ここらで ボンネットバス  近畿編 〈6〉

堅田に本社を置く江若交通のボンネットバス、3台あり、2台使用、1台予備で、毎日朝から晩までフル活動していた(堅田営業所)。

江若交通 ①

では、ここらでボンネットバスの話題へ。昭和50年前後、近畿地方にはまだ何社かでボンネットバスが残っていましたが、なかでも活発に走っていたのが、江若鉄道の後継となる、江若交通のボンネットバスでした。江若鉄道は昭和44年に鉄道事業を廃止、江若交通と社名を改めて、湖西線ができるまでの鉄道代替バスも含めて、バス専業となります。湖西線が開業後の昭和50年頃には、3台のボンネットバスが、湖西線堅田駅の裏にある堅田営業所に配属され、堅田の町内輸送を始め、堅田から比良山の登山口などへ向かい、ボンネットバスならではの力を発揮していました。私は「ポスト江若鉄道」ととらえ、よくボンネットを撮りに行ったものです。

四季それぞれの風景のなかに、ボンネットバスが溶け込んでいた、

 

ボンネット路線は大きく分けて、

(1)湖西線堅田駅と堅田の旧市街地を結ぶ堅田町内循環線

(2)堅田から、途中、花折峠を通って、若狭街道沿いに走り、比良山系の西の登山口、細川へ至る堅田葛川線

(3)和邇から栗原、途中へ向かう和邇途中線の3つのルートがあった。

車掌の乗ったツーマンバス、料金箱を備え、前向きシート、床に置かれたのは冬季のタイヤチェーン。

バスは、いずれも1967年製、いすゞBXD30、帝国ボデーだった。堅田駅が発着の拠点、朝から夕方まで、ボンネットバスの発着が見られた。最期は昭和57年2月、冠雪した比良山系をバックにボンネットバスが走り抜けた。

 

 

 

 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈6〉」への7件のフィードバック

  1. 江若交通のボンネットバスが走る風景、楽しませていただきました。1980年ころから滋賀県へたびたび遊びに出かけるようになり、途中を中心に堅田、和邇、朽木への道路は何度も通りました。とはいってもバスではなく、友人の車に同乗させてもらってのことですが。堅田方面以外の道路は狭く、とりわけ途中は渋滞が多く難儀しました。びわ湖大橋から京都市内まで3時間以上かかった日もあったほどで、道路が整備された今とは雲泥の差がありました。還来神社前の道もよく通りました。乗用車でさえ離合が困難な箇所も多く、あの狭い道をバスが走っていたものだと驚きます。この頃はバスに全く興味がなく、見ていたのかもしれませんが記憶はありません。のどかな風景を走るボンネットバスは、何とも言えない風情がありますね。このような風景が大好きです。とはいえ撮影となるとバスの本数は少なく、現場までの足も決して便利ではなかったと思います。素晴らしい写真の陰には、さぞやご苦労があったことでしょう。
    2枚目の「上貫井」だけはハッキリと場所の特定ができるのですが、あとはさっぱりわかりません。4枚目の高い石垣のある場所は是非行ってみたいと思うのですが、残念ながら見当もつきません。
    国道367号線では、一枚だけ江若バスを写しています。2011年11月の撮影で、場所は朽木栃生バス停付近です。細川よりも北に位置し、現在は高島市営バスが運行されているようです。

    • 紫の1863様
      江若ボンネットへのコメント、ありがとうございます。約40年ぶりに私も江若ボンネットの写真を見直しました。よく撮ったものと思います。趣味団体の知人のクルマに乗せてもらって追いかけたこともありましたが、一人で行く時は、バスで行って歩くか、あるいは全部歩くか、どちらかでした。バスの場合は、ボンネットに乗ることも多く、その時は“写真撮りますから、発車ちょっと待って下さい”と車掌に言ってから下ります。2枚目の「上貫井」は、その例です。4枚目の石垣のある写真は、実は江若が主催した撮影会の時の撮影です。坂本の日吉大社の近くの滋賀院門跡の門前で撮りました。穴太積みの本場ですから、石垣が見事でした。

    • 藤本哲男さま
      花折峠と防村停留所付近、懐かしい画像です。ハイキング時によく利用していました。前者は堅田とは江若バス、出町柳とは京都バスで数えきれないくらい通過しました。オープンカーブのちょっとした景勝地でした。防村は比良山武奈ヶ岳へ御殿山コースから登る際に、停留所近くの神社前をスタート地にして、準備を整えてから登ったものです。ただ残念ながらボンネットバスの時代が済んでからのことでした。

  2. 現役時代の江若ボンネットバスの貴重な写真を公開いただき、どうもありがとうございます。
    ’70年代前半、西面の谷から比良へ登山するときにこのバスのお世話になりました。湖西線や花折トンネルが開業・開通する以前のことで、花折峠は未舗装の狭い山道でした。
    夕方5時ごろに三条をでて途中までいく京都バスがあり、その便は、途中で細川行きの江若バス最終便と接続していました。
    日の暮れた花折峠や貫井でバスから降りて、ライトをつけて終点の細川に向けて走り去っていくバスの後姿には、国鉄ローカル線の最終列車のような使命感と哀愁が漂っていました。

    • takaginotamago様
      初めてのコメントを頂戴しました。数多あるサイトの中から、よくぞ見つけていただき、コメントも頂戴し、ありがとうございます。takaginotamago様は、まだ湖西線の開業前から、バスを利用されていたとのこと、登山歴も長いのですね。私が写し始めた時は、もう花折トンネルも出来ていました。夕方にも、京都バスと江若バスが連携して、乗り継ぎ客を運んでいたのですね。朝の乗り継ぎ状況は、本日、載せましたが、夕方にも行われていたこと、初めて知りました。まだ続けます。私も知らないことこと多々ありますので、またご教示ください。

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