ここらで ボンネットバス  近畿編 〈2〉

京阪バス(2) 滋賀

つぎは滋賀県下の京阪バスへ。大津駅の近くにあった大津営業所のボンネットバスは、昭和50年初頭には3台が在籍、ほかにも興味深いバスがいて、浜大津のバスターミナルへ何回か撮影に出かけたものでした(以下。昭和50年撮影)。浜大津をターミナルとして、3台のボンネットが活躍していた。ほとんどの時間帯、ボンネットバスが見られ、狭隘区間のある長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅の系統で使われ、ほかにも石山駅~曽束でも使われていた。「滋2い・888」昭和40年式いすゞBXD30 帝国ボデー

江若鉄道が廃止されてから、まだ6年しか経っていない浜大津のバスターミナル、湖西線はこの前年に開業していて、江若交通による湖西路の代替バス運行は完了していたが、それでも、各社のバスが頻繁に発着していて、ボンネットバスも日常的に見られた。「滋2い・886」 昭和40年式いすゞBXD30 川崎航空機ボデー、独立三枚窓の後部大津営業所内の「滋2い・886」大津駅の近くに所在し、旧駅舎も帰りに写しておく。現在、営業所は石山寺に移転している。「滋2い・887」 昭和40年式いすゞBXD30 帝国ボデー このバスが京都の定期観光バスとして奇跡の復活をすることになる。京阪三条行きのバスと並ぶ「滋2い・887」 江若鉄道の浜大津駅跡地に造られたバスターミナルは、まだ市街地再開発の前で、京阪浜大津駅の統合新駅も、スカイプラザ浜大津も、明日都浜大津も何もない時代だった。朝日ヶ丘住宅行きの「滋2い・888」 大津駅を経由して、名神大津IC近くまで大回りして終点に向かっていた。大津の86さんのお父上が、朝日ヶ丘住宅行きの最後の定期券利用者だったことは有名な話。

このほかにも大津では、京阪バスの興味深い中型バスが見られた。いずれも扉1ヵ所のツーマンカーで、なかにはボンネットより製造年代の古いバスも見られた。 左上から「滋2い・884」昭和40年式ふそうMR620、「滋2い・860」昭和38年式ふそうR480、「滋2い・858」昭和38年式ふそうR480

 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈2〉」への18件のフィードバック

  1. 先月に浜大津へ行きましたが、すっかり変わってしまいましたねえ。ゆっくり周辺を歩いて、バスも写すつもりだったのですが、あまりの暑さにあきらめました。
    ウチのBXD30を見てやってください。ナンバープレートは「滋2い・886」で、方向幕には「浜大津」の文字が入っています。細部に実車との違いは見られるものの、窓周りは川崎航空機製ボディの特徴を表しているようです。RE100と並べると、ずいぶん小さいですね。

    • 紫の1863様
      私も持ってます! まだ誰にも言っていませんが(そんな大げさなことない)、バスコレを密かに集めています。それも新品は買わずに、ヤフオクの格安品で探しています。この京阪BXD30も手に入れました。ほかの方が京阪バスの塗装にも言及されていますが、ボンネットはとくに鼻の部分が真っ赤になって、いい感じですね。

  2. 京阪のボンネットバスは子供のころの思い出のバスでした。総本家さんも書かれているように朝日が丘住宅前のバス停は家から50mほどのところにあり、小学生時代には習い事をしていた長等公園下まで毎週乗っていました。ボンネットバスがなくなった後この路線には小型のバスが配属されましたが、急坂を登って曲がる際によくエンストして運転手泣かせのバスでした。この路線は昭和50年代の終わりころに廃止されたと思います。その後特にバスがなくても困ることはなかったのですが、この年になると帰りの坂がきつくて、車を手放したら買い物に困るのではと懸念しています。
    大津市内のバスはどんどん便が減って、大津駅から石山駅間を走るバスは平日は1本だけで、土日はなくなりました。子供時代は湖岸経由、国道経由に加え、旧国道経由(旧東海道)というのがあってそれぞれ1時間に数本のバスが走っていました。今とは隔世の感があります。

    • 大津の86さま
      朝日ヶ丘住宅前バス停での、ただならぬ思い出を聞かせていただきました。“最後の定期券”以外にも、さまざまな思い出があるのですね。大津のバスもホント少なくなりました。浜大津なんか、ターミナルから続々と発車して行ったのに、いまの閑散ぶりは目を覆いたくなります。大津駅に降りると、いつも正面の駐車場にバスがいて、形式写真を撮るのに最適で、まず撮影してから行ったものです。ところで、「朝日ヶ丘」は、住居表示では「朝日が丘」ですね。「ケ」と「が」の違いは何なのでしょう。

      • 総本家青信号特派員様
        私の家のあたりの町名は、大津に引っ越してきた昭和32年ころは梅林町朝日が丘住宅で、バスの行き先もそのようになっていたようです。その後住宅が建ち、朝日ヶ丘町となりました。昭和42年ではなかったかと思いますが、住居表示が丁目がついたものになった時に、なぜか朝日が丘となりました。撮影された昭和50年には朝日が丘でしたが、バスの方向幕はそのままになっていたのですね。

  3. 総本家青信号特派員様
    これまた懐かしい浜大津や大津駅の写真をありがとうございます。
    昭和40年代初頭、叔父の家が開通したばかりの名神高速道路大津サービスエリア入口近くの本宮にあり、このバスを利用してよく通いました。
    脱線しますが、1967年に初めて北海道に行ったとき、札幌市内の北海道中央バスや洞爺方面の道南バスが赤と白の塗装で走っており、なんでこんなところに「京阪バス」がと思ってびっくりしました。今でも謎は解けていません。
    さらに脱線しますが、全国のバス会社の社名として例外を除いて、○○自動車、○○バス、○○交通、○○鉄道(電鉄)の4種類に大きく区別できると思っています。鉄道の付いた会社は近年分社したところも多いですが、本体の鉄道が廃線になってもそのまま社名を変更せずに残っている例も多く、「鉄道」という名称に愛着があるのか、信用を得たいのか、それとも商号の変更登記が面倒なのか考えてしまうことがあります。
    1967年4月13日の大津駅停車中の上り荷物専用列車です。

    • 更に脱線させて恐縮ですが…
      北海道中央バスや道南バスのカラーリング、確かに関西人にとっては京阪バスのパチモンに見えてしまいますね。北海道中央バスは正面の塗り分けや側面の飾り帯に違いがありますが、道南バスは全くと言っていいほど京阪バスに似ています。他にも定山渓鉄道、下北バス、東野交通、西では一畑電鉄も類似色でした。
      京阪バスと北海道中央バスが類似しているのは同時期にアメリカのグレイハウンドのデザイナーに委嘱したデザインだからだと聞きます。そうだとするとペンシイのGG1電機やS1蒸機で有名なレイモンド・ローウィの手になるものなのでしょうか?

      • 乙訓の老人の甥様
        早速のご教示有難うございます。道南バスと同じデザインでデザイナーに支払ったデザイン料はどうなったかも興味があります。グレイハウンドといえば車体の側面に描かれた犬のマスコットですが、帝産グループのバスにも同様のデザインがあります。これもデザインされたのでしょうか。小田急バスや奈良交通の鹿も気になるところです。

        • 快速つくばね様のおっしゃる通り、小生の地元、小田急バスも昔は側面にグレーハウンドのマークが記してありました。絵では無く、レリーフだったと思います。この犬は俊足で、速い犬は、70キロ以上で走るとか。それ故に快速をアピールするのに最適と、米国のグレーハウンド社で社名にまで、採用されたのでしょう。しかし長距離バスではない、市街運行主体の日本のバス会社が採用したのは、過剰性能(?)で、犬たちも困惑したのではないでしょうか!

        • 小田急バスも「わんわんバス」ですね。
          宮崎さまのおっしゃるように過剰性能(?)のためか、1969(昭和44)年から路線バスの犬マークは取り外されています。現在は貸切バスとリムジンバスのみに見られるレリーフ状のマークです。

    • 帝産グループは「犬のマークの帝産バス」をキャッチコピーにしているようですが、犬種もグレイハウンドと明言しています。「帝産Lady」という広報誌のNo.3の記事によると、創業者が訪米した際にグレイハウンド社のマークを「貰いうけたもの」との記述があります。

  4. 皆さま
    小生は勤めていた職業柄、脱線に与することはできませんが、中央バスと京阪バスの類似色に関して同じ感想を持たれたと知り、共感をもって恐る恐る参加させていただきます。小学校高学年の頃ですから1960年頃かと思いますが、買いたてのTVのニュースで札幌のメーデーを流していました。ニュースを見ていたわけではありませんでしたが、遊びながらふと見た画面に「京阪バス」が映っていたのです。当時はカーフェリーはありませんでしたし、皆様同様なぜ札幌に京阪バス?と頭が混乱したものでした。TVはまだ草創期で今のような旅番組も、ましてや現代のような検索機器もなく、かなりその気で調べないと情報を得ることができない時代でしたから、他社の類似色など知る由もありませんでした。只今は他社にもあったと知ってまた驚いています。

    • 皆様
      脱線(バスですから脱輪)させましたが、お陰様で長年の疑問が解決いたしました。デザイナーはレイモンド・ローウィかもしれないとのことですが、日本専売公社の「ピース」の外箱をデザインした方ですね。何処となく似ているような気がします。

    • 藤本様
      まさにご近所です。ボンネットバスの後に来たのがこのバスで、先のコメントで書かせてもらいましたが、坂の途中でよくエンストして、運転手がぶつぶつ言っていました。尚、この時代はここで折り返ししていて車掌がバックするのを誘導していました。その後折り返しをせずにそのまま名神の取り付け道路側に抜けるようになったのでワンマンになったのではと思います。
      ところで右端に写っているポストはまだ健在です。

  5. 快速つくばね様
    乙訓の老人の甥さま
    宮崎の繁幹さま
    1900生さま
    私をほったらかしにして(?)京阪バスの塗装論議、ありがとうございます。北海道のバス会社が、京阪のカラーを模倣したのは、よく聞く話ですが、こんなに奥深い話もあったのですね。雪のなかでの視認性もあって、とくに北海道で採用されたのかも知れません。昭和52年、札幌の北二条西3丁目の北海道中央バスです。正面の白縁取りが京阪とは異なりますが、これは「北」を表現したと言われています。現在では、すべて新塗装になり、このカラーも見られません。バスネタ、これからも続けますので、ぜひツッコミお願いいたします。

  6. 札幌続きで、その昭和52年、突然に出会ったボンネットバスを貼り付けます。塗装からして、北海道警の自家用バスで、当時でも珍しいトヨタDB系でした。北一条西4丁目

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