、かなり撮影が困難になってきましたが、ご紹介のあった当時の江若バスも似たような条件下の撮影ではなかったかと、そのご労苦に想いを馳せながら拝見しました。特に冬場は雪深い現地ゆえ、かなりの困難を伴ったのではと想像します。とはいえそれを労苦と思わないのが我々の趣味ですから、なんと恵まれた趣味だろうかと感謝の気持ちを強くしたのも事実です。懐かしいボンネットバスの写真を拝見しながら、ちょっと余計なことを考えました。
F本さんのお名前が出てきましたので余談をひとくさり。昭和50年代末期に地下化工事に関係して京阪三条近くに勤務していた頃ですが、ある日昼食を摂ろうとして地上駅時代の京阪三条駅東側のバスターミナルを歩いていると、前方でなにやら忙しく歩き回ってバスの写真を撮っている人が居ました。近づいて追い越しざまにふと見るとなんとF本さんだったのです。すでにバスに凝っておられることは耳に挟んでいましたから、多分こんなふうにと思っていたらご本人だったという次第でした。よかったら一緒にお昼でもと声を掛けたと記憶しますが、急いでいるからと撮り続けておられました。俗に三度の飯よりといいますが、まさにその通りの熱心さに頭が下がる想いをしたものでした。
1900生さま
鉄道写真には、形式写真、編成写真、走行写真などと、ジャンルがあるように、バス写真にもあります。やはり大変なのは走行写真ですね。とにかく歩く、バスに乗ってから歩く、タクシーに乗る、人のクルマに乗せてもらう、適宜使い分けていました。狙っていた場所に着き、あとは通過を待つばかりの心境は、鉄道に通じるものがありました。
三条京阪でのエピソードは、お聞きしたことがありました。私も、まだ当時は市民権を得ていなかったバス撮影、ずいぶん奇異な目で見られたものでした。