青い瞬間(とき) -Blue Momentを追いかけて -6-

京都鉄道博物館では、一年に数回、夜間開放の「ナイトミュージアム」が行われ、梅小路蒸気機関車庫も公開されて、自由に撮影することができました。ところが、最近は様子が変わって来て、人数限定でカメラメーカーの新製品デモ・撮影会となったり、団体主催による有料撮影会になってしまいました。“有料”がいまやノーマルになってしまった鉄道現場の見学・撮影会ですが、入館料金だけで誰でも気軽に入れた以前が思い出されます。博物館の展望ロビーから、Blue Momentに包まれた、ライトアップされたラウンドハウスを見る。

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 亀山駅から歩いて ある碑を見に行く

9月4日に行われたクローバー会の三岐鉄道ツアー、孫のような現役生も参加して、三世代相当の参加者が乗り歩きを楽しみました(その様子については、伝言板〈会員限定〉に奈良の駅名研究家さんからの報告があります)。終わってからは、桑名駅前で年寄り限定の懇親会を行い、参加者は20時ごろの列車で帰宅しましたが、私だけは一泊して、翌日、ある目的を持って、JR亀山駅に降り立ちました。紀勢本線に沿って、鈴鹿川を渡り、歩くこと20分で、どこでも見られる、地方の集落のなかにある、中村公民館という、地域の集会所前に着きました。

 

紀勢本線の始発、亀山を出て、鈴鹿川を渡り、下庄トンネルに入る手前をJR東海のキハ25が行く。今から77年前の終戦直前、この付近を走っていた亀山発鳥羽行き列車に向けて米軍機による銃撃事件があった。

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 “ナメクジ”に 魅せられる  (6)

貨物列車を牽く“ナメクジ”

本シリーズも最後となりました。今回は、“ナメクジ”が本領を発揮した貨物列車を牽くシーンです。旅客を牽いた前回と比べて、さすがに多くの写真を撮っていました。いまの動態D51は旅客ばかり牽いていますが、やはり、D51は貨物を牽く機関車だったと改めて思います。その中の“ナメクジ”ですが、全国分布は、前回に記したとおり、東北・北海道に多く見られました。機構上、集煙装置を取り付けられないことと、第一動輪の軸重が少し軽く、勾配区間ではあまり好まれなかったようですが、それでも、全国的に“ナメクジ”の牽く貨物列車が見られました。最終回に当たり、改めて“ナメクジ”と標準型の差異を並べて見た。左:D51 61[尻] 初期グループの半流線形、1~85、91~100の95両がいた。右:D51 164[戸] 給水温メ器を煙突前に置いた、“デゴイチ”の代名詞、日本の蒸機の代表的スタイル。これ以外に戦時タイプの1001~1161の161両がある。両者を比べると、“ナメクジ”は煙室端面にRがあるが、標準型は角型、煙室扉の取っ手は、“ナメクジ”は両側の2個、標準型は片側1個。

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沖中さんの置き土産

“乙訓の老人”こと沖中忠順先輩が西方への旅に発たれてはや3ヶ月になろうとしています。今でも電話が掛かってきて「おい、話があるから四条大宮まで出てきてくれ!」と言う声が耳に響く気がします。そんな頃、四十九日・納骨式が開かれることになり、会長と共にお呼び頂きました。
ところで沖中さんが亡くなって驚いた事(不謹慎ながら嬉しいこと)がありました。
それは、会いたかった方にお目にかかれたことです。
お一人は、このホームページでたびたびコメントを下さっている「乙訓の老人の甥」さん、今一人は当会創立者のお一人の「重澤崇」先輩です。

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 “ナメクジ”に 魅せられる  (5)

旅客列車を牽く“ナメクジ”

昨日からクローバー会写真展「鉄路輝く」が開かれています。私も初日から受付をさせてもらいましたが、東京、京都、大阪から著名な鉄道ファンや、デジ青でお馴染みのコメンテーターの皆さんに来場いただきました。3年半ぶりに行われた写真展では、同席した会員相互の親睦だけでなく、外部の皆さんとも交流できるのは、何より写真展の魅力です。来場者との話は、デジ青にも及び、やはりクローバー会活動の源泉を担っていることも再認識しました。

さて、“ナメクジ”のこと進めます。これからは、客貨列車を牽く“ナメクジ”を見て行きます。改めて“ナメクジ”の地域別の配置を調べてみました。昭和42年(55年前)の配置を見ますと、“ナメクジ”95両のうち、廃車になったのは4両だけ、なんと91両が現役で走っていたのです。地域別にみると、北海道33両、東北30両、中部・近畿13両、九州15両となり、北海道・東北で大半を占めています。なぜ、こんな偏りがあるのでしょうか。考えられるものとして、“ナメクジ”製造直後の配置には北海道が多く、その後も道内を転々として、海を渡らなければならない北海道では蒸機も封じ込めの例があったこと、“ナメクジ”は構造上、集煙装置を取り付けられず、北海道には集煙装置の使用線区が無かったことなどが挙げられます。ただ、貨物を牽く“ナメクジ”は多く撮ったものの、旅客列車に限定すると極めて少数です。

雪に覆われたニセコ・アンヌプリを背景に上目名の勾配を上がって行くD51 64[長] C62重連「ていね」「ニセコ」の先頭が時々D51に差し替えられてガックリきたと聞くことがある。それがもし“ナメクジ”だったら、C622先頭より価値があっただろう(上目名~目名、昭和46年3月)。

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 “ナメクジ”に 魅せられる  (4)

これも“ナメクジ” 変形機のいろいろ

“ナメクジ”95両のうち、ほかとは異なる外観をした機体もいました。前号の長鉄式デフの95号も含まれるかもしれませんが、今回は、デフなしナメクジと、標準型になったナメクジという珍品です。

吹田第一機関区のデフなしナメクジ、D51 78 吹田一区のD51の役目は、おもに吹田操車場での入換え。付近を電車で通ると、はてしなく広がる操車場のあちこちにD51の煙が立ち上っていたものだ。何十両も連結した貨車編成を、ハンプへ押し上げて突放し、係員がデッキに飛び乗り、前後動を繰り返していた。係員の立ち位置の確保と見通しを良くするため、思い切ってデフを取り去ったもの(梅小路、昭和41年10月)。

 

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 “ナメクジ”に 魅せられる  (3)

形式写真を見直す

先般の鉄道ピクトリアル「D51」特集で、改めて思ったのは、形式写真の美しさでした。小さいころ、車両だけをきっちり写した形式写真にも憧れを持ちました。ピク蒸機特集に載った、形式写真の第一人者、西尾克三郎さんの写真を飽かずに眺めたものでした。自分でも形式写真を撮りたいと思うようになり、フィルム現像を覚えたり、ブロニー判のカメラを買ったりしたものでした。周囲に邪魔がなく、ロッドが降りて、下回りにも光線が当たり、公式側を3:7あたりで撮った、形式写真の条件を満たす写真の美しさを改めて思ったものでした。こんな好条件で撮れるのは、万にひとつぐらいですが、それだけに、近い条件で撮れた時の喜びは大きく、現在では、個人レベルで、現業部門で形式写真を撮ることなど、不可能になっただけに、余計にその価値を感じます。

▲ D51 25[福] 近くの山陰本線にも“ナメクジ”がいた。福知山機関区にD5125、D5166の2両がいて、貨物を牽いている姿が見られた。66号は米手さんもコメント欄に寄せていただいた。もう1両の25号は、で、正面に形式入りナンバープレートを付けた白眉の“ナメクジ”。「形式D51」と小さく入るだけで、なんとも格が上がったように見える。私の写した“ナメクジ”のなかで、形式入りはあと1両、出水区のD5194だけだった。梅小路区に配置の時代もあり、その時は東海道本線で貨物を牽いていた(福知山区、昭和42年10月)。

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 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ⑥

昭和45(1970)年8月13日 ポールからパンタへ

“ほぼ”シリーズに戻ります。開業以来、ポールで走っていた京阪大津線(京津線・石坂線)の電車が、いっせいにパンタ化されることになり、その最期の姿を写すため、この日、大谷と浜大津へ向かいました。同線にいた80、260、300、350形は、パンタの準備工事が進められ、8月22日から全車パンタとなります。ただ一両生き残った「びわこ」号63号には、もともとパンタ・ポール両方が付いていて、そのまま可能かと思われましたが、同時に行われたATS工事から除外され、唯一廃車となりました。

最後のポール姿を見せて、80形が浜大津の交差点を曲がって行く。浜大津では前年の秋に江若鉄道が廃止になっていて、ターミナルの再開発工事が始まったばかり。まだ夏休みの最中で、琵琶湖の水泳帰りの客で電車も超満員で発車して行く。周りもバスだらけで、右端の近江バス(?)の後部行き先窓には「急行 木之本」と出ている。木之本と言えば、琵琶湖の反対側だ。こんな長距離のバスが走っていたとは驚き。

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 “ナメクジ”に 魅せられる  (2)

(2) 一桁ナンバーの潔さ

D51の製造番号は、ほとんどが3桁、または4桁です。形式の51も入れると、5桁、6桁の数字がナンバープレートに並び、ちょっと煩雑な印象です。ところが、この“ナメクジ”、なかでも1~9の一桁番号のナンバプレートは、何ともコンパクトでシンプル、その潔さに魅せられます。私は、1~9の一桁ナンバーのうち、滝川区で撮り逃がした3号機を除いて、写真に収めることができました。

常紋越えで25‰勾配に挑み、迫り来る一桁ナンバー機 D51 6 大きな煙室に、小さいナンバープレート、これが正面から見る、D51若番機の魅力。

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 “ナメクジ”に 魅せられる  ⑴

ナメクジと言っても、少し前にネットニュースを賑わした餃子チェーン店のナメクジ騒ぎではありませんよ。ご存じのとおり、D51蒸気機関車の一次形、愛称“ナメクジ”のことです。

蒸気機関車の代名詞ともいうべきD51は、1936年から9年間で1115両が製造され、単一形式としては最多数となる蒸機だが、初期グループ(1~85、91~100)の95両は、給水温メ器を煙突の後方の缶胴の上に置き、煙突から、砂箱、蒸気溜までを一体のカバーで覆う半流線型で、“ナメクジ”の愛称が古くから定着している(筑豊本線中間付近、昭和44年3月)。

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 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ③

昭和44(1969)年7月28日 真夏の宮津線、加悦鉄道合宿 (1)

われわれのDRFC時代、“夏の狂化合宿”は、7月、8月の2回に渡って実施していました。7月は近距離のところで実施、この年は、7月28日から、二泊三日で宮津線、加悦鉄道で行われる予定でした。ところが、あまりの炎天下、劣悪な合宿環境に耐え切れず、参加者全員が一泊しただけで途中で敗走するという、前代未聞の過酷な合宿になりました。

とにかく暑かったこと以外に、合宿参加メンバーも記憶がなく、思い出も残っていない。ただ会誌には参加記が残っていて、すこし様子が分かった。第一日目の集合地は西舞鶴で、夏季の水泳シーズンに運転されていた「はしだてビーチ」を撮るのが目的だった。「はしだてビーチ」は、以前にも本欄で紹介したように、寝台急行「音戸」の“ヒルネ”間合い利用で、編成のうち7両を座席に転換して、京都~天橋立で臨時急行として、昭和42年から運転されていた。「涼しい列車で水のきれいな日本海へ」がウリだった。西舞鶴からは、全国でもここだけの9600先頭の急行列車となる。

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 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ②

昭和45(1970)年7月24日 最後の「びわこ」を撮る

京阪大津線を走っていた「びわこ」号60形のうち最後まで残った63号が、大津線全車のパンタ化により、引退することになり、この日、記念の貸切電車が京津線、石坂線で運転されました。日本最初の連接車、昭和9年にデビューし、天満橋~浜大津での活躍を始め、数々の伝説を残してきた「びわこ」60形61~63でした。しかし、次第に活動の場が狭められ、62号が昭和42年12月、61号が昭和43年12月に廃車になり、残るは63号のみになっていました。この1両も、ポール集電(スライダー式)からパンタ集電に改められるのを機に廃車されることになりました。この日は、鉄道友の会の貸切電車として、久しぶりに京津線、石坂線を走ることになったもの、夏休み期間中でBOXでの情報交換も得られない時期でしたが、例によって大西顧問から、詳細な情報を入手し、まずは三条通で待ち構えました。蹴上を通過して、専用軌道へ入って行く臨時の「びわこ」63号、当日は、錦織13:52→(回送)14:33三条14:40→15:05浜大津15:08→15:33三条15:40→16:16(回送)錦織のダイヤで運転された。 続きを読む

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ①

「50年前の同月同日シリーズ」をことし冬に投稿しましたが、予想どおり途中で挫折してしまいました。やはり「50年後の同じ日に投稿する」制限を加えると、その価値は認めるものの、書き手としては、相当な重荷となって、いつの間にやら中断してしまいます。考えるに、48年前であろうと53年前であろうと、今となっては大した問題ではなく、毎日更新をウリとする“デジ青”で価値があるのは「同月同日」の部分だと分かりました。そこで「ほぼ50年前」と看板を改めて、少し気分をラクにして「同月同日」シリーズを適宜、載せて行きます。

昭和43(1968)年7月22日 灼熱のなかの大阪市電

京都市電はあれほど撮っているのに、近くの大阪や神戸の市電はほとんど撮っていません。駅ターミナルへ行くことはあっても、市電が走っている街なかへ出掛けることもありませんでした。それが大阪万博を前に、市電がつぎつぎに廃止されて、他所の街ながら、気がかりになって来ました。

この日の本来の目的は、城東貨物線の蛇草信号場へD52を撮りに行くことで、初めて大阪のミナミへ足を踏み入れて、「天王寺西門前」へ来た。市電上町線が走る谷町筋と、市電天王寺線の走る国道25号線が交差するところで、現在の「四天王寺前」交差点である。写真は、交差点東北から、上町線を見たところ、この左手奥が阿部野橋(天王寺駅前)となる。左手には、信号塔のあるのが分かる。ここで、阿部野橋発の1号系統が大国町・四ツ橋筋へ向かって左折するため設けられている。谷町筋はこの直後に倍以上に拡幅され、今では全く面影は残っていないが、「エコー歌謡学院」という看板が見える。ここは、松山恵子や藤島武雄を生み育てた、大阪の名門の歌謡学院だったそうな。

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京都市バス201系統 50年~祇園囃子を聞きながら

京都に祇園囃子が戻ってきました。昨年、一昨年は、祇園祭の巡行は中止、3年ぶりに囃子を耳にしました。京都の人間は、やっぱり心が浮き立ちます。私も昨日、写真展見学のついでに、四条通へ行ってきました。

高齢者は、無理やり市電と結び付けようとしますが、満員の通行人のうち、市電を知っている世代は皆無に近いほど、若い人たちが多いのに驚きます。市電四条線が無くなったのは昭和47(1972)年1月ですから、ちょうど50年になるわけです。代わりに走り始めたのが京都市バスで、市電の経路に準じた、系統番号200番台の代替バスです。その代表が、市電1号系統の代替バスとなる201号系統です。

祇園祭巡行でつねに先頭を行く長刀鉾の横を走る、京都市バス201号系統。みぶ~千本今出川~百万遍~祇園~壬生と、京都の中心部、千本、今出川、東大路、四条通を循環する。市電の1号系統の代替バスとして走り始めて、ことしで50周年となる。市電廃止時に多くの代替バスが走り始めたが、この間、一度も経路が変わらず、京都の中心部を走り続ける、市バスの代表的な系統となった。

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 駅撮り一時間 〈10〉

昭和47(1972)年2月16日 新大阪駅

新大阪を通過する、下り新快速の西明石行き。設定当初の新快速は、京都~西明石の運転で、昭和46年4月に草津まで延長された。当初の停車駅は大阪、三ノ宮、明石で、新幹線と接続する新大阪、神戸市の代表駅、神戸も無視、あくまで京阪神の中心駅の直結輸送を目的とした。京都~大阪の所要は、特急と遜色のない32分運転だった。

大阪駅で優等列車を写したあと、新大阪へ移動しました。翌月の昭和47年3月改正による新幹線岡山開業に伴い、新幹線接続は新大阪から岡山に移り、新大阪発着の優等列車は、大幅な改廃が実施されることになります。

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 駅撮り一時間 〈9〉

昭和47(1972)年2月16日 大阪駅

581系の特急「つばめ」が大阪駅に4番ホームに到着し、11:37に発車する。「つばめ」は昭和40年10月改正で151系から481系に変わり、さらに昭和43年10月改正で581系に置き換えられた。名古屋~熊本の昼行運転なので車内は座席として使用された。

雑事に追われて、私も投稿ができていませんでした。もちろん毎日閲覧はしていますが、最近のコメントを見ても、8年前の投稿に対して、岩手県にお住いの方から地元ならではの書き込みがありました。検索機能を使って、過去の投稿にも多くの閲覧があることが分かります。「デジ青」が巨大なデータベースに育っていることを痛感しますが、それを継承して行くためには、とにかく「写して、書いて、投稿する」しかないのです。もう停滞はできません。

少し前に昭和40年の大阪駅の「駅撮り」を載せました。それから、7年後に、大阪駅、新大阪駅で、一時間程度の駅撮りをしました。この7年間、国鉄も大きく変わり、その象徴は新幹線の延伸でしょう。昭和40年当時は新大阪まで、その後、山陽新幹線の工事が進捗し、来たる昭和47年3月改正では、岡山まで開業します。新幹線接続も、新大阪から岡山へと移り、ダイヤ改正が実施されます。変動のある列車を求めての駅撮りでした。

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 ありがとうございました 沖中忠順さん 〈2〉

「デジ青」での沖中さんの活動の足跡を引き続き見て行きます。人生の糧として、元気にデジ青投稿を続けて来られた沖中さんですが、身体に変調を来たされるようになって来ました。外出も少なくなり、キーボードに向かう気力もなくなり、沖中さん自身の投稿は、2017年2月をもって途絶えることになります。

こんな時、「鉄道介護士」を名乗り、敢然と沖中さんへ救いの手を差し伸べたのが米手作市さんなのです。それまでも、東にデジタル難民がいれば、琵琶湖畔のマンションまで行って訪問介護し、西に投稿をさぼっている会員がいれば、大阪日本橋の歓楽街まで行って、尻を叩いて叱咤激励するなど、東奔西走の介護活動をされていましたが、乙訓地方にも差し伸べられたのです。さらに「こんなモンありまっせ」シリーズや、長期連載「昭和の電車 改訂版」シリーズなど、会の外においても、介護の成果を発表されて来られました。このような背景をもとに、「鉄道、つれづれ草」シリーズが始まったのです。以降、いくつかのテーマに分かれて連載されました。冒頭に当たっての、マイテさんの言葉をスクリーンショットでお見せします。沖中さんの個展「ドイツの街角に市電」で来場者に説明される。

いくつかの記事を見て行くことにしました。リンクもありますので記事を見てください。

「鉄道、つれづれ草-“乙訓の老人”からのお願い」◎1981年に廃止された福井鉄道南越線の写真が載せられています。最初は米手さんも疑心暗鬼で出されたのですが、沿線近くで青春時代を送られたマルーンさんや紫の1863さんから、詳細な説明が入り、キャプションも完成しました。私としては、以前に廃線跡を訪ねことがあり、粟田部駅の現役時代の写真もあって、今昔対比をすることができました。鉄道、つれづれ草ー“乙訓の長老”からのお願い その3 | DRFC-OB デジタル青信号

「鉄道、つれづれ草 -吉川文夫氏作品編」◎沖中さんと同じく熱烈な電車ファンとして名高い吉川文夫さん(故人)とも親交がありました。私も吉川さんが関西に来られると、一緒に酒席に入れてもらうこともありました。吉川さんと沖中さんは、写真交換が長く続き、多くの写真がストックされていました。そんな吉川さんから送られてきた、秋葉線など、貴重な写真をまとめたもの。鉄道、つれづれ草 ー吉川文夫氏作品編ー | DRFC-OB デジタル青信号

「乙訓の老人 鉄道、つれづれ草 〈三八豪雪のこと〉」◎三八豪雪とは、昭和38年に北陸地方での記録的豪雪のこと、北陸本線は長期間不通になり、閉じ込められた列車の救出劇などがニュースになりました。沖中さんはちょうど富山の勤務時代で、目の当たりにした豪雪の様子を写真で伝えています。さらに湯口徹さんらも迎えて、記録を続けます。乙訓の老人 鉄道、つれづれ草 《三八豪雪のこと》 | DRFC-OB デジタル青信号

いっぽう私のほうも、沖中さんの写真・原稿を何回か発表しました。これは“介護”と言うより、“これ、載せといてんか”と頼まれた、原稿転載の類いです。

「◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧」◎“た~ちゃん”とは、沖中さんの幼名です。このシリーズは、沖中さんが業界紙に載せられた「路面電車から街づくりを考える」の再録です。京電の歴史から、欧米のLRTまで、沖中さんの幅広い蘊蓄が満載です。再録に当たっては、同じくクローバー会会員の故・大西友三郎さんの資料、カラーも併催しました。◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑧ | DRFC-OB デジタル青信号

「◆ た~ちゃんの電車めぐり ③和歌山電気軌道」◎沖中さんから託された写真の中からテーマを設定して、連載を始めます。これは、昭和32年12月、翌33年5月に訪れた和歌山地方の私鉄です。ここに載せられた和歌山電気軌道は、見たこともなく、沖中さんの撮られた鮮明な写真に、ため息の連続でした。湯口さんからスキャンの技術を褒められたのも、嬉しいことでした。◆ た~ちゃんの電車めぐり ③和歌山電気軌道 | DRFC-OB デジタル青信号

最後に、沖中さんの写真、資料の発表、継承に尽力いただいた米手さん、最後の介護活動を伝える、一節を紹介しましょう。

 ありがとうございました 沖中忠順さん 〈1〉

沖中忠順さんのご逝去に当たり、当掲示板でも、会内外の皆さまから、沖中さんを悼むコメントを頂戴しております。会を代表して、皆様に御礼を申し上げます。先日、ぶんしゅうさんと、ご自宅へ弔問した際にも、デジ青コメントのコピーをご遺族へお渡ししました。“こんなに皆から慕われていたとは‥”と涙ぐんでおられました。当掲示板でも、引き続き生前のご功績を伝えていきますが、まず当掲示板での沖中さんの活動ぶりから振り返ってみたいと思います。

沖中さんは、生まれながらの大の電車好き、話好きでした。そして、何より「書く」ことが大好きな人でした。小学校の頃、学級新聞の担当になり、子ども記者としても活動され、書くことの楽しさに目覚めたと述懐されていました。当(新)掲示板でも、鉄道の話なら何でもアリ~と始めたのが2008年、沖中さんが積極的に投稿を続けられたのも、当然の成り行きでした。沖中さんのハンドルネーム「乙訓の老人」で、掲示板を検索すると約150件の投稿がありました。

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 これが65年前、昭和30年の多度津・琴平〈下〉

山科の人間国宝さんから提供していただきました

多度津機関区・工場を撮影後、長老は土讃線琴平~塩入で走行中の列車を撮影されます。その写真を漫然と眺めていたのですが、よく見ると、線路のカーブ具合、背景の山容から、われわれが、琴平駅からタクシーに乗って行った撮影地と同じなのです。65年前の夏、長老はここまで歩いて来られたのでしょうか。改めて、その並外れた行動力に驚いた次第です(以下、昭和30年8月3日)。

C58 295〔知〕の牽く、高松桟橋発窪川行きの121レ、給水温め器や前梁に縁取りがあって、調べると昭和28年に四国国体でお召列車を牽いていた。左下で手を振る少女がアクセント。 ▲▲一週間前、琴平~塩入で撮影した上り「南風16号」、当日、一年ぶりに土讃線高知以東を走る2000系DC、ツアー列車「Remember2000」を撮るために、タクシー2台に分乗してやって来た。まさか、この場所が、山科の人間国宝さんが。昭和30年に撮られた場所と同じだったとは、知る由も無かった。

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 これが65年前、昭和30年の多度津・琴平〈上〉

山科の人間国宝さんから提供していただきました

クローバー会の多度津・琴平ツアー、好天に恵まれて、マスク以外は何の制限もなく、みんなで思い切り楽しみました。お世話になったブギウギさん、77-タツさんには改めて御礼申し上げます。本欄でも、参加の皆さんから当日や前後の行動記録が綴られています。私は、この歳に相応しく、過去の思い出でもと思ったものの、四国には縁がなく、鉄道に接したのは、今世紀に入ってからという奥手です。そこで、一計を案じて、山科の人間国宝様にご登場いただくことにしました。長老は昭和20年代後半から何度も四国を巡っておられます。ほかの地域でも魅力的な車両がいっぱい見られた時代だけに、アクセスも不便だった四国には、地元のファン以外では、きっちりした記録を見かけません。並外れた長老の行動力には、改めて敬意を表します。われわれが訪れた多度津・琴平に限定して、その記録を特別に載せました。昭和30年8月3日、長老は多度津機関区を訪問、「せと」のヘッドマークを付けたC58 255〔多〕の晴れ姿。

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