「こだま」型 若き日の思い出 (2)

山科大築堤の「つばめ」

日本の基幹路線ともいうべき東海道本線の全線電化が完成したのは昭和31年のことで、電化を機に、当時の客車特急「つばめ」「はと」を凌ぐ高速列車の計画が立てられた。EH10を使った高速度試験も行われたが、従来の機関車牽引では限界があり、動力分散方式の電車を採用することになった。
こうして誕生したのが初の特急電車モハ20系、のちの151系で、昭和33年に東京~大阪間の「こだま」としてデビューした。すべてに画期的な性能・設備だったが、中でもボンネット型の前面形状は、今だに名車として語り継がれ、「こだま」型を強く印象づけている。
乙訓の老人は、Oさんの世話で「こだま」の試運転に潜り込むという幸運に恵まれ、車内で「こだま」を設計された星晃さんに会われている。その後「トレランス」号で星さんと再会され、「こだまの試運転に乗れたのは一生の思い出です」と礼を言ったと述懐されている。

その後、好評に答えて「つばめ」「はと」「富士」などが相次いで151系で登場したが、旺盛な輸送需要にはまだ追い付かなかった。そこで、全く新設の交流電化の広軌鉄道を建設し、抜本的な改善をすることになり、昭和34年に東海道新幹線が建設起工された。つまり、東海道本線では電車特急の増備を続けながら、新幹線の建設を進めるという、二重の投資をしていたわけだが、それほど輸送力の改善が急務だった。
こうして、昭和39年、新幹線の開業と引き換えに東海道本線の昼行特急は全廃となり、わずか6年で東海道本線から撤退することになる。子供心にもぜひ記録しておきたいという欲望がメラメラと湧いて来る。

中学生ながら“山科の定番撮影”にこだわった一枚。これで後部が切れていなかったら言うことなし  (昭和39年8月3日)

この時に初めて行ったのが山科の大築堤だった。京阪御陵駅で降りて、駅前の道を南下して築堤をくぐるトンネルの手前に上へ行く小道があり、なんの障害もなく築堤に上れた。
ここで写したのが「つばめ」である。他の「こだま」「はと」などと共通の編成であるが、ただ唯一、ヘッドマークだけが違っていた。他は白地にスミ文字のいたってシンプルなものだが、「つばめ」だけは上下のバック地がグレーになっている。由緒正しき「つばめ」の矜持にも感じられた。
客車時代の「つばめ」には全く記憶も記録も持ち合わしていない私にとって、「つばめ」と聞いて真っ先に思い出すのは、151系の「つばめ」である。
最終日となる昭和39年9月30日も、中学校から帰ってすぐに山科に駆けつけている。前にも書いたが、その時に築堤にいたのはほんの2、3人だった。とくに最後の「こだま」を見送るときは先客も帰ってしまい、私一人で、本日最後の東海道本線の電車特急を見送った。その「こだま」は、フィルムが切れてしまい、写せなかったが、夕闇の大築堤を、赤いテールライトが過ぎ去っていく光景が、今も記憶の片隅に残っている。

最終日、山科の大築堤を下って行く「第二つばめ」。つぎの日は東海道新幹線の開業日、10日後には東京オリンピックが開かれる、日本の歴史を刻んでいく日々だった(昭和39年9月30日)

 

「こだま」型 若き日の思い出 (2)」への2件のフィードバック

  1. 特派員さん、「こだま試運転」に乗れたのは当時御世話になっていた奥野利夫さんに誘っていただいたからです。あちこちで老人は話すのですが、高、大学生時代、奥野さんに加え高山礼蔵さん、高橋弘さんに「鉄道」について個人レッスンを受け育ちました。DRFCが出来たのもこの御三方のバックアップによるものと思っています。何時も三師匠といっています。

  2. 失礼しました。Oさんと書いてあり、てっきり大西さんかと曲解していました。
    お三方については、「師匠」と呼ばれていること、よく聞かしていただきました。一度、お三方との交遊録についても、この掲示板でご披露いただければと望んでおります。

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