クローバー会が韓国の新聞に載りました

明けましておめでとうございます
今年もデジ青を宜しくお願い致します

昨年の12月11日、韓国の国際新聞にクローバー会の明知鉄道見学会での写真が掲載されました。

これについて説明致します。
私の法学部の後輩・朴明欽氏からの紹介で、彼の友人で東明大学情報社会学博士・髙ヨンサム教授が編集している連載記事「人生二毛作」シリーズに出て欲しい旨依頼されました。これは鉄道と関係の無い老後の人生を紹介する記事で、日本人が登場するのは初めてとのことでした。
その中で私の老後はDRFCクローバー会での友人関係が大きいと書きましたところ、鉄道趣味がない韓国人には理解できず、この説明に時間を費やしました。かつて会員有志と釜山にあるコレイルの基地を訪問した話や、日々のデジ青などの説明の中でこの写真を見せたところ掲載されたと言うことです。

この新聞記事をここで見せようか、ずいぶん悩みました。でも写真が使われたからには紹介しないといけないと思ったのと、一部の友人に聞いてみたところ「見たいので掲載しろ」と言われて反対がなかったので出すことにしました。あくまで鉄道主体の話ではなく私個人の話なのでつまらないかも知れませんがお許しください。

なお、韓国から送って来た記事の訳文をそのまま載せますが私の書いた原稿とはずいぶんちがう所がありますのでそれもご理解の上お読みください。

〈見出し〉
70代の日本人交流の生活で 活力 「韓国が好きで 200回も 訪れた」

田野城 喬さん(前列中央の赤いシャツ)が鉄道同好会活動の一環として日本の「明知鉄道」を見学し、記念撮影をしている。 写真の右側に立っているのは機関車の説明員だ。

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 青い電車と、丸物と、~京都市電烏丸線写真展から③

続いて烏丸線の写真展、あれこれ噺を、年内ギリギリまで載せていくことにします。

50年前の真展会場

「烏丸三条」電停の真ん前という、烏丸線ゆかりの会場で写真展ができたことは何よりの幸運でした。加えて、50年前の現地の様子を皆さんから寄せていただき、展示に花を添えることができました。この地の歴史をたどると、明治30年に京都で初めての電話交換局ができたことに始まります。大正15年には新しい京都中央電話局が竣工、その建物は背後の古風な建築で、いまは複合商業施設の新風館となり、手前のビルは新館として建てられ、50年前は、電電公社三条営業所となっていました。最初に見つけたのは、顧問の故・大西友三郎さんのネガから。「電電三条営業所」「烏丸三条」と文字情報も言うことなし。市電、クルマもいい位置に入っている。最初にNTTへ申し込みに行った際に、同志社出身の担当者に見せると、入社前の姿に驚いていて、すっかりフレンドリーな関係になった。

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 青い電車と、丸物と、~京都市電烏丸線写真展から②

年も押し詰まりましたが、烏丸線の先を急ぎます。二つ目の「丸物」、京都駅前にあった百貨店だけに、来場者の皆さんからも、「ありましたなぁ」の声が聞こえてきたのでした。昭和27年ごろに撮られたTさん撮影の写真にも、中央に丸物があった。もともとは土産物を販売する京都物産館として誕生した。写真の建物は大正15年に完成し、次第に百貨店としての業態を整えて行った。マークが、“物”をマルで囲んだもので、“マルブツ”が通称名、のちに商号となった。ポールの200形が旧の系統板を付けて、ボンネットの市バスと並走する。 続きを読む

 青い電車と、丸物と、~京都市電烏丸線写真展から①

京都市電烏丸線の写真展、多くの皆さんに来場いただき、いろいろな話をお伺いしました。まだその余韻に浸っています。なかには、初対面の方から“デジ青、見てまっせ”の声もあり、本欄が多くの皆さんに支えられていること、改めて感じています。

さて、写真展会場では“珍しい写真、見せてもらいました”の声をもらうのも、ひそかな楽しみでした。その一例が、表題の「青い電車」「丸物」でした。見学者の中心である中高年にとっては、小さい頃に、見たような、見たことがないような、かすかな記憶が、写真によって蘇ったことでしょう。なかでも、“色”や“文字”と言った、視覚にしっかり訴える要素は、より強烈なものだと感じました。

青い電車

▲  “こんな色、走ってましたんか!” あえて入場口の柱の目立つところに掲げただけに、皆さんから声を掛けられた。「見たことある」より「見たことない」が多かったようだ。京都市電2000形2600形は、昭和39年にデビューして、烏丸線などを走り始めた。ラッシュ時は連結市電ツーマン、閑散時は単行ワンマンカーとして使用するため、その識別、とくに初のワンマンカーとして、事前の料金の用意を促すため、スカイブルーに塗られた。 続きを読む

 車両のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈14〉

ナンバーの話②  「形式入りナンバー」

本シリーズ、前回の「ナンバーの話」では、50件以上のコメントを頂戴し、皆さんから寄せられた貴重なナンバーを楽しませていただきました。デジ青の双方向システムが遺憾なく発揮された例だと思います。投稿テーマは何でも自由ですが、やはり車両にまつわる話題は欠かせないものだと痛感しました。続いてナンバーの話、蒸機に取り付けられたナンバープレートの話です。形式・製造番号を表すナンバープレートは、いわば機関車の表札であり、とくに前面の煙室扉に取り付けられたナンバープレートは、蒸機のシンボルと言っても過言ではありません。国鉄の蒸機の場合、全国の各工場の鋳物作業場で、銅と錫の合金である砲金を木型に流し込んで製作されます。そのなかでも人気があるのは、戦前製のナンバープレートに見られる、下部に小さく「形式〇〇」と入ったプレートです。昭和13年ごろまでに製造されたプレートは、すべて形式入りでしたが、戦争で金属類の使用を抑えるため、形式入りの無いプレートへと変化していきます。その後、形式入りプレートも、工場入りした際に新しいプレートに付け替えられることもあり、撮影していた昭和40年代には形式入りの蒸機は少数になっていて、撮影したうちでは1割にも満たなかったと思います。身近な梅小路機関区で見た蒸機のなかで、ダントツの人気は、形式入りのプレートの若番号C575に尽きると思います。皆さんも、蒸機に限らず、ナンバープレートの思い出、お寄せください。C575の正面のナンバープレートには「形式 C57」の小さな刻印が入る。これが入るだけで、グッと品格が上がる気がする。プレートは、英数字の数によって左右長が異なり、C575は最小の4文字、形式入りなので天地はあるため、“名刺”比率の珍しいプレートだった。

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 車両のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈13〉

ナンバーの話 ①

続いて“37枚目”の別テーマに飛びます。今までの「駅」では、鉄道車両は脇役でしたが、やはり車両は欠かすことができません。37枚目のあれこれ、車両ナンバーの話です。われわれの習性として、車両で真っ先に見るのは、形式、製造番号のナンバーでしょう。数字の羅列ですが、得られる情報は無限にあり、趣味活動を深化させました。トップナンバーやラストナンバー、また切りのいい数字が写せると、内心ほくそ笑んだものです。同じ数字の並んだ“ゾロ目”のナンバーもありました。京阪や阪急でも“2222”や“3333”があり、割と身近なナンバーですが、これが蒸機となると、制式蒸機では、形式も含めて数字が並ぶのは、1並びと5並びしかあり得ず、実際にはC11 1、C11 11、C11 111、C55 5、C55 55と、5両しかありません。私はうち3両だけは写していました。初期の時代で、キズ付きのひどい写真ですが、見ていただきます。皆さんもゾロ目にこだわらず、ちょっと面白いナンバーが見つかれば、ぜひコメント・写真お願いいたします。

米子区のC11 1、入換用として、米子駅で黙々と働いていた。ごく当たり前のC11だが、昭和40年には植樹祭でお召列車を米子~境港で牽いた実績がある。やはり、1並びのナンバーが買われたたのだろうか。昭和46年に廃車になっている(昭和42年8月)。

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 都電も定点対比してみる 6 ~路面電車あれこれ噺 (27)

都電「高田馬場駅前」 今昔

少し間が空きましたが、最近、現況を撮影した都電跡の今昔対比を続けます。前回の新宿からふた駅目、高田馬場駅前です。面影橋方面から路線が延長され、高田馬場駅前まで伸びて来たのが昭和24年のことでした。系統は15系統(高田馬場駅前~茅場町)一本で、電停は一線のみの終端式で、乗降を終えると、もと来た道を戻って行きました。 昭和43(1968)年8月、東北・北海道へ向かう途中、丸一日を都電撮影に当てた。昭和43年度の都電廃止予定の系統を写すため、前々回の渋谷駅前に続いて高田馬場駅前に来て、電停付近の様子を、一枚だけカラーに収めた。いまでも覚えているのは、写していると、掃除をしていた高下駄を履いた寿司屋の主人から“どっちから来たんだい?”と聞かれた。初めて江戸っ子訛りを聞いた気がした。“京都からです”と答えると、ずいぶん驚いていた。都電を写す人間など、ほとんどいなかった。高田馬場駅前は、その後、大規模な再開発がされて、ロータリーが広げられて、街並みもすっかり変わってしまった。横断歩道を定点の目安に写してみたが、改めて当時の雑誌を見ると、停留場はもっと山手線、西武線に近く、もう少し手前(左手)かもしれない。

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  鉄道少年の時代に戻ってみる  〈8〉

開業直後の新幹線を写す

中学生の頃、鉄道少年の時代の思い出、あと一回載せます。先月になりますが、東海道新幹線が開業して60周年を迎え、JR東海のテレビCFが流れていました。開業は昭和39年10月1日、鉄道少年真っ盛りの時代でした。その翌週には、東京オリンピック開幕と、週替わりで日本が大きく進化を遂げて行くことを中学生も感じていました。

日本の鉄道を塗り替えた新幹線の出現は、各世代それぞれに思い出もあることでしょう。前回の「駅と高校生」ネタも、思わぬ方向に“飛び火”して、コメントで賑わいましたね。皆さんの思い出もお願いいたします。最初の日曜日、10月4日、10円で入場券を買い、さっそく新幹線京都駅のホームに立った。いままで試運転で遠目から見たことはあったが、眼の前で新幹線に接すると、さすがにデッカイというのが第一の印象だった。新大阪発東京行き超特急「ひかり8号」 N5編成

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈14〉

ホームにて④ 「ラッシュの主役 高校生」余話(2) 会津坂下

高校生と駅、あと一回だけ載せます。全国各地、高校生が乗り降りする駅はあまたありますが、私にとってのベストワンを選ぶとすれば、只見線会津坂下駅に尽きます。昭和46年2月、夜行列車で会津若松に着いて、7:47発、C11の牽く只見線の列車に乗りました。会津若松を出た時は、それほどの混雑ではなかったと記憶していますが、以後、各駅に停車するごとに、続々と高校生が乗り込んで来て、客車の通路まで、びっしりの高校生となりました。そして8:35、列車は会津坂下に到着、約6分の停車。すると超満員の車内から、高校生がごっそり下車、駅の本屋へ通じる構内通路はたちまち高校生で埋め尽くされた。ほぼ男子学生、真っ黒な集団には圧倒された。

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈13〉

ホームにて③ 「ラッシュの主役 高校生」余話

前回、ローカル線ラッシュ時の主役だった高校生のことに触れました。平日は、勤め人とほぼ同じ時間帯の高校生ですが、当時は、勤め人は週休2日制が普及する前で土曜日も出勤でしたが、土曜日の高校生は昼間まで。当時の時刻表を仔細に見ると、土曜日の昼に下校する高校生のために、北海道などでは特別なダイヤが設定されていました。日本全国、同一サービスを提供する国鉄ならではの心配りでした。

当時、日本一の赤字線と喧伝されていた根北線(斜里~越川)、左の時刻表のように、平日は、朝、夕方、晩の3本のみだが、赤枠のように、土曜日だけ網走発越川行き645Dが運転されていた。まさに、土曜日、授業を終えて根北沿線に帰る高校生向けに運転されていた列車だった。写真は、たまたま土曜日に訪れた網走駅に停車する同列車で、キハ22319単行と、北海道ではごく一般的な列車だった。快速つくばねさんは終点の越川まで乗られたとのことコメントを頂戴したが、私はここで見たキハ22が最後で、根北線は2年後に廃止になった(昭和43年、以下、時刻表も昭和43年基準)。

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈12〉

ホームにて③ ラッシュの主役 高校生

地方のラッシュ時、乗客の中心は、勤め人と高校生で、車内はいっときの満員状態となります。ところが、勤め人は、ホントに列車に乗らなくなりました。ことし、三陸鉄道で、朝8時台の中心駅へ向かう列車に乗る機会がありましたが、勤め人風の乗客はほぼゼロで、三陸地方ならではの事情があるとは言え、愕然としました。残る乗客はは高校生となりますが、高校生そのものも少子化の影響を受け、地方では高校の統廃合もあると言います。自転車では通えない列車通学生に対しては、学校専用のスクールバスがあったり、一人一台の親のクルマで送迎もあって、列車利用の減少に拍車をかけています。交換駅で対向の列車を写そうとすると、ホームで待つ高校生が見えます。なかでも女子高生には眼が向いたものでした。決して、その筋の興味はないのですが、やはりセーラー服など服装や、髪形、持ち物には、時代差、地域差があって、昭和ならではの思い出です。

名松線家城での交換、昔も今も、家城が唯一の交換駅で、キハ30系が入るぐらいだから、ラッシュ時は乗客が多かったのだろう。先日、名松線に乗ったところ、夕方の列車には、家城から一定数の高校生の乗車があって、同線では、いまでも高校生は重要な乗客のようだ(昭和45年)。

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈11〉

ホームにて② 朝夕のラッシュ時

前回は、ホームに入線する列車と乗客の組み合わせを見ていただきました。今回は、地方の駅でも見られた、朝夕のラッシュ時の様子です。今でも、地方へ行っても、線区によっては、ラッシュ時は一定の利用があるようですが、昭和の時代のラッシュ時は、地方でも破格の賑わいがありました。今と較べると、そのあと、地方の過疎化、少子化、あるいはクルマ化が進んだことを、如実に語っている光景に思えます。18:45の西鹿児島駅、時刻からして、ちょうど仕事終わりの乗客が待つ4番ホームに、鹿児島発川内行き226レが、C61 33[鹿]が客車7両を牽いて入線する。蒸機の牽く客車編成、ホームで待つ多くの乗客、まさに昭和の時代、本線級の中核駅ならではの光景だ。いま駅は、鹿児島中央と名を改めて、川内まではJRとして残った鹿児島本線だが、いまはどの程度の輸送量なのだろうか(昭和45年)。

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈10〉

ホームにて① 入線列車を撮る

改札口を入ってホームで列車を待つ。やがて乗車する列車が向こうから姿を現わす。ホーム入線の瞬間を、乗客の好奇の眼も気にせず撮る。鉄道ファンと言う人種の生まれながらの習性でしょうか。65年前に初めて撮った鉄道写真も、ホームに入線する列車でした。今でも機会があると撮ります。ただホームですから、列車だけ撮ることができず、乗客にジャマされます。なら、ジャマする人間も一緒に入れて撮ってしまえが、私の撮影スタイルでした。その方が、人の服装などで、時代だけでなく、地域性、季節感を表現できるのではないかと思っています。近頃は、肖像権とやらで、なかなか大手を振って撮影ができないだけに、大らかな昭和の時代がなおさら懐かしくなります。「水のきれいな日本海へ」に誘われて、夏休みともなれば、綾部駅ホームは大賑わい。京都方面から乗って来た子供たちは、D51の牽く西舞鶴行きに乗り換える。これからの水遊びを楽しみに嬉々として列車に乗り込んだ。遠い日の夏休みの思い出だ(綾部、昭和45年)。

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈9〉

駅名標②  終着駅

駅名標の写真を投稿したのが、一日余り前のこと、この間に、速攻の紫の1863さんはじめ、多くの方から、駅名標にまつわる思い出の写真を寄せていただき、改めて、駅名標への関心の高さを思いました。なかでも、西村さん、奈良の駅研さんから、終着駅の駅名標を載せていただきました。今回紹介しようとするのも、「終着駅」てす。当時の駅名標の場合、下部には、両端の駅名が書かれていますが、終着駅の場合は、どちらか一方が白地のままで、“これ以上は行けない!”感を無言で表現しています。ここが白いだけで、なんとも感慨深さを覚えたのではないでしょうか。さらに終着駅は、その後の変転があります。延長されて、もう一方に駅名が記入されることもあるでしょうが、大部分は、廃止の運命をたどり、終着駅としての歴史を閉じたものです。

 

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈8〉

駅名標 ①

駅の施設・表示類のなかで、必須アイテムは、やはり駅名標だと思います。考えたら、駅名標は、鉄道が創業した時から、乗客に駅名を伝える、重要な役目を負って来ました。家であれば、表札のようなもので、旅先の駅で、駅名標を見て、感慨深い思いを持って、下車したものです。いまは、JR各社、私鉄各社がさまざまなデザインで独自の駅名標を開発していますが、われわれの時代は、ホームにある駅名標は、鳥居型と呼ばれる駅名標一本でした。この鳥居型は、屋根の無い、ホーム端に置かれることが多く、つまり、列車編成の端部にも当たり、駅名標と蒸機が一体になった光景をよく見かけたものです。加太越えの補機の仕業を終えたD51が、ゆっくり側線に入って来た。機関士は決められた点検を終えると、手すりをつかまって下りて来た。次の戻りの補機運用まで、蒸機、機関士とも、しばしの休みに入る(昭和47年4月)。

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 都電も定点対比してみる 5 ~路面電車あれこれ噺 (26)

都電「新宿駅前」 今昔

つぎは「新宿駅前」へ、とは言うものの、新宿駅前に都電の姿はなく、少し歩いた靖国通り、歌舞伎町の歓迎アーチの真ん前に電停がありました。ここは2面3線の終端式で、広い道路の中央にゆったりとあり、前記の通過式の渋谷駅前とは対照的でした。ここには12系統(新宿駅前~両国駅前)、13系統(新宿駅前~水天宮前)が発着して前年までは11系統(新宿駅前~月島)も発着、さらに、西側の国鉄ガードをくぐると、青梅街道の「新宿駅前」から14系統の荻窪駅前行きも発着していて、新宿には、11、12、13、14と並びの系統番号が揃っていましたが、撮影時点で残っていた12・13系統は昭和45年3月に廃止されます。世界の歓楽街「歌舞伎町」の真ん前に位置した都電「新宿駅前」、国鉄新宿駅からは少し歩くが、昭和27年に開業した西武鉄道新宿駅は真ん前となった。開業当時は、新宿駅に隣接した新宿通りにあり、昭和24年の靖国通りの拡幅に合わせて、新ルートに変更された。昭和28年には角筈で発着していた路線改良中の13系統も、新宿駅前に移転し、11、12、13の3系統が発着する「新宿駅前」が完成した(以下、昭和44年9月)。▲▲「歌舞伎町」の交通標識が見える、都電「新宿駅前」の現在。

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 都電も定点対比してみる 4 ~路面電車あれこれ噺 (25)

「渋谷駅前」の今昔

延々のバスシリーズをいったん離れて、とれたての都電対比としました。毎年、趣味者の会合で渋谷へ行く用事があり、昨日も、会合の前に、56年前の都電時代との対比を試みました。その昔、都電の「渋谷駅前」は、現在のハチ公口にあって、スリバチ地形の底の狭隘な終端式のため、つねに渋滞していたと言います。そこで、昭和32年に渋谷駅東口に新しい都電ターミナルを造ることになりました。渋谷に下りて来る二つの坂、金王坂と宮益坂を活用して、下りと上りに分けた、ループ式の一方運転としました。電車は金王坂を下って「渋谷駅前」に着き、折り返すことなく、スルー運転で宮益坂を上って、青山方面に向かいました。渋谷のスリバチ状の地形をうまく活用したループ線の新設となりました(都電時代はすべて昭和43年8月)。

宮益坂を上がって行く都電、9系統の新佃島行き。9系統は浜町中ノ橋が終点だが、段落ちするため、途中の新佃島行きなどがあった。56年前の宮益坂にはコンクリートがむき出しの無機質なビルが続いていた。▲▲現在の宮益坂、56年前の右手に山手線のウグイス色の101系、「TOKYU」の看板が見える東急百貨店の位置から判断して、宮益坂の中間に今もある、渋谷郵便局前の横断歩道に定点を定めた。いまはケヤキ並木が続いて、旧景より道幅が狭くなった印象がある。

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探偵団の皆さん!教えて下さい

給水塔の話はおもしろかったですね。
久しぶりに全員参加でワイワイやれて良かったです。

それならばと、大阪通信員さんからご下命がありましたので成り代わりまして探偵さんに調査を依頼致します。

と言いますのは、先日通信員さんのご自宅へ訪問致しましたところ、奥座敷に9㎜ゲージの複線を引いて、DF50の引く旧型客車を走らせておられました。その時「ぶどう色の旧客3等車でアルミサッシというのはあるだろうか?あれば作って走らせたいが、もしなければ偽物(最近の用語ではフェイク)だ!と罵倒されるのは貯金・勉強・親孝行を座右の銘にしてきた老身には堪えられない」と仰ってました。

そこで探偵の皆様にお願いです。
通信員さんの安らかな老後を保障するためにも「アルミサッシを付けたぶどう色の旧客3等車」の写真があるならば見せてあげてください。
私のアルバムには旧2等車はあります。3等車もありますがモノクロのため青か茶色か判然としません。

なお、旧客の青色化は昭和39年から始まっていますので、それ以前に撮影されたなら茶色(ぶどう色)です。

宜しくお願い致します。

 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈14〉

江若交通⑨ ボンネットバスの最終日(2)

昭和57年2月15日、江若交通ボンネットバス最後の一台の最終日てす。もうイヤッと言うほど撮って来ましたが、最後をどうしても見届けたく、平日でしたが、仕事を放り投げて、堅田入りとなりました。しつこく続けて来た本稿の最後として見ていただきます。最終日の若狭街道を行く、最終日のボンネットバス、この日も湖西地方は早朝に雪に見舞われた。雪をかぶった樹林のなか、ヘッドマークを掲げて特別運転中の姿を。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈12〉

江若交通⑦ 和邇途中線(2)

江若交通のボンネット路線のひとつ、和邇途中線をもう一回、載せます。

県道311号(途中志賀線)を走って来た途中行きのバスは、「出口」付近から旧道に入って、集落のある「下龍華」へ向かう。まさに“ボンネットバスの里”と呼ぶにふさわしい風景が続いていた(昭和55、56年撮影)。

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