スクラップブック 事件・事故編・第2回 投稿日時: 2023年11月16日 投稿者: 米手作市 最初に宮崎さん、またお助け下さい! この事故の日にちを教えて下さい。 この頃の鉄道は衝突や追突が多かった。 さらにダンプやトラックとの踏切事故も多かった様に思う。 やがてATSや踏切防護信号が整備されるに従い減ってきたが。 1960,9,13 1960,10,2 1960,11,2 ⇧こんなユーモラスな事件もあった。 1960,12,30 ⇧年の瀬も押し迫った30日の事故はつらい。 1960,12,31 ⇧サンパチ豪雪ではありません。 1961,1,14 ⇧年が明けた昭和36年早々の大事故だ。鶴見事故ではない。70系の潰れ方がよく似ている。 1961,1,17 1961,1,18 ⇧東西でダンプ事故。(続く) この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: スクラップブック 事件・事故編・第1回 スクラップブック 新幹線編・最終回 スクラップブック 5 新幹線編 スクラップブック 4 新幹線編 スクラップブック 3 新幹線編 スクラップブック 2 新幹線編 スクラップブック 1 新幹線編 【近日公開】スクラップブック
米手作市さま いやぁ多彩な事故記事ですね。殆どを知りませんが覚えているのは一つ二つくらいです。羽越線の「日本海」事故機はC571号機でしたね。無事復旧された時には1号機だからとか、将来の無煙化計画はあるが当面の機関車需給から、というようなコメントが溢れていたように記憶します。何はともあれ復旧されたおかげで梅小路保存機に選ばれ、更にはSLやまぐち号の先頭に立つこともできたことを考えると、何事もヘコタレたり諦めてはダメとの示唆に富んだ教訓だと思うのは考え過ぎでしょうか。 南海の凸型電機事故も覚えています。記事に「貨物電車」とありますが、地方私鉄に「らしき」ものはあったように思うものの、正式?な貨物電車は百奇(鬼ではない)夜行の佐川急便貨物ではないかと思います。この事故は恐らく信号の見落としだと思いますが、そのころの南海では更に同種事故があったように記憶します。場所は泉南の駅(失念しました)で、急行電車の通過直前に信号を操作して凸型電機による貨車入換をしようとして衝突したものでした。当時は転轍手が操作すればいつでも信号変換・ポイント切替ができたので、列車接近に気づかなければ直前切替でこういう事故が起きることはありました。勿論ある一定距離内では禁じられていたはずですが、両事故からは日常的にこのような危険な業務が行われていたことが窺われます。小生はこちらは知っていましたが紀ノ川駅の事故は知りませんでした。 余談ですが南海ではこの他にも男里川付近でダンプカーと衝突した事故もありました。運転士が自分の子供を添乗させていて寸前に抱き抱えて運転室から飛び出してきた、と報じられていました。相当規律が緩んでいたようです。 なおこの凸型電機は貨物営業廃止後三重県南島町(当時。現在は南伊勢町)に在った国見山鉱山鉄道に売却されて余生を送りました。亡きプルプルさんのお気に入りでしたから、何度か一緒に訪ねました。凸型電機の牽く鉱山貨物は楽しかったのですが、紀勢東線川添駅付近から物凄いヘアピンカーブの山道を越えていく道中に辟易した記憶があります。峠の前後で酔い覚ましの休憩を所望しての難行苦行でした。 ダンプカーとの衝突事故では他には時期不詳ですが、函館本線発寒?付近と予讃本線鬼無付近でのDCとの事故がありました。 返信 ↓
宮崎繁幹さん、 ありがとうございます。 これは便利ですね。 新聞記事にあったダンプ運転手の同乗者、当時二歳の娘さんはどうなったのでしょうね。失明の可能性があるとのことですが、健在なら65歳、大事ないことを祈るばかりです。 返信 ↓
米手作市さま
いやぁ多彩な事故記事ですね。殆どを知りませんが覚えているのは一つ二つくらいです。羽越線の「日本海」事故機はC571号機でしたね。無事復旧された時には1号機だからとか、将来の無煙化計画はあるが当面の機関車需給から、というようなコメントが溢れていたように記憶します。何はともあれ復旧されたおかげで梅小路保存機に選ばれ、更にはSLやまぐち号の先頭に立つこともできたことを考えると、何事もヘコタレたり諦めてはダメとの示唆に富んだ教訓だと思うのは考え過ぎでしょうか。
南海の凸型電機事故も覚えています。記事に「貨物電車」とありますが、地方私鉄に「らしき」ものはあったように思うものの、正式?な貨物電車は百奇(鬼ではない)夜行の佐川急便貨物ではないかと思います。この事故は恐らく信号の見落としだと思いますが、そのころの南海では更に同種事故があったように記憶します。場所は泉南の駅(失念しました)で、急行電車の通過直前に信号を操作して凸型電機による貨車入換をしようとして衝突したものでした。当時は転轍手が操作すればいつでも信号変換・ポイント切替ができたので、列車接近に気づかなければ直前切替でこういう事故が起きることはありました。勿論ある一定距離内では禁じられていたはずですが、両事故からは日常的にこのような危険な業務が行われていたことが窺われます。小生はこちらは知っていましたが紀ノ川駅の事故は知りませんでした。
余談ですが南海ではこの他にも男里川付近でダンプカーと衝突した事故もありました。運転士が自分の子供を添乗させていて寸前に抱き抱えて運転室から飛び出してきた、と報じられていました。相当規律が緩んでいたようです。
なおこの凸型電機は貨物営業廃止後三重県南島町(当時。現在は南伊勢町)に在った国見山鉱山鉄道に売却されて余生を送りました。亡きプルプルさんのお気に入りでしたから、何度か一緒に訪ねました。凸型電機の牽く鉱山貨物は楽しかったのですが、紀勢東線川添駅付近から物凄いヘアピンカーブの山道を越えていく道中に辟易した記憶があります。峠の前後で酔い覚ましの休憩を所望しての難行苦行でした。
ダンプカーとの衝突事故では他には時期不詳ですが、函館本線発寒?付近と予讃本線鬼無付近でのDCとの事故がありました。
1900生さん、
詳細をありがとうございます。
ダンプとの事故はこの後も続々出てきます。
ご期待?ください。
米手様よりお尋ねあった、関西本線の事故の日付は、昭和37(1962)年3月25日です。事故編・第1回へのコメントで御紹介した本の該当部分を、ご参考までに付しておきます。
宮崎繁幹さん、
ありがとうございます。
これは便利ですね。
新聞記事にあったダンプ運転手の同乗者、当時二歳の娘さんはどうなったのでしょうね。失明の可能性があるとのことですが、健在なら65歳、大事ないことを祈るばかりです。