河さん、準特急さんの要望に応えるべく1959年前後のNEOPAN SSを透かし見て選び出してみた。画調が一定しないのは、その日の天候に勘頼みの露出が追随しなかったこと、自家現像によるスカタン等、もろもろの原因に起因する事であるのでお許し下さい。(その1)は尼崎車庫での撮影である。この時期、老人以外にも車庫訪問した先輩方が沢山おられ、同じ角度で撮影された画も多い。珍しいものではないと思うがその昔、須磨の大人が「50年もすれば貴重な記録になる」と言って、預けておいたフィルムを渡してくれた事が思い出される。ほとんどオシャカになった中で、先日紹介の淡路交通、神戸電鉄は生き残り組の一齣である。
阪神電車本線系の客車は普通系と急行系に分類される。1959年10月1日現在(以下、基準日)のメモに基付いて話を進めてみよう。普通系とされた車種は601、701、1001、1101、1111、1121、1141号型の7群である。共通点は主電動機が37.3Kw(600V)×4個、連結器がトムリンソン、制御器が701号型を除きGE、東芝のPCかPM型自動加速式、制動装置はAMMで、SMEであったものは戦後AMMに改造、長編成化に備えた。701号型は支線用で、主電動機出力は同様、制動装置はRL-7型非常弁付きの直通制動(SME)、制御器はGE・MK 型手動加速式であった。基準日には709号1両が貨車(事業用・救援車)として残存していた。1958年度末に702、707の2両が残っていたが、1959年5月7日廃車となり本線系統(伝法、海岸、武庫川線を含む)から姿を消している。急行系は801、831、851、861、881号型の5群で、共通点は主電動機が48.5kw(600V)×4個、連結器はバンドン、制御器はGE、東芝のPCかPM型自動加速式、制動装置はAMMであった。
基準日に本線上をどれだけ疾走していたのか、普通系は601号型原型12両復旧型6両、1001号型7両、1101号型系47両、計72両で、急行系は801型原型25両、復旧型4両、831型原型14両、復旧型6両、851型7両、861型16両、881型29両、計101両、合計173両となる。3車種について原型と復旧型があるが、復旧型とは被災車復旧に当り車体前頭(乗務員室部分)に手を加えたものである。その姿は写真を見て頂ければ一目瞭然である。被災とは火災、戦災などで焼失した車両を、一旦廃車手続きをした後に復帰させ、台枠などを再用し新設計の車体を造ったものである。終戦直後の混乱期、新車は63形以外認められない時代にとった苦肉の策である。
尼崎車庫へ調査に伺った時、目に止まった車両を許可なしに撮影した。咎められることなく、京阪守口車庫での行為と同じである。今では考えられないことが許され(放任)ていたことになる。比較的写りの良いものとしたので全型式となっていないが、欠けたものは(その2)の走行写真でお許しを乞うことにしよう。尚、5001、5002号は新造ジェットカーと併結可能工事のため入場中のもので、残念ながら走行する姿を見つけることは出来なかった。
乙訓の老人様
しょっぱなに小生の名前が出てきてビックリ!と同時に、小生ごときを気にかけていただき、ありがたい事と感謝しております。
5001・5002の貴重な写真を見せていただき、ありがとうございます。この写真を待っていました。
この当時、阪神(電車)ファンの友人が、えらい自慢しながら自分で撮った写真をくれたのですが、当時は国電至上主義だったので気にも留めておらず、その内貰った写真を紛失してしまったようです。ただ、側面の前半分の塗り分けデザインに、いたく感じ入ったのを覚えています。
バンマス運転台?の801形は前面の丸妻が突き出ているのが印象的でしたし、『喫茶店』の851形などはモダン(この単語はもう死語ですか?)な感じが独特でした。
ドアステップは無粋でしたが、夕闇の中をオレンジのランプをキラキラさせながら駆け抜ける様は目に焼きついております。
ところで、アップされた861ですが、幕板部の小窓が埋められているように見えますが・・・。
そうですね、昔は電車区でも撮影中に咎めを受けた事は一度も無く、さらに築堤上など線路内に入るのも柵や網も無く自由でしたね。当然こちらも細心の注意と迷惑をかけぬよう気遣って撮影していましたし、当時はカメラを構えていれば職員の方々から親しげに声がかかり、案内してもらった事も度々でしたよ。
最近良く言う『自己責任』と言う言葉も無く、それは当然の事だった上に、『他人に迷惑をかけない』は殊更言うようなことも無い常識でした。
ただ一度、山科の築堤で肝を冷やすと同時に機関士に迷惑がかかってしまった事がありました。
気の緩みで京津線をオーバーするガードを『ご法度』の進行方向側線路を京都側に渡ってしまい、運の悪い事に風が前から吹いていたこともあって、後ろから来る58の牽く下り列車音に気付ずホイッスルを吹かせてしまうスカタンをやらかしました。
短いガードなので渡り終わってはいましたが、58は結構近くに迫っていたような気がします。
当然、事前に時刻表をチェックしていた筈でしたが『魔がさした』んですかね。
これは、今だからの笑い話(…と片付けるのは不謹慎?)でした。
2番目にご指名をいただき有り難うございます。阪神旧型鋼製車には閉店間際の喫茶店にぎりぎり間に合った感じで最晩年のラッシュアワーでの撮影が最初で最後でした。私は阪急今津線育ちですが、たまに甲子園球場に出かける時は今津から普通系の3連で実につまらん電車でした。しかし、今津の踏切で見た急行はパンタを沢山あげ、ステップにはライトがついて実にかっこよく走り抜けて行ったものです。阪急今津線育ちですので500、300型等15mのステップつき電車は鈍足の粗悪車に見えましたが、阪神の特に851型は同じ15mステップつきでも阪急のそれとは雲泥の差を感じたものです。もっとも阪急500型は大正生まれの51型のモーターや台車をたらいまわしされた可愛そうな電車ではあります。阪神旧型鋼製車はその後、京福(福井)、叡電、野上、琴電、淡路で撮影した程度でして乙訓の老人様との年齢差、電車への執着度の差は歴然としています。今夏甲子園駅を久し振りに眺めましたが、狭い地下道は昔と変わらずそのままで野球が終わった後はさぞ大変であろうと思いました。藤川球児と金本の看板が出ていましたが、心なしか寂しげに見えました。懐かしい時代の阪神電車有り難うございます。
3番目に名前が書かれていなかったtsurukameです。懐かしい旧型車をありがとうございます。小学1、2年頃、よく851型”床屋”の手すりにつかまり出屋敷から三宮に向かったものでした。神戸の叔母の家へはルートが三通りありました。阪神本線と国道線と省線電車です。三宮からは神戸市電で平野まで。小学校一年生から一人でよく行きました。
加齢の影響か、最近昔日のことをよく思い出します。前にもコメントしましたが、3~4歳のころから住まいの近くの電車を見ていたわけです。上記三通りに続き、目にしたのが神戸市電、山陽電車の順となります。悔やまれるのが阪神本線の旧型車を撮影していなかったことです。1960年ならまだ旧型車を撮影できたのに、山陽電車の沿線に越したために、出かけなかったのです。国道線はさすがに少し撮影していました。これも脇の浜あたりがなくて残念がっています。国道線は、乙訓の老人の阪神記事終了後投稿します。