広島市佐伯区に保存されていたクモハ73383の前頭部が修理されるとのこと、旧形国電ファンにとっては喜ばしい限りである。
同じ場所に保存されている筈のEF5836も気になるところである。
こちらは貴重な7枚窓機で、車体の3分の2が台車を含めて保存されている。
西村氏より「解説せよ」との要請があり、判る範囲で解説する。
昭和24年8月汽車会社でモハ63811として新製後、池袋区に配置され山手線で使用された。25年3月下十条区に転属して京浜東北線で使用され、28年7月の更新修繕でモハ73383に改番された。引続き京浜東北線で使用され、46年6月広島区に転属して呉線で使用された。53年度呉線が新性能化されると可部線に移り、59年7月12日付けで廃車になった。
クモハ73383/ (50-3-2) 広島 故芝生將行氏撮影
私は撮り損ねたので、国電研究の大先輩、故芝生將行氏が撮影された画像を奥様のご了解を得て掲載した。
呉線の電車
非電化時代の呉線はC59、C62の牽く客車列車が走り、準特急先輩、特派員氏はじめ多くの会員がその雄姿を撮影されておられるが、45年9月15日電化後の写真は、蒸気機関車時代に比べると少ないように思う。
電化時に東京地区の73系電車をお色直しして投入したことも不人気の一因であったかも知れない。
呉線で活躍したクモハ73383に因み、呉線の電車の画像を掲載した。
クモハ73051他4連/ (48-1-28) 広島
基本編成3連+クモユニ74。基本編成は、クモハ73+サハ78+クモハ73、またはクモハ73+モハ72+クハ79の3連であった。
クモユニ74105/ (48-1-28) 広島
上記の反対側。前身はモハ72135で、40年8月幡生工場で改造。
クモハ73090他6連/ (48-1-28) 広島
基本編成を2組併結した6連。
クモハ73148他9連/ (48-1-28) 広島
基本編成を3組併結した9連で、京浜東北線顔負けの編成である。C59、C62の牽く客車列車より大幅な輸送力増強になったと思われる。
クハ76306他8連/ (52-4-2) 広島
山スカ形は、朝夕のラッシュ時間帯に残っていた客車列車の電車化のため、51年1月から3月にかけて三鷹区から転属してきた。
クハ76、クハ79、モハ72の3扉、4扉の混合編成の三原行。
クモハ73148/ (48-1-28) 広島
前身はモハ63804(24年2月川崎車輌)で、26年4月東急車両で更新。
台車はDT14を履いていた。
モハ72503/ (52-4-2) 広島
28年1月東急車両で最初からモハ72として新製された。Hゴムは使用されず、63形の面影を残していた。
49年3月高槻区から転入したが、窓改造はされず最後まで3段窓のままであった。
モハ72510/ (50-2-2) 広島
27年12月日本車輌製。戸袋部の窓がHゴム改造されていた。49年3月高槻区から転入したが、塗装は茶色のままであった。
モハ72684/ (48-1-28) 広島
31年7月近畿車両製。46年11月広島工場でのアコモ改善工事で窓の2段化が行われた。
モハ72692/ (48-1-28) 広島
31年9月日本車輌製。47年4月広島工場でのアコモ改善工事で窓の2段化が行われたが、72684とはサイズが異なる。
モハ72934/ (48-1-28) 広島
32年6月近畿車両製。広島区のモハ72では唯一の新製全金属車であった。
クハ79446/ (52-4-2) 広島
31年9月日本車輌製。51年にクハ76、モハ71と一緒に三鷹区から転入した。
クハ79501/ (52-4-2) 広島
32年2月近畿車両製。クハ79482として新製され、47年3月幡生工場でトイレを設置した時に改番した。
クハ79とサハ78にはトイレが設置されたが、改番されたのはこの車両のみであった。
クハ76051/ (52-1-2) 広島
26年10月川崎車輌製。正面窓が最後まで木枠のままであった。
クハ76057/ (52-4-2) 広島
28年2月日本車輌製。正面窓は当初からHゴムであった。
クハ76306/ (52-4-2) 広島
32年12月汽車会社製。広島区のクハ76では唯一の新製全金属車であった。
クハ76351/ (52-1-2) 広島
32年5月横須賀線の踏切事故で大破したクハ76005を33年6月大井工場で全金車体を新製して復旧した。
藤本様
わざわざ芝生氏の写真まで引用して頂き、お手数をおかけしました。EF58の方も相当傷んでいるようですし、費用面を考えると復元は無理なのではと思わざるを得ません。ところで私が三原に来たのは昭和50年4月で、山陽本線は80系、貨物はEF15が活躍していました。呉線の記憶はあまり無いのですが、クハ76がいたのですね。瀬野八のEF59や糸崎臨港線、尾道臨港線など身近なものほど写しておらず、今になって悔やんでいます。
西村雅幸様
コメント有難うございます。
クハ76(一部クハ79)、モハ71(一部モハ72)の編成は、8連(4+4)1本、10連(4+6)3本あり、8連が三原、糸崎まで行っておりました。夜到着して早朝発車していましたので、見かける機会はなかったのではないかと思います。一方10連は広島~広間の他、小郡まで1往復しておりました。
呉線の旧形国電の最終日は、昭和53年12月19日、糸崎発広島行921M(クハ76+モハ71+モハ71+クハ76+クハ76+モハ72+モハ71+クハ76と記録されています。
クハ76とモハ71が呉線を走ったのは僅か2年半でした。
藤本様
昭和53年頃は糸崎駅からそう遠くない社宅住まいでしたが、76や71が糸崎で夜明かししていたのは知りませんでした。耳をすませると 深夜通過してゆく夜行列車や貨物列車の響きが聞こえていたことを思い出します。あれから35年も経ったことがうそのようです。度々の解説ありがとうございました。