新幹線記事を切り抜く
新聞切抜きは、開業日を迎えた今回で終わる。
東海道新幹線は、オリンピックに間に合わせるため突貫工事で進められたと思われがちだが、新幹線の起工式が行なわれた昭和34年4月では、まだ東京オリンピックは決まっていなかった。逼迫した東海道線の救済目的であり、開業予定は昭和39年3月とされた。しかし、駅やルートは、すべては決まっていなかった。
翌年、昭和35年5月に東京オリンピック開催が正式決定される。オリンピックまでの開業は絶対条件となり、当初の完成予定からやや遅れたものの、オリンピックの10日前に開業を迎える。
着工からわずか5年で、時速200キロ以上で営業運転を行なう世界初の高速鉄道を完成させた。“この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された”と記された東京駅の新幹線記念碑が語るように、熱く燃えた昭和の時代だからこそ完成できた、東海道新幹線開業への道のりだった。
▲「京都に停車」の大見出しが躍る昭和39年8月19日の紙面。待望の超特急の京都停車が実現した。同時に、ダイヤや料金も発表された、開業の40日前。
▲軌道の敷設工事も終わり、全線の通し試運転が行なわれた。初日は東京~新大阪間10時間を掛けて走破した(昭和39年7月25日)
▲開業初日の予約切符もいっせいに発売される。京都駅の一番乗りは、同志社大学生と書いてあった(昭和39年9月10日)
▲明日から開業の日、その影で、東海道線の特急列車は全廃、私はその日の放課後、山科の大カーブへ向かっていた(昭和39年9月30日)。
▲昭和39年10月1日、東海道新幹線はついに開業した。テープカットするのは石田国鉄総裁、新幹線生みの親、前総裁の十河信二と、前技師長の島秀雄が開業式に呼ばれなかったのは有名な話。
▲開業日の社会面記事。一番切符の争奪戦にも触れているが、これに圧勝したのが、さきごろ亡くなられた、芦屋の模型コレクター。
▲最後に週刊誌ネタから。新幹線の飛び込み自殺第一号は平塚市の56キロポスト付近だそうな。柵も何もない試運転時、線路立ち入りは全く自由だった。
上から3番目記事、「超特急キップ発売」のネームに、一番乗りは同志社大生としましたが、その後の調査で、私のよく存じ上げている方と判明しました。その方は、当時、大学の観光研究会に所属、会員数人で一番列車に乗って、東京へ向かう計画を立てられたとのこと。なるほど50年前に、当会以外に、鉄道趣味団体があったのですね。さっそく、この新聞記事を送って差し上げました。
本文中に「オリンピックの10日前に開業を迎える。」との記述があるが、開業が10月1日、オリンピックの開会が10月10日でしたから、どう計算しても9日前のはずです。