「こだま」型 若き日の思い出 (1)

京都駅の「こだま」

ボンネット形の「こだま」型電車の定期運用がいよいよ3月改正で消えると書いた。昭和33年の151系「こだま」のデビューから数えて半世紀あまり、ついに輝かしい歴史に幕を下ろす時が来た。
デビュー当時の「こだま」型は、撮影の対象というより、乗りたくても乗れない憧れの列車だった。山科の人間国宝は「展望車に乗るのが憧れでした」と折に触れて語っておられるが、私にとっては、まさしく「こだま」型がそれに当たる。そう思いながら、古い鉄道写真アルバムを繰っていると、第一ページにこんな写真が貼ってあった。

京都駅1番ホームの上り「第一こだま」 東京方のクハ151

昭和36年8月3日7時30分、上り「第一こだま」、小学6年生の腕ではさすがに稚拙な写真だが、特徴あるホーム屋根の形状から京都駅と分かる。この日、京都駅の一番ホームに私はいた。と言っても「こだま」に乗った訳ではなかった。
8月の中旬に家族で伊豆箱根への旅行を計画していた。その下調べに、父とともに京都駅へ来たのである。この頃の東海道本線は、逼迫する輸送需要に追いついていなかった。「こだま」が昭和33年にデビューし、その後も「つばめ」「はと」「富士」と電車特急「こだま」型が増発されたものの、電車特急の人気は高く、2週間前発売の指定券はすぐに売り切れていた。ダフ屋が横行していた時代で、何倍もする特急券を泣く泣く購入せざるを得ない。
勢い、自由席のある急行に目が向くが、これも夏のシーズンなどは満員になる。とくに京都から東上する場合、大阪で乗り込まれると、座れる可能性は極めて低い。この頃の交通公社の時刻表には、急行・特急の月旬ごとの前年の乗車率が載っていた。8月号を見ると、東海道本線の主要な急行は、軒並み100を超していた。
そんな状況の中で、実際それを確かめに京都駅へ来て、乗るアテもない「こだま」を写したということである。
これほど左様に、当時の「こだま」型は、日本国民すべての憧れでもあったのだ。ちなみに、その旅行、急行の利用はあきらめ、結局、京都発の普通列車を乗り通し、約10時間かけて沼津に着いた。

「こだま」型 若き日の思い出 (1)」への2件のフィードバック

  1.  そうですか。こだま型ボンネットが定期運用から消えるのですね。小生も名古屋からいつもの準急「比叡」をやめて151系の「第一つばめ」に乗車したことを思い出しました。窓が開かず、えらい静かな走行音を感じたものでした。それにしても、当時の小学生にしては立派な写真ですね。この写真では人物を入れたりする等、今日の総本家さんの撮影技術の片鱗を感じます。ところで、総本家さんは同じ昭和36年撮影の京都市電北野線を発表されていましたが、若し、その年が撮影元年とすると小生と同じです。小生の初撮影は宝塚でのC11316です。小学生ではなく、高校生になっていました。是非、また、昭和30年代の作品を期待しております。

  2. 暖かいコメントをいただき、ありがとうございます。
    小学6年生の当時、もちろん鉄道写真を撮っているという意識はなく、たまたまアルバムの第一ページに貼ってあったので、この「こだま」撮影を鉄道写真の第一号と自分で勝手に認定しているだけです。
    「スタートカメラ」という、当時数百円のカメラで、シャッターと絞りにそれぞれ「明るいとき」「暗いとき」という目盛りがあるだけのカメラでした。金持ちの子供は、千数百円するフジペットを持っていましたが、ウチにはこれしかありませんでした。それでもクラスでまだカメラを持っている子供は少なく、遠足にカメラを持って行くと、撮ってくれとせがまれたのを思い出します。

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