小湊鐡道キハ5800型に寄せて

My beautiful picture


キハ5801/ (45-3-13) 五井機関区
関さんのイラストと比較すると、後日の改造によりヘッドライトが2灯化されている。

「昭和の電車」3月16日【83157】で、小湊鐡道キハ5800形が紹介されたので少し補足したい。

小湊鐵道キハ5800型


キハ5800形(5800・5801)は、昭和35年、国鉄から譲り受けた電車、クハ5800、5801を日本車輌でDMH17C形ディーゼルエンジンと液体変速機を取付け気動車化した車両で、台車は、元々履いていた明治45年式釣合梁式鉄道院電車形台車をコロ軸受化等の改造を行った上で使用した。
車号は「クハ」を「キハ」に変更したのみでそのまま使用した。
前歴は、大正時代まで遡り、下記の通りである。
キハ5800
鉄道院デハ二6463(大正3年)→デ二6458→モニ3009(昭和3年改番)→三信鉄道デ101(昭和11年譲渡、鋼体化)→デ301(昭和16年改番)→鉄道省デ301(昭和18年8月1日買収)→クデハ301(昭和26年更新修繕クハ化)→クハ5800(昭和28年6月1日改番)→昭和34年2月廃車→小湊鐡道キハ5800→平成9年3月廃車
キハ5801
鉄道院デロハ6136(大正3年)→デハ6370→デ二6459→モニ3010(昭和3年改番)→三信鉄道デ102(昭和11年譲渡、鋼体化)→デ302(昭和16年改番)→鉄道省デ302(昭和18年8月1日買収)→クデハ302(昭和26年更新修繕クハ化)→クハ5801(昭和28年6月1日改番)→昭和34年2月廃車→小湊鐡道キハ5801→昭和53年1月廃車
キハ5800は、廃車後も五井機関区の庫内に保管されているが非公開である。
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「国鉄157系」に寄せて


昭和39年8月23日 京都駅に進入する「ひびき」

関 三平氏のイラストともに米手作市様と湯口先輩が撮影された「ひびき」が公開されたが、いずれも短かった非冷房時代の貴重な画像である。
157系は、昭和34年にクモハ157、モハ156が1~5の5組、サハ157が2両(1・2)、サロ157が2両(1・2)の14両、35年にクモハ157、モハ156が6~10の5組、サハ157が3両(3~5)、サロ157が3両(3~5)の16両、38年にサロ157が1両(6)の計31両新製された。尚、貴賓車のクロ157は35年に新製されている。
35年製と36年製は、準急用ということで冷房の設置は見送られ、準備工事のみであったが、37年度予算で取付けが行われ、38年1月から工事が始まった。38年製のサロ157-6は当初から冷房付で新製された。

関 三平氏のイラストの「ECAFE SPECIAL」号が運転されたのは、昭和38年4月15日のことで、編成は下り方向からクモハ157-1+モハ156-1+サロ157-6+サロ157-4+モハ156-2+クモハ157-2であった。
以上のことから「関さんのイラストは冷房がついてまへんで、おかしいのとちゃいまっか」とツッコミを入れる方がおられるかもしれないが、「鉄ファン」「ピク」のバックナンバーは京都の実家の物置のため確認できていない。手近に取り出せる方は是非確認をお願いしたい。
冷房改造後の157系をご覧いただきたい。

クハ157-6/(39-8-23)
正面のデザインは、185系、117系に踏襲されたのかどうかは判らないが、似ていることは確かである。

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「こんなモンありまっせ!」に寄せて(2)

米手作市様より、クハ86で、流線形との合いの子の車両を見たことがあるとのことで、河 昭一郎様よりクハ86021、022ではないかとのご回答をいただきました。
当件に関して「鉄道ピクトリアル2011年7月号」に河様がお書きになっておられますが、お持ちでない方、探すのに時間がかかる方がおられると思いますので少し書いてみたいと思います。
80系は編成単位で新製されましたが、クハ86のみを取り上げると、昭和24年に001~020の20両が正面3枚窓で新製されました。
翌25年早期に東急横浜製作所で新製された021と022は、試作車として正面2枚窓で新製されました。

昭和39年8月10日、京都駅のクハ86021です。
38年10月、新前橋から高槻に転属、40年2月広島に転属して53年6月下関で廃車になりました。

昭和48年1月28日、広島駅のクハ86022です。
関東から一旦大垣に転属して47年3月広島に転属しています。53年2月下関で廃車になりました。

【参考】昭和49年1月2日、京都駅のクハ86074で、昭和30年7月近畿車両製です。
クハ86021、022との正面のスタイルの違いがお判りいただけると思います。

「こんなモンありまっせ!」に寄せて

米手作市様が貴重なクハ86015の走行写真を投稿されましたが、その後のスタイルの変化等について紹介したいと思います。
こちらは、昭和38年8月29日、京都駅の3番線と4番線の間の留置線に停車中で、快速の増結車として待機中のところです。

クハ86015は、昭和37年4月17日付で静岡から高槻に転入して、1年半後の38年11月20日付け早くも岡山に転属し、その後広島に転属後53年1月17日付で廃車になっています。
昭和50年8月10日、広島駅で撮影した画像で、河様から解説いただきました計器設置スペースを確保するための改造後です。

昭和48年1月28日、広島駅で撮影したクハ86001です。正面3枚窓のクハ86の車体更新後の標準的なスタイルです。
クハ86015との違いをお判りいただけると思います。
クハ86001は、新製時のスタイルに復元され、梅小路鉄博に展示保存されています。

長州から土佐に嫁いだ電車


803/旭駅前通
「49年前の山陽電軌」で、モ701形とモ801形が廃止後土佐電鉄に譲渡されたことを記したが、昨年10月1日、高知を訪れた時に乗車、撮影の機会を得たので現況を報告する。
当日、羽田空港8時発の飛行機で出発して、高知空港からバスで高知駅前に着いたのが10時頃であった。1日乗車券で全線、全区間を途中で撮影しながら移動したが、路線が長いため、乗車時間が結構長く、その分撮影時間が短くなり、全稼働車両を撮影するまでには至らなかった。
平成26年10月1日、土佐電鉄、高知県交通、土佐電ドリームサービスの3社が経営統合され、新たに「とさでん交通」としてスタートした。
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49年前の山陽電軌


山陽電軌505/昭和44年3月27日 御裳川
団塊世代より上の世代の方で、この風景に見覚えのある方がおられると思う。

Tsurukame先輩より昭和37年3月の山陽電軌をご紹介いただいたが、更に7年後の状況を紹介する。
昭和44年3月27日、九州旅行の途中、前日に下関に戻って「火の山YH」に宿泊、朝8時頃から9時半頃まで山陽電軌を撮影後、再度九州に戻った。
データは少し古いが、昭和38年6月末時点での在籍車両は、単車のモ101形8両(101~108)、109形8両(109~116)、ボギー車モ201形5両(201~205)、モ206形2両(206・207)、モ301形7両(301~305、501・502)、モ503形4両(503~506)、511形5両(511~515)、601形5両(601~605)、701形4両(701~704)、801形5両(801~805)、811形2両(811・812)で、単車16両、ボギー車39両、合計55両である。
3月27日の朝ラッシュ時に撮影したが、単車は全く見かけなかったので、使用休止になったか、完全に予備車化してしまい余程のことがない限り使用されなくなったのかもしれない。
以下、撮影した車両を解説する。
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私鉄の貴賓車その後

関 三平先生より私鉄の貴賓車が紹介されたが、その後の経過について自分の知っているものについてのみ書いてみた。

近鉄サ2600→サ2601→サ3018
昭和27年、一般の特急列車に使用するため、座席の転換クロス化を実施。35年に一般車に格下げ改造が行われ、扉から車端部がロングシート化されて主に急行に使用。38年にはラッシュ対策として中扉を設置して3扉化。39年8月の改番で0起番が廃止されサ2601に改番。45年3月、新製のモ2600形と車号が重複するためサ3000形のラスト、サ3018に改番。同年6月に座席のオールロングシート化。49年3月に廃車になった。

3扉セミクロス時代の昭和42年10月14日、高安検車区

昭和44年5月1日、伊勢中川付近
前から2両目がサ2601である。

南海電鉄クハ1900→サハ1900
昭和27年より特急「こうや号」に使用。その後ソファーを撤去して通常の転換クロスシートを設置。36年、新「こうや号」20001系の完成に伴い運用離脱。
昭和38年、旧運転側を切断して客室化を行い、旧連結面に運転台を設置して一般車に大改造され、座席もロングシート化された。
モハ1201形のグループに組み入れられ、本線と高野線の平坦区間で使用されたが、編成の中間に入ることが多かった。43年には運転台が撤去されサハ1900になったが、昇圧対象から外され、47年6月廃車になった。

昭和42年5月28日、住吉東
一般車に改造されてモハ1201系の編成の中間車として使用中。

モハ1202の次、窓に保護棒があるのがクハ1900である。

名古屋鉄道トク3→モ681→豊橋鉄道モ681→モ1311
昭和23年頃一般車に改造され、モ681に改番されて渥美線に配置。渥美線は29年10月1日、豊橋鉄道に譲渡されたが、車号の変更はなかった。
ほぼ同時期に元佐久鉄道の気動車改造のサ2241と組み、モ681の連結面の運転台を移設して固定編成になりサ2241はク2241に改番された。

昭和41年9月1日 高師車庫

朝夕のラッシュ時にはMc-Tc2組の4両編成で運転されたが、直接制御のため総括制御が不可能で、運転士2人でタイフォンで合図しながらの運転であった。

【参考】ク2241について
モ681の相棒、ク2241について触れておきたい。
経歴は以下のとおりである。
昭和5年10月、日本車輌で佐久鉄道キホハニ53として新製。
9年9月1日、鉄道省に買収され、キハニ40602からハニ40703に改番。
19年6月、名鉄に譲渡され、サ2241となり瀬戸線で使用。
23年5月、大森付近の急カーブでスピードの出し過ぎで脱線転覆。
24年5月、修理後渥美線に転属。
29年10月モ681の片側運転台を移設して制御車化してク2241に改番。
34年に2扉化され自動扉化。43年廃車。

地元の話題から ―3月26日ダイヤ改正―

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小田急車と安中貨物の並走(28-3-31)南柏~北小金

4月24日準特急様より【70736】「東京メトロ16000系地上区間(小田急多摩線)の姿」で3月26日ダイヤ改正によりJR東E233系2000番代の小田急線に乗入れたことが報告されている。
今までは小田急車は綾瀬(回送では北綾瀬)、JR車は代々木上原までであった乗り入れ区間が、3社直通車の増発(常磐線内昼間1時間2本から3本)により小田急車が取手まで、JR車が唐木田、本厚木まで(回送では伊勢原まで)乗入れるようになった。
常磐線緩行区間の近況をお知らせしたい。 続きを読む

都電荒川線に新車登場

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8901と8902の並び/(H27-10-18) 荒川車庫

秋から冬にかけて都電の新車8900形が4両(8901~8904)登場した。
平成21年から22年にかけて登場した8800形(8801~8810)に比べると、スッキリとした直線的で、中々感じの良いスタイルである。
性能的には60kwの主電動機×2、WNドライブ、IGBT-VVVFインバータ制御と8800形と変わらない。
オレンジ色の8901、8902が9月18日より、ブルーの8903、8904がそれぞれ12月8日と9日から営業運転に就いている。
また、来年早々にもローズレッドの8905、8906、イエローの8907、8908が登場する予定である。
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「みんなでしあわせになるまつりin夷隅2015」

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10月11日、「ぶんしゅう旅日記」にお名前が出てくる丸谷洋一氏からお誘いを受け、いすみ市で開催された「みんなでしあわせになるまつりin夷隅2015」に行ってきたので報告する。
会場の最寄駅はいすみ鉄道の国吉駅である。
内容は、クラシックカーの展示、3台のボンネットバスのよる「ポッポの丘への送迎」、コンサート等であった。
いすみ鉄道への乗換駅大原は結構遠い。
京成金町駅5時13分発の1番電車で出発、早朝の割には乗客が多く座席が4割程埋まっていた。
高砂で乗り換えた5時24分発各駅停車成田空港行は、海外旅行に出かける乗客で座席が7割方塞がっており吃驚。この電車は上野5時3分発の一番電車である。 続きを読む

京阪電鉄103+153+113に寄せて

103 48-10-13
113/(48-10-6)寝屋川検車区

当該編成は、48年10月6日寝屋川検車区で実見している。この時は澤村さんからお誘いを受け、何人かの方と一緒であったと思う。
この編成がバキュームカーの運搬していたことは全く知らなかった。
撮影したのは113のみで、103と153を撮影していないのは、障害物があったためと思われる。

当時、京阪本線の電動貨車は、この編成を含めて3編成あり、他の2編成は下記の通りであった。
101+151+111
102+152+112

その他、救援車として使用されていた121と大津線の122が在籍した。
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営団地下鉄03系5扉車に寄せて

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東武スカイツリーライン西新井~竹ノ塚間を快走する03-820編成/(27-6-30)

「昭和の電車」に「平成の電車」が登場した。
営団地下鉄(現東京メトロ)03系は日比谷線3000系の後継車として昭和62年から平成6年にかけて8両編成42本が新製された。
そのうち平成2年製の第9編成から平成5年製の第28編成までの20編成が8両編成中両端の2両ずつの4両が5扉車として新製された。

京阪の5000系のように1編成全部を5扉にしなかったのは、日比谷線の駅の構造がホームの両端に改札口に通じる階段のある駅が多く、前後の車両が特に混雑が激しいためである。

6月17日東京メトロ、東武鉄道の連名で日比谷線の20m車化とホームドアの設置が発表され、来年度から3年間で18m車8両編成から20m車7両編成に取替えられる予定である。
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新京阪デハニ5001に寄せて

4501 41-7-27
5001→4301 / (41-7-27) 正雀

昭和3年梅鉢鉄工所製で、両端に客室、中央に魚菜室がある珍しい構造であった。
荷物の積卸し時間短縮のため、このような構造になったものと思われる。
戦後は客室の座席が撤去され救援車になった。
昭和39年4月の改番で4501になり、57年971を救援車に改造した4052と交替して廃車になった。

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リニア館のモハ1形に寄せて

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モハ301+クハ502 / (42-4-5)千頭

大津の86様、INUBUSE様より「リニア館のモハ1形」の報告があったが、大井川鉄道での現役時代を報告する。

大井川鉄道に転入したのは、僚車のモハ302と共に昭和28年5月であるが、改めて経歴を振り返ると下記の通りである。
鉄道省デハ33509(大正11年日本車輌)→モハ1035(昭和3年改番)→三信鉄道デ307(13年転入)→鉄道省デ307(18年8月買収)→27年7月廃車→大井川鉄道モハ301(28年5月)
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国鉄阪和線クハ6210に寄せて

モタ3000→モハ2250 → モハ20100番代に続いてクタ600→クハ6210→登場した。

関 三平氏は阪和形について詳細までご存じで、クハ6210がモカ2001→モニ3200と組んで荷電代用であったこともきちんと把握されておられる。
記録によれば期間は昭和25年7月13日~28年3月3日となっている。

グリーンとクリームの阪和特急・急行色に塗り替えられた時期は昭和31年と記されているが、もう少し詳しく見ると下記のようである。

ライバルの南海電鉄に対抗すべく70系が投入された。しかし南海は平行カルダン駆動に対し、旧態依然の吊掛式、ゆったり転換クロスシートに対し、シートピッチの狭い直角クロスシートと見劣りはしたが、利用者には好評であった。

最初に投入されたのは次の3編成である。
クハ76073+モハ70069+モハ70070+クハ76072 (31.11.30到着、31.12. 9使用開始)
クハ76075+モハ70071+モハ70072+クハ76074 (31.12. 1到着、31.12 .8使用開始)
クハ76077+モハ70073+モハ70074+クハ76076 (31.12. 9到着、31.12.14使用開始)

翌32年2月から理由は定かではないが、1両ずつ工場入りすることになったため、モハ61001とクハ6210が阪和特急・急行色に塗り替えられ入場車の穴埋めに連結された。
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北総開発鉄道7000系に寄せて

北総開発鉄道(平成16年7月1日北総鉄道に社名変更)7000系は、昭和54年3月9日小室~北初富間開業時に新製した電車である。
関 三平氏の解説文は「新鎌ヶ谷」となっているが、これは誤りで「北初富」が正しい。
開業時より新京成電鉄と相互乗入を行い松戸まで直行し、都心との連絡は、新京成電鉄、常磐線を介して行われた。

6両編成3本が新製され、両端が制御車7000形、中間が電動車7100形で、編成は下記の通りであった。車体メーカーは3編成ですべて異なっていた。
←北初富           →小室   製作
7002-7104-7103-7102-7101-7001  川重
7004-7108-7107-7106-7105-7003  日車
7006-7112-7111-7110-7109-7005  東急

昭和59年3月19日住宅・都市整備公団が小室~千葉ニュータウン間を開業し、その運営を受託した。 続きを読む

新京成電鉄8000系に寄せて

8509 26-9-6

滝不動~三咲間を走行する8510編成/(26-9-6)

「昭和の電車」は、長野電鉄OSカー、上信電鉄1000系、新京成電鉄8000系、北総鉄道7000系と中小私鉄の高性能車が続いている。

新京成電鉄8000系は、昭和53年から60年にかけて6両編成9本が新製された。スタイルの特徴は正面の2枚窓で沿線の人や利用者から「狸」或いは「くぬぎ山の狸」と呼ばれている。
関 三平氏は「ふくろう顔」と言っておられるが、なるほど「ふくろう」にも見える。ちなみに乗物に全く興味の無い我が息子は、子供の頃「パンダ電車」と呼んでいた。本人は新京成電鉄で通学しており、やはり「狸」と呼んでいる。
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上信電鉄1000系に寄せて(Ⅱ)

3月17日【57081】で、西村雅幸氏より1000系のその後の経過について報告いただいたが、同社が新製時に作成したパンフレットが手元にあり、それを基に概要を紹介する。

新形車両新造について
当社、上信電鉄は、輸送力増強と旧形式車両の近代化への脱皮の一環として、今度1000形電車を新造することになったが、この新造車は、現在通勤輸送列車増加及びスピードアップ計画に大きな力となるべく、将来充分な性能を発揮出来得る近代化された最新の機器を搭載しました。
そして、現在の旧形式車両の代替車両として、随時増備される予定です。

この車両を新造するにあたり、特に考慮したことは、鉄道車両の使命として、安全、正確、迅速の原則に基づき、これからの大量輸送機関として、より一層の性能の向上、サービスの向上、安全確保を目標とし、未来の鉄道車両構造と致すべく、在来の車両のイメージを大きく変えたスタイルとした、その概要はざん新な先頭形状をもった近代的なスタイル、乗心地の向上をはかった空気バネ付台車、制御性良好な電気指令式空気ブレーキ、操作性の良いワンハンドルマスコンなど最新のデザイン、技術をとり入れたユニークな車両にしました。
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国鉄阪和線モタ3000系に寄せて

205-14.HanwaLD.forIzumi.60.25.20.25105oto.67.5.28
クハ25105+クモハ20+クハ25+クモハ60 / (42-5-28) 長居

「昭和の電車」は「モハ54003~54005」に続いて関西の国電が登場した。

今回、関 三平氏が紹介されたモタ3000系は、一段上昇窓のため開口面積が狭く、夏暑かったこと、日除けがブラインドとカーテンを併用して構造が複雑であったこと等が災いし、早めに廃車されたため42年中に姿を消した。

新製からの廃車までの経過
戦時色が濃厚になった昭和16年にクタ3001、3002が日本車輌で、クタ7001、7002が帝国車輌で新製された。
クタ3001、3002は両運、7001、7002は片運であった。
クタ3001、3002は電動車として竣工すべきところ電装品の調達遅れにより制御車として竣工し、12月に電装され本来のモタ3001、3002となった。
7001,7002以外は両運車であったが、戦後片運化され、モハが上り向き、クハが下り向き運転台になった。

全鋼製のノーシル、ノーヘッダーの車体は、上部にRの付いた2枚1対の客室窓の斬新なスタイルで戦時色を感じさせないものであった。

小学校4年生の時、天王寺で初めて見たが、京阪の新車にソックリだと思った。京阪の新車とは1650形のことである。

発注したのは阪和電鉄であったが、完成は南海電鉄と合併後であった。(阪和電鉄は昭和15年12月1日南海電鉄と合併し、更に19年5月1日鉄道省に買収された) 

17年にクタ3003~3007が日本車輌で、クタ7003~7007が帝国車輌で新製された。
クタ7003~7007は電装される予定であったが、鉄道省買収後の19年6月クタ7003、7004の2両のみ電装され、モタ7003、7004になった。

18年にクタ7008~7013が日立製作所で新製された。

戦後、阪和線に輸送力増強のため国鉄標準型電車が転入すると、混結の必要性から制御器の省形化、連結器の密連化、運転室の拡幅工事が実施された。
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京成電鉄モハ3300形 営業運転終了

P1230664
臨時特急「成田山号」(3301-3302-3303-3304+3333-3334-3343-3344)/大佐倉

京成電鉄モハ3300形は、2月28日臨時特急「成田山号」で営業運転を終了した。
当日のダイヤは、回送列車で宗吾車区発車して、高砂9時58分、青砥10時頃通過して上野に10時13分に到着、上野10時23分臨時特急「成田山号」として発車して、成田に11時39分に到着予定の処、途中混雑のため実際には約10分遅れで到着した。
到着後運転士に花束贈呈等のセレモニーが行われた後、宗吾検車区に回送され、12時15分に入区した。 続きを読む