デジ青【17434】2012年1月13付で須磨の大人から1971年4月12日に廃止となった軌道線について「出番でっせ!」と尻を叩かれた。目下幽閉の身であるので身動きできない、解放後に後塵を浴びさせてもらうとコメントを入れてから4年半近くなる。その間、身辺に……、言い訳が多い気ままな生活を送ってきたことで申し訳ない。そこで福島について思いを寄せてみた結果、、貨物列車が2ケ所から郊外に向けて運行していたことに思い当った。小学生の頃から京阪電車が天満橋~塩小路貨物駅間で貨物電車を走らせているのに興味を持っていたが、1955(昭和30)年6月25日に営業廃止となった。関西では近鉄、南海で残っていたが、両親の出生地、つまり田舎と現在の生活拠点の京都を結び種々雑多な物品が「小口便」と称するもので行きかいしていた。兄の結婚相手は近江八幡の人で、こちらは「飛脚便」で行き交いしていた。祖母は小口便を「チッキ便」と呼んでいたが、その違いはここでは触れない。
福島駅には深夜の到着。夜明けと共に日本食堂で定食を腹に納め、駅で車庫の在り処を聞くや48円のキップを購入、聖光学園前に向かった。狭い街路をごろごろ走るうちに三角分岐の長岡分岐点に到着した。車庫へは東(奥地)からの電車に乗り換え、キップは伊達まで有効だと運転手に教わったが、接続する電車は1時間毎、徒歩なら20分ぐらいと言われ歩くことにした。国鉄東北本線伊達駅との連絡駅(停留所)である聖光学園前は日本では珍しいデルタ状配線になっており、長岡車庫連絡線以外に国鉄線と平行する自社線があった。とりあえず車庫にお邪魔して先ず沿革をお伺いした。そして車両の主要要目を筆記するうちに車体巾の数値に驚いた。なんと1676粍とある。乗っていた電車では「かぶりつき」で気付かなかった。それまでに乗った電車では下津井電鉄2080粍が最も狭い車体巾であった。
長岡分岐点の入換え光景は楽しかった。福島駅ではどんな荷積みが見られるか、それが楽しみで向かったが、着いてみると終っていた。写:野崎氏撮影
乙訓の老人様
毎度貴重な記録を有難く拝見させていただいております。私にとって福島軌道などは鉄道先史時代のことのように感じますが、1971年の廃止なら撮って撮れないことはなく残念に思います。当時はとにかく蒸機を狙っており地方私鉄や軌道線の姿は撮り逃しています。ところで一般的な営業車両で最も車体巾の狭いのどこの何型だったのでしょうか。明延鉱山の1円電車は狭かったですがあれは一般的営業車ではないように思いますし、個人的には花巻の馬面電車あたりかなと思います。沼尻なども狭かったような気がします。
準特急さん、コメント有難う。明延は見ただけで乗っていないからなんとも言えない。沼尻は旦那を筆頭に須磨、大津、乙訓の4人で1964年正月に乗りました。車内満員で最後部の火鉢を真中に据えた無蓋車で終点の沼尻まで行きました。雪がチラチラ、四等車ではなく特五等と名付けての行軍だったことを思い出します。須磨さん、写真ありませんか?車内寸法は花巻より狭かったのではなかったでしょうか。須磨さんの出番ですぞ!