スクラップブック 事件・事故編・第17回

永らくご無沙汰を致しました。

この度、復活致しました。
その間、会員の皆様より「生きてるのか?」「死んだのなら連絡しろ!」などと暖かい励ましのメールを頂き、会員であった喜びを再確認しつつむせび泣いておりました。この度諸般の用事を片付けて投稿を再開することになりました。と、言っても新しいものは何もなく、古い話題での再出発です。取りあえず準備していたスクラップブック事件・事故シリーズの最終回をご覧下さい。

〈本編の編集中に、涌田浩氏の訃報に接しました。
彼は物静かでありながら知識は豊富で、なおかつ会員としての行動力もあり、よく行事で行動を共にしておりました。最後にお目にかかったのは伊賀電鉄へ行った時です。
この歳になると世の無常をひしひしと感じます。
心よりご冥福をお祈りすると共にご家族に哀悼の意を表します。〉

 

1964,8,23

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈4〉

叡電を撮る

小さい頃の身近な鉄道と言えば、すぐ近くの京都市電に尽きますが、余りにも身近すぎて、撮影の対象ではありませんでした。“やっぱり専用軌道を走る、大きな電車を撮りたい”。となると“叡電”に行き着きます。ひとつの行政区内で完結する珍しい鉄道であり、徒歩圏内で始発駅に行けるとあって、中学生になると、よく出掛けることになります。懸賞でカメラが当たったことがあり、喜び勇んで行ったものの、目も当てられない酷い写りで、さすがに公開は気が引け、何とかマシなものに限定して見ていただきます。

叡電宝ヶ池駅の南にある修学院7号踏切。ポール姿のデナ21が出町柳方面へ向かって行く。比叡山の山麓には青々とした田圃が広がっていた。その後、急激に市街地化が進み、当時は修学院までだった白川通が延長されて、叡電を乗り越す高架橋もできて、同じ地点から見る光景は激変してしまった(以下、昭和39年8月)。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈3〉

開館した交通科学館へ

昭和37(1962)年1月、大阪環状線弁天町駅前に、交通科学館が開館しました。小さい頃から、東京には交通博物館があるのに、なぜ関西には無いのかと、いつも恨めしく思っていた私にとっては待望の開館で、その直後に見に行きました。当初の予定では、昭和36年に開館と新聞で知り、勇んで行ったものの、工事中で見ることができませんでした。あとで分かったことは、この年の第二室戸台風の被害で、工期が遅れていたとのこと、それだけに待望の開館でした。中庭に展示されたC5345、最終のC53廃車機に当たり、解体予定のところが変更されて、教習用として国鉄吹田教習所に展示されていた。交通科学館の構想が上がり、同館の目玉として展示することになり、鷹取工場で、自走可能な状態に復元工事が行われた。しかも本線で客車を牽いて、鷹取~吹田で二日間公開運転された。そのあと、龍華から大阪臨港線の大阪港まで自走し、そこから陸送で、交通科学館に収まったと言う。ただ現役時代のC53を知らない小学校6年生にとっては、三気筒の歴史的な名機と言われても理解できず、デフが無いのは、日頃見るC51やC57と決定的に違い、どうしても馴染めなかった。

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帰ってきた米手作市

デジ青読者の皆様、
永らくのご無沙汰です。
巷には「米手は死んだらしいで!」との噂が出回っていたとか。
どっこい生きております。

実は昨年の後半頃から家内の体調が悪くなり、手術を繰り返しておりました。幸い生死にかかわるような事ではなかったのですが、やはり痛がったりしていると出歩くのは気が引けてしまいます。
さらに我が家が娘夫婦による乗っ取りに合い、彼女のマンションと交換することになりました。そしてその引っ越しの直前にまたまた家内の手に菌が入り、さながら豚足のように晴れてしまったのです。古い会員の方はご存じですが家内は免疫抑制剤を使い続けないといけないため菌に感染しやすいのです。結果引っ越しは私一人で荷造りから開封、設置まで一人でするハメになり、更には炊事洗濯までこなすスーパー爺さんになりました。

やっと家内の手も収縮しはじめて久しぶりにデジ青の画面に向かっている次第です。
宮崎繁幹さん、河 昭一郎さんはじめご心配いただいた会員の皆様、お礼とお詫びを申し上げます。

再開してもなにも資料が準備されていませんので、しばらくはコメント欄で構内試運転をする程度になりますがよろしくお付き合いをお願い致します。

最後にあたらしい我が家からの絶景をご覧に入れてご挨拶と致します。

※東寺の五重塔を背景に特急サンダーバードを追い抜く新幹線N700S。屋根はJR貨物・梅小路駅。毎日青い機関車が牽く22両のブルートレインや緑色の「青大将」更にはブドウ色の列車が行き交います。
ジョイントの音を聞きながら、お休みなさい。

 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈2〉

京都駅で「こだま」

京都で育った鉄道少年にとって、京都駅へ行って写真を撮ることは、自然の成り行きでした。新幹線の開業前、東海道本線には、最新の鉄道車両が走り、ホーム端へ行くと、山陰線のC51が見られるなど、最新電車から蒸機まで揃った京都駅に、少年の眼は輝きました。なかでも「こだま」に代表される151系電車は、みんなの憧れの電車でした。東海道線時代の「こだま」型に乗ることは叶いませんでしたが、豪華な車内を羨ましそうに見て、列車を撮影するだけで、胸の高鳴りを感じたものでした。鉄道写真アルバムの第1ページにもこんな写真が貼ってありました。昭和36年8月3日朝7時30分、上り「第一こだま」が京都駅1番ホームに滑り込んで来た。稚拙な写真だが、特徴あるホーム屋根から京都駅と分かる。と言っても「こだま」に乗った訳ではなく、近々家族で箱根への旅行を計画していて、列車の混雑具合を確かめるため、父とともに京都駅へ来た。「こだま」が昭和33年にデビューし、その後も「つばめ」「はと」「富士」と電車特急が増発されるが、電車特急の人気は高く、2週間前発売の指定券はすぐに売り切れていた。勢い、自由席のある急行に目が向くが、これも満員になる。交通公社の時刻表には、優等列車の前年同月の乗車率が載っていたが、8月は、東海道本線の主要な急行は軒並み100を超していた。とくに京都から東上する場合、大阪で乗り込まれると座れる可能性は極めて低い。そんな状況のなか、それを確かめるため京都駅へ来て、乗るアテもない「こだま」を写したということである。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈1〉

京都市電北野線に乗る

ついに後期高齢者となりました。市から送られて来た「後期高齢者保険証」を感慨深く見入っていました。“高齢者”の前に“後期”が付く、紛れもない年寄りです。こんな記念すべき時期(?)に、デジ青でやるべきことは何か、やはり鉄道写真を始めた原点に戻ってみようと思います。鉄道写真を撮り始めてから、もう65年の歳月が流れました。親に買ってもらった子供向けのカメラで小学校の時から写し、鉄道を撮った写真は抜き出してスクラップブックに貼り付け、自分だけの鉄道アルバムを作っていました。最初のページには、昭和36年廃止の京都市電北野線の写真が貼られていました。2022年開催の第9回クローバー会写真展のサブテーマ「私の蔵出しお宝写真」に出品した、堀川丸太町に到着する京都市電北野線の写真は、文字通り、自分で最初に撮った鉄道写真第一号だった。(以下、昭和36/1961年6月25日)。

 

 

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 50年前の広島電鉄市内線 ~路面電車あれこれ噺⑮

広島電鉄市内線では、広島駅と直結する駅前大橋線の新設工事が最終盤を迎えています。デジ青でも、西村さんからの現地レポートがあり、ネットニュースでも進捗状況を確認しています。新しくできる広島駅ビルの2階まで高架で乗り入れ、改札口を出たら、すぐ市内電車に乗れる、本当に楽しみです。その開業まであと一年となりました。

さて、私が初めて広島を訪れたのは、昭和30年代の後半でした。被爆直後にできたコンクリートの固まりのような小さい駅舎を出て、市内線に乗って原爆ドームへ行きました。まだ単車が走っていたことは覚えていて、駅前の闇市のような商店街とともに、失礼ながら、発展から取り残された田舎都市の印象を受けました。その後も呉線の蒸機撮影で何度も広島に下車していますが、路面電車は撮影の対象ではなく、やっと写したのが昭和49(1974)年のことでした。ちょうど50年前のことになります。その後、広島へ来ることになる1900形は、まだ京都市内を縦横に走って活躍していた時代で、広島は、戦前、戦後の自社製造車や、大阪・神戸から来た電車で占められていて、“軽快電車”と呼ばれた新型車両のデビューもまだでした。では50年前、広島市内で見られた電車たちを見て行きます(以下すべて昭和49年9月)。

50年前の広島駅前で発車を待つ市内線、右の504号500形は、昭和28年の自社発注車、501~505があった。京都市電800形と酷似の広電800形を継承したスタイルで、こちらも京都市電に通じるところがある。左の766号750形は、もと大阪市電1600形などで、いずれものちに廃車されている。

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 名鉄岐阜市内線 “長良線”  ~路面電車あれこれ噺⑭

準特急さんの「お城と鉄道」特集号に多くの応援コメントが入りました。皆さんの関心の高さを思いましたが、なかでも、西村さんや紫の1863さんから名鉄岐阜市内線のレポートがありました。金華山の岐阜城から市内線を超俯瞰した写真もあって興味深く拝見しました。岐阜市内および近郊へは多くの路面電車が走っていましたが、市内中心部で最初の廃止が、この岐阜市内線の徹明町~長良北町、通称“長良線”でした。廃止は1988(昭和63)年6月で、ことしで36年目になります。私も一度だけ、短時間でしたが撮ったことがありました。 岐阜の繁華街である柳ヶ瀬から、写真の岐阜城のある金華山のふもとを通り、長良川を渡って岐阜市北部を結んでいたのが“長良線”、城下町・岐阜の歴史ある町並が続いていた(昭和50年12月)。公園前

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 桜とともに散っていった車両たち

桜も散って、いまは新緑真っ盛りですが、15年ほど前の桜ネタで、とにかく掲示板の空きを埋めて行きます。いつもどおりの変わり映えのない写真ですが、車両だけは、もう見られません(過去の投稿済みも含まれています)。

桜のシーズン、叡電とともによく行ったのは、阪急嵐山線の桜だった。以前、阪急沿線に住んでいた時は、乗車時間10分余りで、上桂、松尾と、桜が満開の駅へ行くことができた。なかでも運行標識板の2300系は、マルーンの車体にホントに桜が似合った(2007年4月)。

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 阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑬

阪神国道線 余話

縁あって「阪神国道電車」の本を造ることができました。「神戸鉄道大好き会」というグループがあり、その何人かとは、従来からお付き合いがありました。同会はは過去にも神戸市電の本を出版されていて、そのつぎの出版目標は「阪神国道線」となり、何の所縁もない私も出版計画に入れていただき、もうお一人と、本の企画・編集を行なうことになりました。出版元は、いまは廃業されましたが、大阪にある鉄道書籍では実績のある出版社でした。本の企画・編集については、すべてお任せで、口は出さないが、カネは出すと言う、ある意味では恵まれた出版となりました。好き放題にできた一例が表紙のデザインだった。今までの同社からの鉄道本は、どう贔屓目に見ても、デザインは陳腐そのもので、たとえ中身に値打ちがあっても、表紙を見ただけで購買意欲がなくなってしまう。かと言って尖がったデザインも鉄道書にはふさわしくなく、中庸ではあるが、本の意図をきっちり伝えるデザインとすることにして、デザインカンプを何種類も作ってみた。タイトルも「阪国浪漫」「阪神国道線」「阪神国道電車」と出たが、最終は中央の「阪神国道電車」となった。

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 阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑫

ほかの線区でも走った“金魚鉢”

阪神軌道線の3線〈国道線、北大阪線、甲子園線〉の紹介は以上ですが、実は“金魚鉢”こと71形が走っていたのは、この3線だけではなく、ほかの支線でも走っていた時期がありました。それが尼崎海岸線(出屋敷~高洲、昭和37年廃止)、いまもある武庫川線(武庫川~洲先(当時))なのです。 尼崎海岸線 大正時代、阪神は今津から海岸線に出て、出屋敷まで「コ」の字に結ぶ今津出屋敷線を出願した、第一期工事として、昭和4年に出屋敷~東浜を開業するが、以降は未成線のままとなった(途中の浜甲子園~中津浜のみ甲子園線の延長として開業)。昭和26年に沿線の地盤沈下のため高洲~東浜を休止・廃止。結局、出屋敷~高洲の一駅のみ1.7km、乗車時間2分の支線として残り、“金魚鉢”が細々と走っていた。架線柱、軌道敷は複線分が確保され、当初の構想の大きさを感じさせた(昭和37年9月、篠原丞さん撮影(以下同じ))。

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 阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑪

国道線の西半分を偲ぶ

もともと大阪~神戸を結び、国鉄、阪神、阪急に次ぐ、第4の鉄道とも言える国道線でしたが、国道2号線の渋滞に巻き込まれて、末期は昼間48分ヘッドと、地方ローカル線並みの本数になっていました。特に神戸市内で混雑が著しく、西端の東神戸~西灘が昭和44年12月、続いて乗客減少も著しい西灘~上甲子園が昭和49年3月に廃止されています。私は残る野田~上甲子園の最終間際しか撮っていませんでしたが、本を出版した際に、多くの協力者から、東神戸~西灘~上甲子園の写真を預かっています。ここでは移譲を受けたKさんの写真を載せました。

西灘が終点だった時代、野田へ向けて発車を待つ金魚鉢。交差するのは阪神本線で、左手に西灘駅がある。右手には「ゴンチャロフ」の看板、当時の西灘工場だったが、阪神大震災で全壊し、いまは右手に本社・工場がある。

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 阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺➉

国道線 尼崎から西宮へ

国道2号の中央を走る国道線、撮影意欲が湧くような沿線風景は全くなく、淀川大橋まで歩いて来たものの、そこからの歩きは断念、国道電車に乗って、尼崎の中心である難波(なにわ)、西大島、浜田までワープしました。難波付近を行く、国道線の装飾電車。この付近は、阪神尼崎駅の北西に位置し、賑やかなアーケード街が続く昔からの商業地。現在なら「阪神、優勝までマジック143」と日本一早いマジック点灯を掲げる尼崎中央商店街も近い。右手の立派な三和銀行尼崎支店も、この付近のランドマークになっていて、直交する商店街には今も三和本通商店街の名を残している。

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 北海道でまた廃止 根室線 富良野~新得の駅を訪ねる

3月31日限りで、JR根室線富良野~新得81.7kmの鉄道営業が終了しました。鉄道としての終了は富良野~東鹿越で、東鹿越~新得は台風被害で不通のまま代行バス輸送になっていましたが、バス代行も終了となりました。先ほどのNHKニュースでも報道がありましたが、北海道の鉄道廃止も、ここ数年、年中行事化していて、それほどの感慨はありません。新しい時刻表にも、数行「営業終了」とサラリと触れているだけ、災害による他の路線不通も小さく載っているだけで、これだけの不通区間があったのかと改めて驚きました。

富良野~新得は、最初に北海道を訪れた昭和40年代、狩勝峠の旧線は新線に移っていて、蒸機の力闘も、車窓からの大眺望も知りませんが、まだ石勝線が開業する前で、道央と釧路・根室を結ぶ幹線として機能していて、何度も列車で通ったものでした。ただ乗ったのは夜行列車ばかりで、深夜の1時、2時、列車で爆睡していて記憶も記録もありません。ここ10年ぐらい、何度か北海道へ行くようになって、やっと明るいうちに同区間に乗ることができました。東鹿越~新得のバス代行輸送については、以前のデジ青でも発表していますので、富良野~新得の廃止駅を中心に見てもらいます。もちろん芦別岳バックの原色キハ40走行など行く術もなく終わってしまい、単なる車内からの撮影です。

今回の廃止区間の始発となる富良野駅で発車を待つ、東鹿越行きの列車、キハ40の単行だが、車内は中国人旅行客も含めて、そこそこの乗客数だった(2018年2月)

 

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 阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑨

クローバー会第10回鉄道写真展「鉄路輝く」も幕を下ろしました。ご来場者のなかには「デジ青読者です」と言って来場される初対面の方、なかには首都圏からの方もおられ、デジ青が広報媒体になっていることを改めて感じました。ネット総数から見ればわずかかも知れませんが、全国のデジ青読者に向けて、微力ながら投稿を続けたいと改めて思ったものです。積み残しのテーマも数多くあって、まずは、来年2025年に廃止50年を迎える阪神国道電車。3線のうち甲子園線、北大阪線は紹介しましたが、「国道電車」の母体ともなった国道線が紹介できていませんでした。まずはそこから紹介しましょう。高架の阪神野田駅の下にあった国道線のりば。左の階段を上がった高床ホームから発着した。右は北大阪線の乗り場で、電車も北大阪線の天六行き。

▲▲低床の北大阪線、高床の国道線(右)が並ぶ。

 

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スクラップブック 事件・事故編・第15回

永らくお休みしていましたが「スクラップブック」を再開します。家庭の事情でなかなか集中してスキャンなどの作業が出来ません。ボチボチと進めます。

当時では大きい事故とは言えないかもしれませんが、いまなら大事故でしょう。

昭和38年(1963年)ですが、まだまだ信号無視や居眠り運転が横行していました。

1963,11,28

1963,11,28

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スクラップブック 事件・事故編・第13回

国鉄だけではありません。
我らが京福鞍馬線でも大事故が発生しました。
この事故は、この後続いた福井での事故と合わせて京福電鉄にとって取り返しのつかない大事件の序章となりました。

1964,1,6,0001

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スクラップブック 事件・事故編・第12回

1963,11,11,

鶴見事故の混乱のさなか、またしても重大事故が発生しました。
国鉄としては頭の痛い事が続きました。

1963,11,11,0001

さらに責任者の自殺騒ぎまで起こるとは、良きにつけ悪しきにつけ国鉄職員が確実に責任感を持っていたという時代の記録です。