「鉄道少年の時代」として、小・中学生の頃に撮った写真を本欄に載せたことがあります。昭和36年のN電の廃止から、昭和39年の東海道新幹線の開業前後までの3年間でした。その鉄道少年も、高校に入ると鉄道へ興味をさらに傾注させ、撮影回数も増えていきます。以来60年、75歳となった高齢者ですが、社会人として成すべきことは、きっちり済ませたうえで、鉄道趣味を楽しんで来たつもりです。常軌を逸する活動は厳に謹んで来たはずですが、今から思うと、よくぞこれだけ撮っていたと思うケースもあります。鉄道趣味への熱量が、今とは違っていたと改めて感じ、そんな“熱中時代”を綴っていくことにしました。昭和39年10月の東海道新幹線の開業後に、山科の大カーブを行き交った記録を、熱中時代の第一号としました。
新幹線開業後の山科大カーブで熱中する ①
昭和39年10月、東海道新幹線が開業し、一夜にして、東海道の旅客輸送は、東海道線から東海道新幹線に移行します。ただ、それは昼間の電車特急「こだま」「つばめ」などから、新幹線「ひかり」「こだま」への移行だけで、国有鉄道として均質で平等なサービスが求められていた時代、昼間の特急列車は全廃されたものの、補完する昼間の急行・準急、夜行の特急、急行、準急はすべて据え置かれました。▲東海道新幹線の開業により、東海道を走る電車特急はたしかに消えたが、山科ではまだ特急を見ることができた。それが、北陸本線へ向かう「白鳥」、「雷鳥」だった。「白鳥」は、上野行き、青森行きの2編成併結で、82系14両という長編成で山科の大カーブを爆音を響かせて通過して行く。両数だけで見れば、特急「こだま」「つばめ」より長く、特急列車の洋々さを感じたものだった。
▲「雷鳥」も大阪-富山に走っていた。たった1往復で、「第〇」でも「〇号」でもない、ただの「雷鳥」だった。新幹線開業日から走る予定だったが、製造が間に合わず、3ヵ月近く遅れてのデビューとなった。まだスカートが赤く塗られた481系60Hz車の原型で、151系と較べると多少スタイルがちがうが、まだボンネットの特急が見られたのだった。
▲これからは夜行列車。山陽・九州方面の夜行列車は、すべて据え置かれた。新幹線の最終は東京20:00で、それ以降は夜行のお世話になる。東京駅を5分、10分おきに20系特急が陸続と発車して行く、夢のようなシーンも、そのまま見られた。20系の山科通過は、午前1時前後であり、撮影可能な時間帯の通過は急行が主体となった。写真は東京発大阪行き急行「明星」、EF58 156+ユ+ロネ3+ハネ9の寝台専用列車だった。
▲続いて通過するのが東京発大阪行き急行「月光」、EF61 7が牽引、編成は「明星」と同じで、東京-大阪(神戸)には「銀河」「金星」と合わせて、4本の寝台専用急行があった。
▲座席急行も夜行として走っていた。これは臨時の急行「第2いこま」、153・165系の混結で、昼間の急行電車と共通運用を組んでいた。▲こんな列車も夜行で走っていた。東京-大垣の準急「東海6号」で、大垣から京都まで451Mとして運転されていた。少し前の「大垣夜行」の原型となる列車だった。寝台(下段)急行なら料金1100円も掛かるところ、準急料金100円だけで東京-京都が移動できるため、写真を見ても、窓が全開して乗車率は高そうだ。
▲上り線にも朝の時間帯には、九州からの夜行列車が次つぎと通る。こちらは、長崎・佐世保発東京行き「雲仙」「西海」、EF58 53+客車15両、後部からユ、ニ、ロ、ハネ、シ、ハと続く、何でもありの編成だった。
▲何度も掲載で恐縮だが、この時代の象徴のような列車。茶色のEF61 6の牽く西鹿児島発東京行き「高千穂」、客車はなんと16両、最前部は窓を閉めていて回送のようだが、併結列車ではなく、単独列車で16両は、この時代ならでは。西鹿児島から解併結を繰り返して、山科でこの編成になっていた。東海道の客車編成は最大15両で、これは京都・大阪では15両分のホームしかなかったためである。この「高千穂」なら、電機を含めて2両分がハミ出しとなる。果たして、出発信号や出発合図の確認はできたのだろうか。
総本家青信号特派員様
いきなり、白鳥の14両、上野行きと青森行き、懐かしいですね!
昭和36年10月、北陸路に初の特別急行が走る!家の近くの踏切へその勇姿?を見に行ったものです。
続いて雷鳥の勇姿!走り出す前に鉄道友の会で試運転に乗車する機会に恵まれたことや牛ノ谷付近でオリンパスペンで撮影したこと等々思い出は尽きません。
東海道を走る客車寝台急行なんて羨ましい限りでした。
いずれのシーンも懐かしく、いろんな思いが駆け巡ります。
マルーン様
「白鳥」「雷鳥」の思い出、ありがとうございます。京都での特急の思い出でも、私にとっては、東海道線の「こだま」「つばめ」は、近寄りがたい存在でした。特急を身近な撮影対象として、とらえたのも「白鳥」「雷鳥」でした。「白鳥」で思い出すのは、当時集めていた記念切手「北陸トンネル開通」の題材になったこと、間違いだらけの画として有名になりました。「雷鳥」は運転開始当日の写真も撮りに行きました。ところが、写したカメラが、そのあと大阪駅で置き引きにあってしまい、幻のフィルムとなって、今でも悔恨の思いが残っています。
総本家青信号特派員様
「雲仙」「西海」や「高千穂」という懐かしい列車名が出てきましたのでコメントさせていただきます。
新幹線が開通しても東海道本線の移動は、均一周遊券を愛用する身にとって在来線に残っていた急行列車を専ら利用しました。1968年9月4日に東京から「第1なにわ」、横浜から普通電車(113系)、熱海から「雲仙」、沼津から「桜島」、静岡から「高千穂」、浜松から普通電車(80形)、豊橋から名古屋まで「霧島」に乗車という凄まじい記録が残っています。この時の目的は東海道本線の昼行の全急行列車に乗車することと、主要駅の構内の確認でした。
東側の元東海道本線にも大築堤がありました。御殿場線の「国府津-下曽我」間ですが、新幹線とD52の客車列車の出会いを撮りたく電化直前の1968年2月22日に訪問しましたが、一緒に撮れるタイミングがありませんでした。1時間に6往復の高速で移動する新幹線と本数の少ない御殿場線の列車が出会うことを期待することは無理でした。新幹線と在来線の駅が同一平面上にある豊橋での二俣線のC58か名古屋での関西本線のC57を写した方が無難なようでした。
快速つくばね様
均一周遊券で、新幹線開業後の東海道線を私もよく利用しました。京都から東上する場合、朝の「六甲」「なにわ」あたりがいちばん都合が良いのですが、大阪で満員になり、京都では座れる保証がありません。そこで、何度か使ったのが大垣から準急「東海」乗車です。大垣までの乗車時間が掛かりますが、大垣始発ですので必ず座れて、乗ってしまえば、急行とほぼ変わらない時間で移動ができました。つくばねさんの、乗車記録、時刻表で確認しながら、検分しました。なるほど、多くの急行乗車、各駅の確認ができたのですね。
国府津~下曽我のカーブ、東海道線からも車窓に見えます。D52は私は国府津機関区で写しただけでした。東京近郊で、D52が走っていたこと、今でも驚きの気持ちがあります。
「明星」のマロネ40×2+オロネ10にも驚きましたが、「月光」のマロネ40×4+オロネ10には唖然呆然、こんなA個室付き寝台4両なんて空前の列車編成があったのですね。
博多「あさかぜ」50山陽新幹線開業直前を凌ぐ大名列車でしょう。
と言いましたが、39年ダイヤ新幹線開業改正の時は、思いっきり余剰車両が出て、東京大阪間の「銀河」に食堂車を連結したり、苦肉の運用が数年続いて、だからヨウサントウは、在来線ダイヤの「やり直し」でした。
九州行きの「筑紫」や「西海」といった進駐軍接収列車の系譜をひく米高級将校乗車の目的で作ったマイネ40が前身だったから、20系登場以前では、”プルマン”マロネ41と共に東海道・山陽〜九州方面の「華」でした。
33年に20系が出て、この1等寝台のキャリアを持つ2形式は、東北、日本海、北海道にも転用困難で持て余し気味で、私がこの道に入った頃は「見たい」車両の筆頭でしたが、九州では工事用車両に入った晩年が関の山でした。(写真)
「月光」の超豪華編成は余剰車を毎日空気で走らせていただけだったのか、1年後の40年秋に廃止されています。
https://betsunoka.web.fc2.com/k/gekkou6.html
K.H.生さま
写真を、よく観察していただきました。優等列車の編成となると、やはり私は時刻表の巻末の編成表に眼が行きます。昭和39年10月改正号です。「月光」は、ご指摘のように、ロネが5両、「明星」も同じです。「銀河」は、4両の代わりに食堂車が入っています。この3列車が、東海道夜行のエリート列車だったのでしょうか。マロネ40の職用車への転用、私も園部で見たことがあります。