わが鉄道熱中時代 (11) 山崎50・3改正編

夜行急行も大幅削減

53・ 3改正の趣味上のトピックは、山陽・東海道筋では、EF 58牽引のブルトレがほぼ全滅、加えて装備されるヘッドマークが無くなることの2点で、寝台特急に話題が集中していましたが、特急を補完していた夜行急行も大幅に削減されます。私にとっては乗ったこともない寝台特急よりも、何度も乗車した夜行急行に、より惜別の思いが強くなったものです。新大阪基準で見ると「阿蘇」「西海」「日南」「桜島」「高千穂」「天草」「雲仙」「屋久島」(季節臨含む)など、大部分が廃止、残った愛称も経路や車種の変更が行われました。今回は夜行急行列車に焦点を当てます。 EF61 14[広]の牽く名古屋行き「阿蘇」。 EF 61は18両全機が広島区に配置され東海道・山陽本線の急行・荷物列車の牽引に当たっていて、EF58とは別運用だった。EF 58牽引がほとんど占める客車牽引にあって、その優美なスタイルは際立っていた(昭和50年3月、山崎、以下同じ)

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 わが鉄道熱中時代 (10) 山崎50・3改正編

紫の1863さんのコメントで気がつきました。今回テーマの昭和50年3月改正から今年でちょうど50年が経過したのですね。大きな時刻改正は時間軸で覚えているものです。新幹線ができた3910改正は〝かなり昔〟、白紙大改正が行われた4310改正は〝やや昔〟この5003改正は〝ちょっと昔〟という感覚でしたが、50年も経過していたとは‥。今回も寝台特急を見ていきます。「あかつき」と並んで本数の多かったブルトレが、日豊本線を始終発とする「彗星」だった。4310改正で新設されて、改正ごとに本数を増やし、5003改正前には都城発1往復、宮崎発、大分発が各2往復と、計5往復の新大阪行きが設定されていた。広島区の若番、EF58 8の牽く「彗星1号」、回送とはいえ、新快速も走る外線のこと、かなりの速度で通過する(以下、山崎付近、昭和50年3月)。

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 わが鉄道熱中時代 (9) 山崎50・3改正編

先週3日間東京へ行き、人に会ったり、写真展の見学をしていました。そこで多くの方から聞いたのが、「〝デジ青〟見てます」の声、改めて感じ入りました。私も老骨にムチ打って、まだ続けます。変化球勝負は置いておき、正統な(?)列車・車両の思い出から〝熱中時代シリーズ〟今までの「山科大カーブ」「交直接続区間」に続いて、昭和50(1975)年3月改正の前後の「山崎」としました。

山崎の朝  EF58ブルトレのヘッドマークが輝いた

昭和50年3月のダイヤ改正では、山陽新幹線博多開業に伴い、関西発着の在来線優等列車が大幅に削減・再編され、とくに昼行特急・急行の廃止、夜行列車の整理が顕著でした。 昼行特急は、岡山発着の「つばめ」「はと」「しおじ」、京都発着「かもめ」も廃止、急行も関西を通る「桜島」「高千穂」「天草」「日南」なども廃止され九州方面の昼行優等列車は新幹線に置き換えられます。夜行列車も整理・再編、寝台特急(ブルトレ)は一部存続するも、大幅削減され、関西〜九州間の旅客輸送は、新幹線接続を前提とした再編が進みました。また湖西線の開業により、北陸方面の列車体系にも変化が生じました。 初めて山崎に撮影に行ったのは、高校1年生、昭和40年の秋だった。これから紹介する寝台特急「あかつき」が昭和40年10月改正で誕生、関西では初めて明るいうちにブルートレインが見られたのだった。さっそく山崎へ行き、丸っこい20系後部を写すことができて大満足だった。

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 ここらでボンネットバス 近畿編 〈15〉

奈良交通 ①

ここらでバスに参りましょう。今までの投稿のなかで、バスネタには意外な人気があり、閲覧、コメントも多いように見えます。今まで京都市バスに特化したテーマのほか、関西各地を走ってきたボンネットバスも、今まで京阪バス(京都・大阪・滋賀)、江若交通(滋賀)を紹介しました。今回は、奈良県下に路線網を広げる奈良交通です。

1960年代には、奈良交通に多くのボンネットバスが走っていました。運転区間には狭隘区間や山間部も多く、ボンネットが好まれたのかもしれません。次第にリア・エンジン車に置き換えられ、写真を撮り始めた1975年ごろには、高田、五條の2営業所のみの配属となりました。それでも近畿のボンネットバス路線としては、有数の台数、路線を持っていました。奈良交通のボンネットバス、鹿のマークに若草色と、おなじみの奈良交通塗装のボンネットバスが、昭和の時代に走っていた。その後も観光用として生き残り、いまも1台が観光・貸切用として走っている(昭和50年3月、平端駅前)。

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どうする木次線第三部・・・2

木次線は出雲横田~備後落合間が乗車効率が極端に悪く、廃止の根拠の一つとされています。
しかし、この間にこそ木次線の魅力が凝縮されているのですがそれを利用できてないと私は思っています。
三段スイッチバックや鬼の舌震い、たたら製鉄などもっと海外の客を誘致できるものがあるのに活用できていないのでは。
それに追い打ちをかけたのが「おろち号」の廃止でした。
記事にも出ていますが廃止後に輸送密度が激減したことです。予想できたこと、というよりJR西日本は分かっていてそうしたと思います。

愚痴が出てきますのでまずお読み頂きます。

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どうする木次線第三部・・・1

松江在住の友人から山陰中央新報の「どうする木次線第三部」が届きました。
若い会員には「木次線」は遠い存在かも知れませんが、昭和世代の会員にとっては小海線と共にC56が活躍していた線区として忘れられない鉄路です。
その木次線が、いま芸備線と共に廃線になろうとしています。
地元の方々も努力はしているようですが、三江線もあの通りあっけなく廃止されてしまいました。
どうすれば残せるのか、もう一度皆さんも考えてくれませんか?

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 「信号場」を巡る   ①

奈良の駅名研究家さんの長期連載「駅名」シリーズに対抗(?)して、もうひとつの停車場である「信号場」を採り上げます。その昔、列車に乗っていると、駅でもないところに列車が停車、訝っていると、向こうから煌々とライトを輝かせて交換列車が通過して行く‥、そんな思い出も過去のものになりました。鉄道事業法に依れば、「停車場」には、「駅」「操車場」「信号場」があり、信号場は、旅客の乗降を扱う駅ではなく「専ら列車の行き違い又は待ち合わせを行うために使用される場所をいう」と規定されています。「専ら」と書かれているように、設置理由としては、線路の分岐点に設けられたり、単線区間と複線区間、または複線区間と複々線区間の接点に設けられるものもありますが、いちばん多いのは、単線区間で列車交換のために設けられる信号場で、以前の調査では私鉄も含めて約160ヵ所程度で、旅客営業を行わないため、駅と違って、人里離れたところに設置されることが多く、駅とは別の興味深い対象なのです。

 

前述のように、駅と駅の間で線路が分岐する地点も信号場と呼ぶ。いわば分岐型信号場のひとつ四国の川奥信号場である。しかも本線格はJR四国予土線で、分岐するのは土佐くろしお鉄道中村線、しかも分岐だけでなく、列車交換も行う本来の機能も持つ。また分岐してすぐループ線となる興味深い信号場だ。写真は宇和島発窪川行きの列車の前面、右側交換するキハ32が待機している。シーサスポイントの左手前が土佐くろしお鉄道で、すぐループ線のトンネルに入る(2011年)。

 

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 都電も定点対比してみる 8 ~路面電車あれこれ噺 (29)

早稲田 夏休みの学生街

都電時代の対比、つぎは「早稲田」。いまも走る都電荒川線の終点ですが、当時は近くに早稲田車庫があって、系統が発着する都電の要衝地点でした。いまは終端ターミナルですが、当時は江戸川橋方面にも路線がスルーしていました(昭和43年8月撮影)。「早稲田」定点対比① 「早稲田」電停前。両側には古びた仕舞屋が軒を連ねていた。この15系統(高田馬場~茅場町)が翌9月になくなると聞き、都電(6)で紹介の高田馬場に続いてやってきた。ビリヤード、麻雀と学生街らしい店舗も見られるが、夏休みとあって、静かな東京の下町の風情が漂っていた。▲▲現在の「早稲田」は、終端式の行き止まりとなって、日中でも多くの乗降がある。両側の街並みは再開発の波に飲み込まれ、広い新目白通りとなり、全く対比ができない。都電は江戸川橋方面はなくなったが、早稲田を始終発とする32系統は専用軌道が多いことから、奇跡的に生き残って、別の27系統と合体して、現在でも見られる荒川線(三ノ輪橋~早稲田)となる。

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 都電も定点対比してみる 7 ~路面電車あれこれ噺 (28)

海抜ゼロメートルの都電

いま路面電車の話題と言えば、広電駅前大橋線の開業一択でしょうが、相変わらず暑苦しい古典ネタでお伺いします。都電の対比も、昨年以来ですが、最近、東上した際に、50年ぶりの再訪地も含めて紹介します。

“海面より低いところを電車が走る”、東京や大阪で地下水汲み上げなどで地盤沈下して、海面より低い土地が社会問題化していました。潮位が高くなって、路面電車が一面の水の中を走る写真に衝撃を受けました。その代表が、亀戸駅前から南へ分岐し、葛西橋、日本橋方面に向かう都電砂町線でした。大正10年、城東電気軌道(城東電車)によって開業、市営、都営となりました。まもなく廃止されると聞き、クローバー会メンバーと小海線へC56を撮りに行く時に、藤本さんと一緒に一緒に行きました。江東区ゼロメートル地帯を行く。66‰の急勾配で太鼓橋になった堅川橋を渡る。この付近では、橋だけが海面より高く、あとはすべて海面以下の土地(都電時代、昭和47年8月)。

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 昭和100年から 二分の一の時代に還ってみる  〈8〉

新潟駅前の北村製作所バス

昭和の時代、バスはシャーシ(車台)とボデー(車体)は、別々のメーカーで製造し上下を接合して、シャーシメーカーの製品として販売されるのが通例でした。ボデーメーカーには、シャーシメーカーと資本関係を持つ大手もありましたが、戦後、軍需産業から転進して、車体製造を始めた地方のメーカーも数社ありました。その代表が、北九州市にあった西日本車体工業で、「NSKボデー」のプレートは、西日本各地で広く見られたものでした。新潟市にも、昭和23年からバス車体の製造を始めた北村製作所があり、新潟県下にネットワークを広げる新潟交通のバスには、ほぼ独占して北村製作所の車体が供給されていました。

新潟駅前に立つと、つぎつぎ銀色に青帯の新潟交通がやって来る。ボデーは、一見すると、大手ボデーメーカーと同じように見えるが、側面の窓や雨樋に北村製作所の特徴が見られる。方向幕が前後扉の中間に付いていて、その部分のみ前後の引き違い窓になっているのが新潟交通の特徴だ。「新22か・267」、いすゞBA30、(以下、昭和50年6月、新潟駅前)

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 昭和100年から 二分の一の時代に還ってみる  〈7〉

広島のバス

約1ヵ月ぶりに投稿に復帰します。この空白期間でも、鉄道界では話題が続いていますが、いま最も熱いのが広島電鉄市内線の駅前大橋線の開業でしょう。本欄でも西村さんから最新のレポートが届き、クローバー会でもビッグなイベントの企画が進行中です。呉線のC59・C62が昭和45年に終わってから以降も、何度か広島へ行く機会がありました。当時も、広島は路面電車が元気に走る街として知られていましたが、一方では広島は全国有数の“バスの街”でもありました。市内には、広島電鉄バス、系列の備北交通、芸陽バスのほか、広島バス、広島交通、中国JRバスなどが、市内の道路を埋め尽くしていました。

なかでも車両数、路線数で圧倒していたのが、中国地方最大手の広島電鉄バス(広電バス)。昭和29年に制定された白にオリーブ色のストライクのデザインは、現在もほとんど変わっていない。いまは先端のバスが走っているが、昭和50年前後、もう京都ではすっかり姿を消した、古いバスがゴロゴロ走っていて、路面電車以上に興味をそそられた。2台とも日野BR系(昭和50年2月、横川駅前)。

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 昭和100年から 二分の一の時代に還ってみる  〈6〉

大阪市バスを撮る (昭和50年5月)

本欄では、鉄道に劣らずバスの人気も感じています。先ごろ、観光バスのカラーにも多くのコメントを頂戴しましたが、大阪通信員さんからは、住まいの近く観光バス事情についても報告をいただきました。大阪の市バスも大変革を遂げました。大阪メトロから運行を受託された外郭団体の大阪運輸振興は、2014年には「大阪シティバス」として新発足、現在は、万博輸送も担っています。いちばん目立つ外部塗装も、目まぐるしく変わっていて、ずっと同じ塗装の京都市とは対照的です。そんな懐かしい昭和の時代の“ゼブラバス”をカラースライドの中に見つけました。先に発表した阪神国道線のカラーのなかで、中津の電停前、国道176号を行く大阪市バスを撮っていた。2台が続行していて、前は昭和47年から塗り替えが始まった新塗装、後が当時の塗装、通称“ゼブラバス”。

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 昭和100年から 二分の一の時代に還ってみる  〈5〉

京都市電も撮影 (昭和50年1月~4月)

まだまだ“古古古写真”、続けます。先に昭和50年は、京都市電にとっては廃止も無く、安泰の年のようと記しましたが、時間を見つけては、来たる日に備えて、こまめな撮影を続けていました。車両面で見ると、ある事情で今までにない車両も現れた。それが赤帯なしのツーマンカーだ。市電は、合理化のためのワンマン化を推し進め、前年の昭和49年3月の烏丸線廃止で、ツーマン車である700、800、900形は姿を消し、ワンマン改造した1600、1800、1900形が占めるようになった。退職による自然減や、配置転換を行ったが、まだ余剰を抱えることになり、苦肉の策として、ワンマンをツーマンに戻すことになった。内訳は1600形(錦林、九条)、2000、2600形(烏丸)で、なかでも2000形は初めて見るワンマン表示の赤帯のない姿で、まるで別形式のように映った(烏丸車庫前)。

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 昭和100年から 二分の一の時代に還ってみる  〈4〉

国道電車の最終日 (昭和50年5月5日)

先に昭和50年は、京都市電の廃止においては、エアーポケットの年と記しましたが、うまい具合と言うか、阪神電鉄併用軌道線、通称「国道電車」のうち、残存の国道線(野田~上甲子園)、北大阪線(野田~天神橋筋六丁目)、甲子園線(上甲子園~浜甲子園)は、昭和50年5月5日を持って全廃されました。ちょうど市電撮影のエネルギーを、大阪・神戸方面に振り向けることができたのです。以前のデジ青でも、各線ごとの解説をしています。ここでは、最終日に限定した、カラーの紹介です。

中津ですれ違う1形(左)と“金魚鉢”こと201形。廃止時の車両は、1形20両、金魚鉢の71・201・91形28両あったが、譲渡はなく、すべて廃車となった。最終日は、5月5日の“こどもの日”の祝日、全区間が乗車無料という大盤振る舞いで、多くの人で終日賑わった。天六から乗車し、中津、野田、甲子園方面に向かった(天神橋筋六丁目)。

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 昭和100年から 二分の一の時代に還ってみる  〈3〉

観光バスを撮る (昭和50年4月20日 )

この頃からバスにも注力するようになりますが、どうしても鉄道とシステムに共通点のある路線バスに興味を示すようになります。貸切バス(観光バス)には、なかなか食指が伸びませんでしたが、時代の記録としても撮っておくべきと考え、向かった先が「五条坂」、東山五条の交差点でした。全国から来た観光バスや定期観光バスが、清水寺観光を終えて交差点を続々下りて来ます。今から見ると、昭和時代のプンプンする塗装が何とも懐かしく映ります。大谷本廟の参道前で待ち受けると、五条坂を下りて来たバスが黄信号なると、何台も通過して行く。乗客は修学旅行生や団体客、前から後までびっしり乗っているのも、この時代らしい。このバスは、神戸市のキクヤ観光のバス、ふそうB9系、クレハボデー、紺とクリームの塗り分けラインも昭和を語っている。

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 昭和100年から 二分の一の時代に還ってみる  〈2〉

最後の嵐電ポールと桜 (昭和50年4月12日)

この年の桜のシーズンには、初めて、嵐電北野線の“花のトンネル”、鳴滝~高雄口へ写しに行きました。まだ旧型車体、ポール集電と、ひと昔前の時代ですが、この年の12月15日には、ポールからZパンタに換装されています。

旧型車体のモボ101が桜のトンネルを行く。zパンタ化の際に、車体を更新し、現在も見られるモボ101になった。

 

 

 

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 昭和100年から 二分の一の時代に還ってみる  〈1〉

今年は、昭和で換算すると、昭和100年に当たるとか。6月に入りタイミングを逸したネタですが、またぞろ「昭和」に回帰、昭和100年の半分、昭和50年に戻ってみることにしました。昭和50年と言えば、私にとっては社会人3年目、忙しくもあり、仕事の面白さも感じていた頃ですが、趣味活動も忘れることはなく、対象も多様化、バスや街並みにも関心が向いてきました。日本からは蒸機が消える頃で、ポストSLとして、特急や電機にも焦点が集まっていました。京都では昭和49年に烏丸線が廃止、その次は、昭和51年の丸太町・今出川・白川線の廃止までに2年間があり、昭和50年は京都市電においては、エアーポケットのような年でした。先ごろ昭和の時代を駆け抜けた長嶋さんが亡くなり、ひときわ“昭和”が喧伝されたものです。そんなときに、昭和50年を回顧するのも、あながちハズレではないと思います。まずはカラーポジのなかから、いくつかのテーマを選んでみました。私が最後に見た長嶋さんは平成時代のオープン戦、試合前に何かの表彰を受ける監督10年目の長嶋さん、右は入団4年目の松井秀喜と川相昌弘(1996年)。

岡山で583系を送る (昭和50年3月9日)

昭和50年3月に国鉄ダイヤ改正があった。新幹線の岡山~博多の開業がいちばんの目玉だったが、各地でも特急の増発、急行の削減が行われ、白紙改正級の変更だった。山陽本線はとくに激変で、岡山で新幹線接続していた、山陽・九州方面の昼行特急・急行39往復が全廃された。特急「きりしま」は、昭和45年10月改正で京都~西鹿児島の583系として誕生、時間帯から徳山~熊本は無停車で博多も通過したのが特徴。その後、新大阪~西鹿児島になり、改正後もスジは残るが、「明星」に愛称が統合されるため、「きりしま」の名は消える。この日は改正前日のため、岡山止めだった。

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 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (14)

九州編 〈14〉蒸機が後押しする急行列車

最後は、何度も訪れて、愛着のあった筑豊本線の列車をいくつかを紹介します。以前にも述べましたが、北九州~鳥栖には、鹿児島本線と筑豊本線の二つの経路がありました。優等列車は、途中に博多が所在する鹿児島本線経由ですが、当時の筑豊本線には石炭で繫栄する直方、飯塚があり、路線長にしても、単線・勾配区間があるものの、筑豊本線がわずかに短かく、一部の優等列車は筑豊本線を経由していました。大阪~熊本の急行「天草」が、博多には寄らない筑豊本線経由の列車だった。蒸機ばかりの筑豊本線にあって、「天草」は唯一、鳥栖区のDD51が牽引する列車だった。ただ、筑前内野~筑前山家には冷水峠があって、冷水トンネルの前後に25‰勾配が連続する。さしものDD51でも客車10両では苦しく、飯塚からはD60が後補機が連結された。客車の編成にも興味が湧いて来る(昭和43年3月、筑前内野~筑前山家)。

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 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (13)

九州の駅 〈13〉C50の牽く旅客列車

また投稿が途絶えてしまいました。なにか新規でもと思いながらも、古い時刻表と古い写真を、しばらく見ていただくことにします。もうこの回を逃したら、発表する機会はないと思います。手垢のついた写真ですが、58年前、こんな多彩な列車が走っていたことを知っていただけたらと思います。昭和42年当時、前回(12)でも述べたように、日豊本線は、行橋の次の新田原まで電化していた。と言っても小倉から30キロほどの区間で、新しく421系電車も増備されていたが、電機の新製はなく、まだ客車列車が多く残っていて、貨物とともに、架線下を蒸機が牽いていた。牽引は、大分区のC57、門司区のD51が中心だったが、写真の門司港発柳ヶ浦行き1529レは、D51牽引から、行橋でC50に牽引機が交代し、柳ヶ浦を目指していた。機はC50 58で、デフには千鳥と波の装飾が入れられている(昭和42年3月、行橋)。

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 時刻表とともに 想い出の列車を再見する (12)

九州の駅 〈12〉 北九州・筑豊の各駅で

九州編の最後として、若い頃によく行った北九州、筑豊の駅で見かけた列車を、時刻表とともに見て行きます。門司港は、鹿児島本線の始発であるが、ほかにも日豊本線や筑豊本線へ向かう列車も発車していて、終端式ホームとも相まって、九州の鉄道の原点に相応しい風格があった。電化はされていたが、まだ盛んに蒸機が出入りしていた。列車は、門司港発、黒崎経由、原田行き627レ、これから門司、小倉と電化区間を走って、黒崎から短絡線を通って筑豊本線に入る。直方、飯塚などの産炭地の勢いがあり、始発からも結構な乗客が見られた。牽引のD6034は、デフを斜めに切り、パイプ煙突の出で立ちで、これはこれで、好ましいスタイルだった(昭和46年12月)。

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