リハビリを兼ねた関東からの日帰り旅 10

<青梅線アーカイブス 1976年奥多摩・2002年鉄道公園>

青梅線に初めて乗ったのは昭和51(1976)年、大学3回生の時でした。春と秋に東京に小旅行に出かけ、春は立川→拝島→高麗川→川越→大宮と周り、秋には立川から終点の奥多摩まで全線を乗車しました。
前日、名古屋で高校の同級生と会って、ドリーム号で朝6時に東京駅に着きました。この日は夜に友人と人気男性フォークデュオのコンサートを見るまでは予定がなかったので、東京ミニ周遊券で行ける、遠くの奥多摩を選びました。

奥多摩駅は山小屋を連想させる趣きのある駅舎だった

立川で中央線から青梅線に乗り換え、奥多摩には8時半前に着きました。折角遠くまで来て、そのまま帰るのはもったいないと、約20分で奥多摩湖まで行ける西東京バスに乗りました。

奥多摩駅の留置線には旧型国電が休んでいた
奥多摩湖は東京の水がめである小河内ダムによって形成された人造湖です。昭和32(1957)年に竣工した小河内ダムは、当時記念切手が発行されるほど注目を集めた工事でした。中学校の時に切手収集に一時はまっていた私は、小河内ダム竣工記念切手を持っており、何となく親しみのある光景でした。しかし行って見るとダムの堰堤以外は施設もなく、ダムによって造られた人工美を眺めるだけでした。

小河内ダムの堤体は海抜530m

するとダムの下流に線路が見えました。ダムの建設用資材輸送用に敷設した路線であろうことは容易に想像がつきましたが、竣工から20年近くが経っているのに、何か別の目的で活用されているのではないかと想像を膨らませました。

山肌を縫うように敷設された専用鉄道の廃線跡
東京都水道局小河内線は昭和27(1952)年に開通し、昭和32年まで運行していた、東京都水道局の専用鉄道。正式名称は「東京都専用線小河内線」です。小河内ダムの建設用資材輸送に東京都水道局が敷設・管理した貨物線であり、ダム竣工後の昭和38年に西武鉄道へ、さらに昭和53年には奥多摩工業へ譲渡され、現在は「水根貨物線」として遺構が残っています。運行期間はわずか5年半であったが、東京の水がめである小河内ダムの完成に重要な役割を果たしました。(ウィキペディア参照)

奥多摩駅をあとにする頃から雨が降り出しました。青梅線には青梅鉄道公園があり行って見たかったのですが、雨の山道に訪ねるのを諦めました。

昭和7(1932)年に製造されたC11の1号機
それから26年後の平成14(2002)年、住まいを埼玉に構えた私は夏休みに青梅鉄道公園へ行きました。国鉄90年記念事業として昭和37(1962)年に開場した青梅鉄道公園には、私が訪ねた当時110・2221・5540・8620・9600・C51 5・C11 1・E10 2・ED16 1・0系新幹線(先頭車)の10両が静態保存されていました。

左の110号は鉄道開通時の機関車で現在は桜木町の商業施設に保存されている
鉄道公園は保存車輌の展示と、模型を中心にした資料の展示それに遊具施設があるだけの「昔の鉄道公園」でした。車両の保存状態は良かったものの、屋根(上屋)がなく雨ざらしの状態にあり、車両が気の毒に思えました。

晩年地元青梅線で長く活躍したED16の1号機。左の建物は記念館
青梅鉄道公園 リニューアル中
青梅鉄道公園は2023年9月から2025年度末(予定)まで全面改装のため休園しています。リニューアル後は「中央線・青梅線の鉄道の歴史を伝える学びの場」として再オープンし、記念館の建て替えや展示物、展示車両の見直し、追加が行われる予定です。

鉄道公園にはちょっと場違いな0系新幹線も保存されていた

リハビリを兼ねた関東からの日帰り旅 10」への19件のフィードバック

  1. 勘秀峰様
    小河内ダムの記念切手は私も持っています。青梅鉄道公園ではデフレクターが継ぎ足し大型で不細工ではありますがC515が気にっています。前回の4月6日のコメントで宮崎繁幹さんが何とED16の前にいた元南武1000型の国鉄買収機ED27を発表されました。この機関車の存在は雑誌等で知っていましたが結局目にすることなく悔いだけが残っています。ED16が置き換わる頃に少しだけ青梅線、南武線に入線していたEF15とEF64です。最初は1983(昭和58)年2月5日に軍畑の鉄橋で撮ったEF15126です。

    • 準特急様
      青梅線にはEF15・EF64も走っていたのですね。別コメントの宮崎さまのED27・ED37を加えると、1923年の電化以来、青梅線にはいろいろな形式の電気機関車が投入されたことが分かりました。
      添付は準特急様お気に入りのC51 5です。2002年の撮影です。下に投稿されたK.H生さんの写真が1983年ですから、デフも含めてかなり変わっているようですね。

  2. 勘秀峰様
    もう1枚1982(昭和57)年11月20日御岳₋沢井間の上りEF6478です。無理して横の姿をとらえてみました。

  3. カラー写真、最近スキャンされたのでしょうか。綺麗です。
    小生は昭和58年に新社会人最初の夏季休暇で、奥多摩駅や青梅の鉄道公園に行っています。
    C51 5の衝撃写真は、あまり見せられるものではないのですが、たまたまの撮影です。

    昭和51年上京目的の人気フォークデュオが気になります。
    ふきのとう、とんぼちゃん、そんなところでしょうか。
    あのねのねだったら、先輩らしくて吹き出しそうですが。

    • k.H.生様
      青梅鉄道公園のC515は土砂崩れで哀れな姿になったようですが、この機関車のデフレクターは大鉄局に多くあるタイプで決して格好の良いものでなかったと個人的に思っています。最終配属は奈良、伊勢のようですね。今は大宮で室内展示されているようです。ところで私も80歳の爺さんなのでフォークデュオのことは知りません。杉田二郎とかはしだのりひこくらいなら知っております。

      • 準特急さん
        なつかしい名前についコメントをしてしまいました。
        杉田二郎は我が家の町内で金光教教会の息子さんです。はしだのりひこは同級生でお葬式に参列しました。杉田さんや北山さんなどが来て賑やかな葬式でした。因みに北山修は小学校の一年後輩で医者の息子さんです。

        • 米手作市様
          京都の政財界に顔のきく米手作市さんが当時の京都を中心としたフォークグループの皆さんともお付き合いがあったことを今更ながら驚きました。北山修は府立医大出身でハンサムな方でしたね。顔の広い米手さんのことですから沢田研二なんかともお付き合いがあったのでしょうか。私の手元に臨津江の写真があったと思います。この機会に探しときますが整理が悪くてどこに行ったかよくわかりません。それよりも阪和のED16や米原のE!0を出せるくらいなら蒸機で客車でも何でもよろしいから「米手作市自主大投稿」で大暴れしてください。。

          • 大きい声では言えませんが、家内が腰痛で車いすを使っています。医者通いや買い物に車いすを操縦していきますので準特急さんの投稿にチャチャを入れるのが精一杯です。その代わり車いすの操縦では貴兄には負けません!

      • 準特急様
        K.H様
        C51 5の室内展示の様子です。平成19(2007)年10月、埼玉の大宮に鉄道博物館が移転オープンした時、青梅から移設されました。私が訪ねたのは、2ヵ月経った12月の平日でした。あまりの保存車輌の多さに、5年前に青梅で出会ったC51 5は完全にスルーしていました。

    • K.H生様
      鉄道公園のコメントと写真ありがとうございます。C51 5の2002年の様子は準特急様の返答に投稿した通りです。K.H生様とほぼ同様の角度からの1枚です。
      交通公園ではC51が、一番撮影しやすい配置に置かれていたのではないでしょうか。
      男性フォークデュオの話の前に、ベンチのホーロー看板に目が止まりました。昭和40年ごろの高級チョコ、森永ハイクラウンチョコレートと清涼飲料水の明治スカットです。同じころ銭湯の飲料売場には、スカットが置いてあったような気がします。

  4. 人気フォークデュオ、気になります。「ジローズ」かと思いましたが1972年に解散してますのであり得ません。それならば1975年に「22歳の別れ」を出した、正やんの「風」でしょうか?
    森永ハイクラウン、懐かしいですねえ。箱入りの煙草のようなパッケージで、ひとつひとつ紙に包まれたチョコレートで、確か6本入りだったような覚えがあります。
    C51 5は私も撮ってます。1979年2月の撮影で、この頃は撮りにくい場所にありました。ナンバープレートの色は、記憶にありません。

    • 米手作一様 
      はい、マイテ39 11です。1987年に搬出されて、現在は埼玉の鉄道博物館に展示されているそうです。
      添付の画像の右端にちょっとだけ見えるのがマイテ39 11で、その隣はスシ28 102です。スシ28は撮影の翌年に解体され、台車のみ鉄道博物館に展示されているそうです。この頃の私は客車に全く興味がなく、こんな写真しかなくて申し訳ありません。

      • 紫の1863さん
        ありがとうございます。
        マイテ3911とはめずらしい客車です。
        テンダーも興味が湧きますね。
        8620のトップナンバーと東武の5500型ですね。
        昔の鉄道はよかった。
        パンタの付いた気動車やDEC等と名乗る車両が出てきては付き合いきれません。

  5. 皆さま
    思いもよらぬ男性フォークデュオのご推察、ありがとうございます。残念ながら?関西系でも四畳半系でもありません。K.H生さんの仰った清水国明と原田伸郎の「あのねのね」でもありません。
    「かぐや姫」の伊勢正三と「猫」の大久保一久が結成した「風」のコンサートでした。1863さん、ご名答です。
    この日は「おのぼりさん」よろしく、青梅線のあとは交通博物館、上野動物園、原宿表参道を散歩しました。当時の原宿駅の様子です。

  6. 勘秀峰様 皆様
    C515の様々な写真を拝見させていただき有難うございます。この機関車は大鉄形の継足しのデフレクターを付けていると話したことがありますが、そのデフレクターを装備したC5199が梅小路にいました。1963(昭和38)年1月2日、雨の京都駅山陰線ホームで撮ったものです。C515は梅小路に、C51239は大宮に保存されてもよかったという意見も聞いたことがあります。C51は当初は18900形で1760ミリの動輪を持ちその後の旅客用機関車の基本となったもので革命児とも呼ばれていました。保存が少ないのは各地に保存ブームが起きた昭和40年代末期から昭和50年に入った頃はC51などは残っておらず、結果的にC11、C12、C57、C58、D51等の保存機が多いことになったのではないかと思います。

      • 怒る理由は全くありません。米手さんも私も高齢者で他の皆さんよりこの先が短いことが弱みですが、古い写真が多少あることが強みと言えば強みです。同じ写真でも例えばC515など源流は青梅線の話ですが、いつも間にやらいろいろな角度からの投稿があり、そのうちに米手さんのちょっかいで客車の話まで盛り上がりました。結構なことではありませんか。

        • 準特急さん、
          やっぱり貴兄はやさしい!
          「先が短い・・」だけは余計ですが。
          たしかに古い写真はたくさんあります。
          最近はパンタの付いた気動・・以下略

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