国鉄阪和線モタ3000系に寄せて

205-14.HanwaLD.forIzumi.60.25.20.25105oto.67.5.28
クハ25105+クモハ20+クハ25+クモハ60 / (42-5-28) 長居

「昭和の電車」は「モハ54003~54005」に続いて関西の国電が登場した。

今回、関 三平氏が紹介されたモタ3000系は、一段上昇窓のため開口面積が狭く、夏暑かったこと、日除けがブラインドとカーテンを併用して構造が複雑であったこと等が災いし、早めに廃車されたため42年中に姿を消した。

新製からの廃車までの経過
戦時色が濃厚になった昭和16年にクタ3001、3002が日本車輌で、クタ7001、7002が帝国車輌で新製された。
クタ3001、3002は両運、7001、7002は片運であった。
クタ3001、3002は電動車として竣工すべきところ電装品の調達遅れにより制御車として竣工し、12月に電装され本来のモタ3001、3002となった。
7001,7002以外は両運車であったが、戦後片運化され、モハが上り向き、クハが下り向き運転台になった。

全鋼製のノーシル、ノーヘッダーの車体は、上部にRの付いた2枚1対の客室窓の斬新なスタイルで戦時色を感じさせないものであった。

小学校4年生の時、天王寺で初めて見たが、京阪の新車にソックリだと思った。京阪の新車とは1650形のことである。

発注したのは阪和電鉄であったが、完成は南海電鉄と合併後であった。(阪和電鉄は昭和15年12月1日南海電鉄と合併し、更に19年5月1日鉄道省に買収された) 

17年にクタ3003~3007が日本車輌で、クタ7003~7007が帝国車輌で新製された。
クタ7003~7007は電装される予定であったが、鉄道省買収後の19年6月クタ7003、7004の2両のみ電装され、モタ7003、7004になった。

18年にクタ7008~7013が日立製作所で新製された。

戦後、阪和線に輸送力増強のため国鉄標準型電車が転入すると、混結の必要性から制御器の省形化、連結器の密連化、運転室の拡幅工事が実施された。

昭和41から43年にかけて国鉄標準形20m車に統一のため、主に関東地区から転属してきたクモハ60、クハ55等の戦前型と73系に代替され廃車になった。
転属車の中には、元63形の程度の悪い車両もあり、収容力以外はすべての点で阪和形が優っていた。

買収後の改番は下記の通りである。
34年ム6月1日の称号改正で「モハ」は「クモハ」になった。

買収時の車号     S28.6.1改番   S34.12.22改番  廃 車
モタ3001(16.3日車) → モハ2250 → モハ20100  42.5. 4
モタ3002(17.5日車) → モハ2251 → モハ20101  42.7.29
モタ3003(17.5日車) → モハ2252 → モハ20102  42.7.29
モタ3004(17.5日車) → モハ2253 → モハ20103  42.7.31

クタ3005(17.5川車) → クハ6240 → クハ25113  42.5.12
クタ3006(17.5川車) → クハ6241 → クハ25114  41.2.12
クタ3007(17.5川車) → クハ6242 → クハ25115  42.7.29

クタ7001(16.3帝車) → クハ6250 → クハ25100  42.7.31
クタ7002(16.3帝車) → クハ6251 → クハ25101  42.7.31
クタ7003(17.4帝車) → クハ6252 → クハ25103  42.7.29
クタ7004(17.8帝車) → クハ6253 → クハ25104  42.5.12
クタ7005(17.8帝車) → クハ6254 → クハ25105  42.7.31
クタ7006(17.8帝車) → クハ6255 → クハ25106  41.3.14
クタ7007(17.8帝車) → クハ6256 → クハ25107  41.2.12
クタ7008(18.3日立) → クハ6257 → クハ25108  42.7.29
クタ7009(18.3日立) → クハ6258 → クハ25102  42.7.29
クタ7010(18.3日立) → クハ6259 → クハ25109  42.5.23
クタ7011(18.3日立) → クハ6260 → クハ25110  42.7.31
クタ7012(18.3日立) → クハ6261 → クハ25111  42.7.29
クタ7013(18.3日立) → クハ6262 → クハ25112  42.7.31

クモハ20103は廃車後鷹取工場に保管され、暫くの間入換に使用後解体された。

廃車時期が早かったため撮影した車両は少ないが、比較的マシな画像を貼り付けた。
クモハ20101/(42-5-27) 鳳
20101 42-5-28

クモハ20102/(42-5-28) 鳳
屋根上のランニングボードが特徴であった。
20102-2 42-5-28

クハ25100/ (39-12-29) 天王寺
関 三平氏のイラストの車両の後年。モタ3001、モタ3002と同時に新製されたTcで当初から片運であった。
25110 39-12-29

クハ25102/(42-5-27) 鳳
元クタ7009で、21年鳳区構内でモカ2002と衝突事故を起こし、24年木南車両で復旧時、片運、連結面フラットに改造されたため、25100、25101に次いで25102に改番された。
25102 42-5-28

クハ25103/(42-5-28) 鳳
25103 42-5-28

クハ25105/(42-5-28) 長居
205-13.Tc25105oto.67.5.28

クハ25107/ (39-11-10) 天王寺
扉は縦桟のある原形のもの
25107 39-11-10

クハ25110 / (42-5-28) 鳳
205-01.Tc25110oto.67.5.28Oto

クモハ60150番代
米手作市様が撮影されたクモハ60153と思われる車両について解説する。
関連でモハ40→モハ61についても触れておく。
昭和27年、モハ41とモハ40の一部に主電動機を128kwのMT30に換装する工事が行われた。
実施されたのは、モハ41形は004、005、010、011、053、054、055の7両で、改番で60151~163(奇数のみ)となった。60151~157の4両が平妻、159~163の3両が半流である。

モハ40形は001~004、013の5両で、28年の改番で61001~005になった。

改番の経過は下記の通りである。
新製時の車号      S28.6.1改番  廃 車  最終配置区
41004 (7.12汽車) → 60151 52. 2.14    鳳
41005 (7.10日車) → 60153 52. 7.14    鳳
41010 (7.12日車) → 60155 50. 2. 1    鳳
41011 (8. 1川車) → 60157 51.11.20    鳳

41053 (14.2日車) → 60159 49.12.20    鳳
41054 (14.2日車) → 60161 52. 3.16   淀 川
41055 (14.2日車) → 60163 52. 2.14   淀 川

40001 (7.10日車) → 61001 47. 4.28    鳳
40002 (7.10日車) → 61002 49. 8. 1    鳳
40003 (7.10日車) → 61003 58. 8.31   伊那松島
40004 (7.10日車) → 61004 58. 8.31   伊那松島
40013 (7.11汽車) → 61005 59. 3.19   伊那松島

クモハ60151/ 上:(48-3-4) 美章園 下:(42-5-28) 長居 (クモハ60151+クハ25100+クモハ60081+クハ55802)
淀川区より36年8月明石区に転属して本線緩行で使用、38年3月鳳区に転属
60151 48-3-4美章園
60151.67.5.28[1]

クモハ60153 / (49-1-2) 杉本町
淀川区より28年8月明石区に転属して本線緩行で使用、38年10月鳳区に転属
60153 49-1-2杉本町

クモハ60155 / (48-12-9) 杉本町
淀川区より28年8月宮原区に転属して本線緩行で使用、38年10月鳳区に転属
60155 48-12-9杉本町

クモハ60157 / (48-12-25) 鳳
淀川区より28年7月明石区に転属して本線緩行で使用、38年11月鳳区に転属
60157 48-12-25

これ以下は、本題との関連項目としてご覧いたただきたい。

クモハ60159 / (48-1-4) 鳳
淀川区より28年7月明石区に転属して本線緩行で使用、38年11月鳳区に転属
60159 48-1-4
60159-2 48-1-4

クモハ60161 / (48-4-22) 住道
淀川区より36年9月明石区に転属して本線緩行で使用、40年2月鳳区に転属、同年6月淀川区に転属して片町線で使用。片町線時代は次の60163と共に中間に入ることが多かった。
60161 48-4-22

クモハ60163 /上: (38-12-29) 京都 下:(49-3-23) 住道 
淀川区より36年9月明石区に転属して本線緩行で使用、40年2月鳳区に転属、同年6月淀川区に転属して片町線で使用。
昭和38年撮影時に早くも戸袋窓がHゴム化されていた。
60163 38-12-29
60163 49-3-23

クモハ61
山中渓~紀伊間の急勾配対策で主電動機をMT30に換装した。
61001、002は終焉まで阪和線で活躍したが、61003はクモハ52と同時期の32年9月飯田線に転属、61004、005は30年12月に三鷹区に転属、その後関東地区を転々として32年10月飯田線伊那松島区に転属した。同線の旧形車終焉まで活躍したので、撮影された方も多いと思われる。

クモハ61001 / (40-9-26) 天王寺
61001-2

クモハ61002 /上: (48-9-15) 堺市 下:(49-3-23) 天理 
天王寺側は正面窓のHゴム化、運転室の全室化が行われたが、和歌山側は木枠窓で運転室は半室のままであった。
768-12.T78Mc61002oto.73.9.15Sakai
61002 49-6-10

クモハ61003 /上: (48-7-28) 天竜峡 中:(49-7-28) 伊那本郷 下:(52-5-3)伊那大島
32年9月流電クむモハ52001、002、003と共に伊那松島区に転属した。クモハ52は終焉まで飯田線のスターとして快速運用等で活躍したが、終始地味な存在であった。
木枠の正面窓、乗務員室下のベンチレーター等、グロベンを除くと原型に近く、省電の面影を残す美しいスタイルであったが、最末期に運転室窓がHゴム化された。
61003-161003 48-7-2861003 52-5-3

クモハ61004 /上: (49-9-23) 豊橋 下:(48-3-25) 大田切~宮田
30年12月に次の61005と共に三鷹区、31年11月松戸区、同年12月東神奈川区、32年4月青梅区、同年7月富士区、同年10月伊那松島区と各地を転々とした。
飯田線ではロングシートのため今ひとつ人気がなかった。
61004 49-9-23
61004 48-3-25

クモハ61005 / (48-7-29) 辰野
終始61004と行動をした。当時地元にお住まいの旧形国電の先輩である故芝生將行氏によると、車内は相当荒廃しており、直ぐに豊川工場に入場したとのことである。
三鷹区で荷電代用として使用されていたのかも知れない。
パンタグラフは003と005は辰野側、004は豊橋側に付いていた。
61005 48-7-29

【参考】クモハ51073
本題からは外れるが、阪和線に国電史上最も妖しいと思われる電車が在籍したので紹介する。
本線で使用されていた両運2扉クロスシートのモハ42(001~013)は、戦時改造で001~010が4扉化(全車改造されるため形式はそのまま)、011~013は片運3扉化の上モハ51072~074になる予定であった。
実際に実施されたのは、4扉化は002、003、004、007、010の5両で、003と004は戦災で焼失した。
このため、モハ42は2扉車と4扉車の2種類混在し、28年6月の改番で4扉車はモハ32に改番された。
3扉化改造は実施されず、19年7月モハ42012が片運化のみされ、モハ51073となり、2扉のモハ51が出現した。
引き続き本線で使用され、戦後一時期淀川区に転属したが、25年11月鳳区に転属し、28年11月更新修繕でやっと3扉化された。阪和線では戦前形唯一のセミクロスシート車として阪和形と混結して使用されていた。0
上:クモハ51073+クハ16+クモハ20+クハ25 /(39-12-29) 天王寺 下:クモハ51073+クハ25+クモハ60+クハ25/ (42-5-28) 長居
51073 39-12-29
205-08.HanwaD.51073.25.60.25oto.67.5.28
45年2月身延線用として沼津区に転属し、浜松工場でパンタを連結面に移設してこの部分を低屋根化改造され、クモハ51830に改番されたが、塗装はオレンジのままであった。その後スカ色になり、56年8月22日付で廃車になった。
塩山~韮崎間で運用時/上:(45-7-31) 塩山  下:(49-8-9) 甲府 
撮影されたのは故芝生將行氏で、掲載は奥様のご了解をいただいた。
Mc51830numa1.kaimaeMc51073Hamakoteiyanekaizoutyokugo.70.7.31Enzan.70c-3-16[1]
74c-25-09a1.Mc51830numa.74.8.9Kofu[1]

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