元会長より、同年輩の関さんに失礼のないように新聞掲載稿に対応するように命じられた。先日の「あやかりたい」とした真意は、日本の鉄道界は電車時代になった喜びを共にするためでした。今回、元会長から老人に与えられたテーマは、阪急2800型と国鉄117系の比較をするようにとの提案であったが、今も現役車が残っているので遠慮させて頂きたい。ふと思ったのがデジ青2014年5月12日付きで掲載された遠州鉄道モハ1型の話だ。須磨の大人が珍しや日本の電車を紹介しているが、車庫事務所でお邪魔虫となった老人が聞いてきたことで、デジ青【47254】の後追いする事にさせていただきたい。
こんな話が昭和の電車で披露されている。【遠州鉄道1型がT客車3両を牽いている姿がのこされている。】少し飛んで、【M車はいわば機関車的な役割で客車を牽くことが前提とされていたので、車体に似合わぬ400馬力が採用されたというわけだ。】これには参った。お邪魔虫が車庫で見せてもらった竣工図表では出力78,33kw×2となっていた。これを馬力に概算すると104.44HP(HP=馬力)×2=208馬力となる。これを倍勘定すれば400馬力となるが、どなたか知らないが、人を惑わせる事を言ったものだと思っている。竣工時はホ1号型となっており、戦後モハ1型と改称されている。
老人が初めて遠州鉄道を訪ねたのは1959年9月11日であった。アルバイト先であった氷屋の配達を10日午前中で打ち切り、その日の夜行列車で浜松へ向かった。かねて計画していた東北の電車探訪の行きがけの駄賃に遠州鉄道を加えていた。普通列車が朝7時20分に到着するやコッペパンと牛乳を求め西ヶ埼車庫に急いだ。車庫に繋がる線には3号が留置されていた。丸い前頭部は何となく叡電1型を思わせるが、車庫では大正12年生まれと知り敬意を表することになった。
5両の一期車は日車製のブリルMCDタイプの台車で、各台車1個の主電動機を装備していた。その電動機は東洋電機(㈱)の初期のTDK501Aで、先の400馬力電動機事になるのだろうか?二期車2両は訪問時には在籍していなかった。この2両と一期車1両の3両は、いずれも主電動機はその後の新造車に転用されていた。残る4両だが2両(1、2号)は制御器は総括式間接方式の日車製品に変更され2両1編成となり、ラッシュ専用となった。2両(3、5号)は車庫入換車となった。6、7号はいずれも制御電動車増備に合わせ主電動機は転用され、6号のみ制御車クハ71号として生き残った。
ホフ→サハ107号は元出石鉄道ハ二フ2001が1943年に転入して来たもので、戦時体制下での輸送力向上によるものである。この年には鋼製電動ボギー車2両を新造しているが、沿線にスズキ、本田、ヤマハの軍需工場を擁しており、そのために鋼製新造車が認可されたものと思われる。訪問の時は従業員の通勤用自転車置場となっていた。
201、202号の4輪貨物電車2両(日車・大正13年7月製)があった。自連を装備、主電動機は600V・53,71KW×2の出力で単車としては強力なものであった。西ヶ埼、西鹿島駅構内で国鉄直通貨車の入換え作業を担当していた。
貨物列車牽引用にはED211、ED212の2機が準備されていた。前車は昭和26年7月10日・日鉄自動車製で、600V・74.6KW×4、後車は製造年月不詳、東芝製で西武鉄道更新修繕・昭和31年12月の強力機、600V・93KW×4とある。これらから貨物輸送も大繁盛であったといえる。
今回はこれまでとし、次回はその後の旅客用車輛の変遷紹介としよう。