倶知安区 9600
北海道を代表する蒸機と言えば、スタイルは別としても9600でしょう。数こそD51より少ないものの、昭和43年時点では、北海道の蒸機の約3割、145両を占めていて、ほとんどの機関区に配属され、ローカル線の客貨牽引、入換えに活躍していました。デフの切り詰め、警戒色など、北海道らしい改造がされて、その好みは分かれるところですが、そのなかで最も特徴的なのは、倶知安区の二つ目の9600でしょう。
倶知安区9600の運用は、岩内線(倶知安~小沢~岩内)、胆振線(倶知安~伊達紋別)の貨物牽引、倶知安の入換用でした。二つ目は、カーブなど見通し不良区間での警戒のため、前照灯を二個にしたとの解釈が多いようですが、これは倶知安だけの理由とはならず、倶知安周辺では、冬期、前照灯に氷雪が付着して、前方の確認に支障があったと言います。そこで、風の流れができる、デフのステー上に前照灯を置くことによって、付着を防ぐ目的があったのではと言われています。
▲夕闇に二つ目が輝く倶知安区の79616
▲胆振線の北湯沢を通過する6891レを牽く69624 この日は西村さんら4人で北湯沢駅前のユースに泊り、起き抜けに貨物を待った。駅の寒暖計がマイナス15度を指していた。(昭和46年3月)
▲倶知安の9600連番の2両 79615はこのあと小樽築港区へ転属、二つ目のまま使われた。倶知安町内に保存中。79616は昭和48年に旭川区に転属し、こちらは前照灯+副灯の北海道標準となった。現在、日高地方で保存中とのこと。▲倶知安の9600を有名にしたのは、9600そのものでは無く、実はC62重連撮影の余録だった。岩内線の貨物は、倶知安からひと駅、小沢までは函館本線を走って岩内線に入る。ちょうどC62重連通過の時間帯近くに9600貨物が通るから、ついで撮影ができた。写真は、そのC62重連「ニセコ1号」の車内から小沢到着を撮る。(昭和44年9月)▲C62撮影を小沢の近くで撮影をして、駅に戻ると、発車間際の岩内方面973レが待っていた。(昭和44年9月)
▲倶知安で入換えに励む79616 晴れていても、なかなか羊蹄山は全容が見えない。(昭和46年3月)▲胆振線喜茂別にて 交換の列車から79616の後部を見る。(昭和46年3月)▲胆振線京極にて79615 かつて京極から脇方まで、ひと駅だけの胆振線の支線が出ていたが、行った時には廃止されていた。胆振線も昭和61年に廃止されてしまう。(昭和46年3月)▲今日も頂上の見えない羊蹄山のふもとを行く胆振線の貨物 貨物は主要駅でたっぷり停車するので、列車でも“追っ掛け”のできた良き時代だった。南京極~留産(昭和46年3月)
胆振線そのものが無くなって長いですね。
先輩らの時代は蒸気が目的で、いつも羨ましく思いますが
私たちの世代は廃線数年前が学生時代。
1970年代と80年代を股がって過ごせて、後から思うのは
国鉄が数年で解体されると本気で思わなかったこと。
貨物輸送が、2軸貨車全廃。鉄道郵便輸送の全廃。
鉄道連絡船の消滅。これらの3つが当たり前に見られ、写真に
写せた最後の時代だったのに、それほど記録出来ていない。
しかしアーカイブで鉄道を語ることは本当に楽しいですね。
写真は1983年2月卒業目前の冬の北海道で胆振線新大滝か
京極です。
雪の羊蹄山全容を見られず、すごすご帰られたのは自分だけではなかった!と安心しました。
ところで、倶知安の9600の二つ目玉は有名ですが、私にとっては給水ヒーターが装備されていることも特異点とおもっていましたが、無い写真を見て、認識を改めました。