ここらで ボンネットバス  近畿編 〈9〉

江若交通 ④ 堅田葛川線(上)

江若交通のボンネットバスへのコメントありがとうございます。つぎは、1900生さんやtakaginotamagoさんの思い出深い堅田葛川線へ参ります。堅田駅前~途中~細川を結び、終点まで乗ると片道1時間以上の本格的なボンネットバス路線でした。夏季(3~11月)は3往復、冬季(12~3月)は2往復、うち一往復は、終点の細川での泊まり運用でした。「途中」を越えると、花折トンネルを抜け、比良山系の西側に沿って若狭街道(367号)を北上します。その昔、鯖街道とも呼ばれた、懐かしい風景が続きました。今回は堅田~途中の紹介です。始発の堅田駅前を出て25分、「途中」に着く。ここまで来ると、冬は雪模様だった。京都・大原方面からの道路と合流し、三叉路を形成、街道沿いの面影を残していた。(以下、昭和53年2月4月)。

昭和56年の江若バスの車内路線図から。左下の堅田駅前を出て、途中(黄丸)、細川(青丸)へ至っていたのが堅田葛川線。

始発は堅田駅前、本堅田経由の町内循環線をこなしてから、再び堅田駅前に到着、8:50発の細川行きとなった。琵琶湖大橋に通じる477号を上がって行く。しばらくは住宅地が続く。桜に沿って走ることも。手前は和邇方面で、途中~和邇の系統はここを曲がる。477号は新道に付け替えられたところもあるが、バスは旧道に入って集落を縫って行く。その中心「下在地」に到着、当時は生津方面に別の路線も分岐していた。この日は滋賀県に大雪注意報が出ていて、堅田を出るときから雪だった。北在地まで歩くと、好適なカーブと雪木立を見つけた。ところが、待てど暮らせどバスが来ない。“まさか運休”と思いつつ、降雪のなかジッと一人で待ち続けること55分、ボンネットのライトが見えた時は喝采、連続シャッターを押し続けた。和邇からボンネットバスに乗って「途中」に到着した。バスは三叉路で巧みに方向転換して、途中10:10発の本堅田行きとなった。(以下、昭和53年4月)。そこへ、京都バスの梅の木発三条京阪14系統が到着、クルマを通行止めにして、並列停車。京都バスから江若バスへ、梅の木方面から堅田方面へ乗り換えができた。すると、堅田発細川行きのボンネットが到着する、右に本堅田行きのボンネットの顔が見えている。ここでも、細川行きから京都バスに乗り換えて、大原、三条京阪に行くことができた。つまり、「途中」で3方向から相互の乗り換えが行われていたのだ。実際、乗換客がどれほどいたかは分からないが、会社の枠を越えて、乗客の便を考えたダイヤ設定があった。ただ、この年の11月に時刻改正で、細川行きが1時間ほど早くなり、3方向乗り換えは見られなくなった。丸い尻を見せて、本堅田行きが通り過ぎる。いま「途中」へ来る江若バスは、登山用に土休日に細川行きが一往復のみ、平日は全くバスが来ない。細川行きが一台だけになって一服する。「途中」の由来は、比叡山から葛川明王院への参詣筋の中間に当たるところから、この地名になったと言う。まだ商店も営業していた。少憩ののち、細川行きが発車、現在、「途中」は、大掛かりな高架のバイパスができたが、この頃は、古い集落と川に挟まれた、すれ違いも困難な街路だった。と思っていたら、しばらくして同じボンネットが「回送」表示で下りて来た。実は、この先の坂下付近で路肩崩壊があり、大型車は通行止め、乗客は400mを徒歩移動、別の江若バスに乗り換えた。

 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈9〉」への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください