「こだま」型 若き日の思い出 (4)

昭和30年代後半になると各地の幹線で電化が推進される。その多くは交流電化が採用され、直流区間にも乗り入れ可能な交直両用の特急用車両が計画された。「こだま」型の人気は絶大で、地方からも「こだま」型電車の到来が待ち望まれていた。
このような背景で生まれたのが、「こだま」型の交直両用電車、60Hz用481系、50Hz用483系で、それまでのDC特急を置き換えたり、新設の特急を誕生させた。
その嚆矢として、北陸本線に「雷鳥」(大阪~富山)「しらさぎ」(名古屋~富山)各1往復が、昭和39年12月から走り始めた。もともと、東海道新幹線開業の同年10月から運転予定で列車ダイヤにもスジも入れられていたが、肝心の車両が間に合わず、年末からの運転開始となった。

山科大築堤を行く、運転開始間もない「雷鳥」。わずか1往復の運転で「第◎雷鳥」でも「雷鳥◎号」でもない、ただの「雷鳥」

 初めての481系も山科で撮っている。151系に比べて床面が高く、その分ボンネット部が圧縮され、ややズングリした印象であるが、60Hz用を示すためスカート部が赤に塗られたのが新鮮だった。今まで電車とは全く無縁だった北陸本線に「こだま」型が走り、しかも京都で見られるとは、大変な嬉しさだった。その後、さらに151系と識別を容易にするため、昭和40年10月改正増備車からは481系、483系ともに赤い”ヒゲ”が入れられた。
北陸に待望の「こだま」型が走ったのだから、その人気ぶりは伺えようというもの。改正後ごとに「雷鳥」「しらさぎ」は増発が続けられ、昭和53年10月改正では、「雷鳥」19往復、「しらさぎ」6往復、計25往復となった。481系の増備車は貫通型になり、すべてが「こだま」型ではなかったし、一部は581系も含まれるものの、たいへんな数の「こだま」型が北陸路を駆け巡った。ボンネット型の「雷鳥」は平成16年まで残り、実に40年もの歴史を持ち、特急の中では最長となった。

湖西線が昭和49年にできるまでの「雷鳥」は米原回りだった。田村駅の南方、現在の長浜ドーム前付近を行く

赤ヒゲの入った「しらさぎ」。米原を出てすぐの北陸本線。当時は田園が広がり、すがすがしい光景の中を行く、「こだま」型はますます美しかった

「こだま」型 若き日の思い出 (4)」への2件のフィードバック

  1. 151,161→181系の活躍は鮮烈でしたが鉄道事業者としては481系の存在は的を得たものとして、実に40年以上の長期運用に耐えました。
    北陸線の存在基盤としては、「白鳥」と「雷鳥」の登場以来の発展は目覚ましいものがあり、福井/石川/富山の3県はこの2列車の名跡に足を向けて寝ることはできないのでは(笑)、いや新幹線級以上の貢献があったと思います。
    比較で分が悪いといえ山陰線の「まつかぜ」「あさしお」が同じ時系列スパンの中で存在が弱く、伯備線回りの「やくも」と高速バス網に取って代わられたことを思えば、481「雷鳥」の成功は日本の鉄道史で高く、輝く評価を与えるべきでしょう。

    名古屋人でないので「しらさぎ」の存在は米原あたりにいかないとピンとこないのですが、中京圏と北陸圏の経済的つながりも大きいです。
    中日新聞と北陸鉄道あたりの名鉄のセコハン電車の分布を見て旅行者は経済圏の重なりにうなずいたものです。

    交流電化の採択という技術インノベーションについて、半世紀後の検証が要るといつも思うのですが、気動車特急(キハ82系他)より交直流型電車特急(481系他)の長き使用に耐えたことは世界の鉄道技術史上においても特筆すべき成功例だと日本人、鉄道ファン、地元で恩恵を受けた地方出身者は考えを新たにすべきで基本認識が要ると思います。

    鉄道に対する思いは人気贔屓だけでなく、社会性や通史的な客観評価を持って語るべきでないかと、このボンネット型特急の発展型について感じたのでコメントしました。

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