昭和の電車 改訂版(152)ー新幹線試作車1001~1006号ー 投稿日時: 2021年2月21日 投稿者: 米手作市 中村進一氏のコレクションに、開業前の試験線で撮られた珍しい写真がありますのでご覧頂きます。これは以前に公開したものの一部です。 塗装が違います。 パンタが二個一でした。 こんな窓の試作車もあったのですね。 開通時の新幹線と名神高速道路 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(121)ー営団地下鉄300型ー 昭和の電車 改訂版(115)ー南海電鉄モニ1045号ー 昭和の電車 改訂版(88)ー相模鉄道クハ1110型ー 昭和の電車 改訂版(74)ー宮崎交通チハ101型ー 昭和の電車 改訂版(68)ー京成電鉄モハ109号ー 昭和の電車 改訂版(54)ー京浜急行デハ230型ー 昭和の電車 改訂版(47)ー西鉄モ500型ー 昭和の電車 改訂版(6)近鉄800系
どなたからもコメントがないので製造者責任でひとつ。 新幹線が開通したのは昭和39年10月。この年あこがれのDRFCに採用試験に合格し入会が許されました。直後の夏休みに招集がかかり、新幹線の試乗会に参加しました。どういういきさつで、どこからどこまでだったかなどは覚えておりません。当時の会長でおられた無印不良品さんや副会長の大阪通信員さんなら覚えておられるはずです。途中、誰かが非常ボタンを押したので急停車した事件がありました。 返信 ↓
米手様 私のDRFC時代の新幹線の思い出は、学生服を着て車内でのアンケート調査のアルバイトをしたことです。東京へ1往復し、折り返しの東京駅では総合指令所に入れてもらって、東京・新大阪間の全列車の運転状況が壁いっぱいに広がる線路配置図に表示されている光景に圧倒されたという経験です。あのとき誰が一緒だったかなどすべて記憶のかなたに吹き飛んでいますが、指令所の光景だけが印象に残っています。 返信 ↓
西村雅幸さま 小生も一緒でしたが、失礼ながら西村さんが居られたことは失念しておりました。他にはプルプルさん、F本さんが一緒だったと思います。まだ数名居られたような気がしますが忘却の彼方です。 新幹線の運転指令は壮観でしたね。今思うと、調査元の大鉄局の方がおられたとはいえ、よく許可が出たものと思います。 憶えておられますか、帰りの時刻になっても、ひとり都電を撮りに行かれたF本さんが四谷署にパクられ、皆で間に合うかどうかヤキモキしたことを。当時は学生運動華やか?なりし頃ゆえ、学生服を着て都電を撮りながら四谷署の前を通りかかったところを引っ掴まったということでした。身分証明確認のため、署から大鉄局の方に照会電話があり、晴れて無罪となってギリギリ帰りの新幹線に間に合いました。しかしフィルムは没収、後日F本さんは「ええ加減な現像をされたので折角の都電が台無しや!」とオカンムリでした。 返信 ↓
ご指名がありましたので、なんか書かんとアカンかなぁ~と思ってるものの、新幹線の試乗会のこと、乗ったのは確か京都・米原間だったと思いますが、どこからどういう経緯で試乗のお誘いを受けたのか等は申し訳ないけどほとんど記憶に残っておりません。 小生もともと「記憶」にはあんまり自信がないこともあり、半世紀以上も前のこと故、もうよろしおっしゃろー!カンニンしとくりゃす。 返信 ↓
証言、ありがとうございます。 私の記憶もあいまいなので、夢幻のごとくなり、かと疑っておりました。しかし、夏休み中なのに多数乗っていたように思います。 西村さんの「総合指令所」潜入は驚きですね! 所在地すら秘密と言うではありませんか。貴兄の口の堅さは証明されました。 返信 ↓
小生の中での新幹線は、正しくそれまでの鉄道とは全く『別物』でした。 開業前のフレコミでは、交流25,000ボルト、軌間は広軌、速度は200キロオーバー(当初210キロ?)の別格路線で、心躍る思いだった記憶が残っております。 ところが、1962(昭和42)年10月1日の開業が近づくにつれて、遊園地を連想させる丸マッチイ団子鼻と、それを先頭にした長~い円筒形の編成の画一感に、興味が萎えるのを感じたものでした。 小生に限って言えば、その感想は開業前に東京運転所を訪れた際には『確定的』となってしまった記憶があります。 もとより小生は『只の電車ファン』に過ぎず、メカや運行に明るく無かったのがイケなかったとも言えましょう。 従って、開業初日の取材も熱が入らず意外とク―ルに過ごし、ごった返しているであろう東京駅には目もくれず、新横浜での撮影でお茶を濁す有様でした。 その後も私の新幹線への興味は盛り上がらず、いざ乗って見ると『風の如く』疾走するばかりで、『列車の旅』は『人間のベルトコンベアー輸送』と成り下がり(?)大いに落胆したものです。 疾走が旨の新幹線車輛とあっては、鉄道ファンを標榜していた小生も『お手上げ』で、右に左に『飛んでゆく』『ひかり・こだま』では車両を観察するどころの騒ぎではありません。 駅での風景も全く様変わりしていて、『こだま』が退避する中、その向こう側を高速でサーッと通り過ぎる『ひかり』の姿は忍者の如く、もはや車両観察は不可能! その後、当初投入された車両は何時の間にか『0系』と呼ばれるようになり、『100系』『200系』『300系』へと続いたが、これ以降の各形式には極端な流線形が採用される事と成り『かものはし』や『いるか』を思わせるデザインが主流となっており、ロートルの小生にとっては『何をかイワンや』状態となっている。 以上、正しく勝手気ままな『言い放題』で、あるいは差し障りのある方々も居られるでしょうが、ジジイの独り言とお聴き流し頂ければ幸いです。 返信 ↓
河 昭一郎さん 貴重な写真とコメントをありがとうございます。 開業前の新横浜駅ですか?岐阜羽島と共に畑の中の田舎駅でしたね。 ところで大河ドラマで「青天を衝け」が始まりました。主人公の「渋沢栄一」は多くの会社・病院・学校を作りましたがその中に「同志社」と「汽車製造会社」があります。1枚目の写真に写っている0系に「汽車会社」と書いてあるので思い出しました。 返信 ↓
お畏れながら申し上げます。 開業当日と言うことは昭和39年10月1日ですか? では1964年ですね。 この年は東京オリンピックの年で、私が同志社大学へ入学した年ですからこれだけは間違えません!(キリッ) 返信 ↓
田野城 喬様 うわ~っ。 大間違いっ! 普通なら文章の5行目を見たとたん、『1962年とちゃいまんがナ!1964年でんがナ!』と即座に『さんま』風の訂正をしたでしょう。 貴殿がワザワザ『開業前の新横浜駅ですか?』と言うて、ヒントをくれてはるのに、『??、変な事ゆうてはんなぁ』と、未だ『気ィつかへん』とは! しかし、小生もいよいよモウロクのボケ老人かぁ~。 2年もの年のズレに気付かないとは! その上、『1962(昭和42)年10月1日の開業が近づくにつれて』などと、もう無茶苦茶。仮に1962年としても昭和は37年になるでしょうに。 返信 ↓
河 昭一郎さん お気になさるな。元号と西暦の換算間違いはよくあることで、決して「ボケ老人」などではございません。 それより私と田野城氏を間違えるとは、この方が問題ですよ!見てくれも私はこんなに細面で背が高いのに比べて、彼はズングリムックリの鈍足です。たしか生まれてこの方前屈で手が地面に付いたことが無いと聞いています。今後「平成20年に太平洋戦争が終わった」と書かれることがあっても私と“小学校以来マラソンを完走したことがない”彼を間違えることだけはプライドが許しません!のでご勘弁願います。
どなたからもコメントがないので製造者責任でひとつ。
新幹線が開通したのは昭和39年10月。この年あこがれのDRFCに採用試験に合格し入会が許されました。直後の夏休みに招集がかかり、新幹線の試乗会に参加しました。どういういきさつで、どこからどこまでだったかなどは覚えておりません。当時の会長でおられた無印不良品さんや副会長の大阪通信員さんなら覚えておられるはずです。途中、誰かが非常ボタンを押したので急停車した事件がありました。
米手様
私のDRFC時代の新幹線の思い出は、学生服を着て車内でのアンケート調査のアルバイトをしたことです。東京へ1往復し、折り返しの東京駅では総合指令所に入れてもらって、東京・新大阪間の全列車の運転状況が壁いっぱいに広がる線路配置図に表示されている光景に圧倒されたという経験です。あのとき誰が一緒だったかなどすべて記憶のかなたに吹き飛んでいますが、指令所の光景だけが印象に残っています。
西村雅幸さま
小生も一緒でしたが、失礼ながら西村さんが居られたことは失念しておりました。他にはプルプルさん、F本さんが一緒だったと思います。まだ数名居られたような気がしますが忘却の彼方です。
新幹線の運転指令は壮観でしたね。今思うと、調査元の大鉄局の方がおられたとはいえ、よく許可が出たものと思います。
憶えておられますか、帰りの時刻になっても、ひとり都電を撮りに行かれたF本さんが四谷署にパクられ、皆で間に合うかどうかヤキモキしたことを。当時は学生運動華やか?なりし頃ゆえ、学生服を着て都電を撮りながら四谷署の前を通りかかったところを引っ掴まったということでした。身分証明確認のため、署から大鉄局の方に照会電話があり、晴れて無罪となってギリギリ帰りの新幹線に間に合いました。しかしフィルムは没収、後日F本さんは「ええ加減な現像をされたので折角の都電が台無しや!」とオカンムリでした。
1900生様
言われてみれば、確かにF本氏の事件がありましたね。その後BOXで大いに話題になりましたね。もう半世紀も前の遠い昔話になりました。
ご指名がありましたので、なんか書かんとアカンかなぁ~と思ってるものの、新幹線の試乗会のこと、乗ったのは確か京都・米原間だったと思いますが、どこからどういう経緯で試乗のお誘いを受けたのか等は申し訳ないけどほとんど記憶に残っておりません。
小生もともと「記憶」にはあんまり自信がないこともあり、半世紀以上も前のこと故、もうよろしおっしゃろー!カンニンしとくりゃす。
証言、ありがとうございます。
私の記憶もあいまいなので、夢幻のごとくなり、かと疑っておりました。しかし、夏休み中なのに多数乗っていたように思います。
西村さんの「総合指令所」潜入は驚きですね!
所在地すら秘密と言うではありませんか。貴兄の口の堅さは証明されました。
小生の中での新幹線は、正しくそれまでの鉄道とは全く『別物』でした。
開業前のフレコミでは、交流25,000ボルト、軌間は広軌、速度は200キロオーバー(当初210キロ?)の別格路線で、心躍る思いだった記憶が残っております。
ところが、1962(昭和42)年10月1日の開業が近づくにつれて、遊園地を連想させる丸マッチイ団子鼻と、それを先頭にした長~い円筒形の編成の画一感に、興味が萎えるのを感じたものでした。
小生に限って言えば、その感想は開業前に東京運転所を訪れた際には『確定的』となってしまった記憶があります。
もとより小生は『只の電車ファン』に過ぎず、メカや運行に明るく無かったのがイケなかったとも言えましょう。
従って、開業初日の取材も熱が入らず意外とク―ルに過ごし、ごった返しているであろう東京駅には目もくれず、新横浜での撮影でお茶を濁す有様でした。
その後も私の新幹線への興味は盛り上がらず、いざ乗って見ると『風の如く』疾走するばかりで、『列車の旅』は『人間のベルトコンベアー輸送』と成り下がり(?)大いに落胆したものです。
疾走が旨の新幹線車輛とあっては、鉄道ファンを標榜していた小生も『お手上げ』で、右に左に『飛んでゆく』『ひかり・こだま』では車両を観察するどころの騒ぎではありません。
駅での風景も全く様変わりしていて、『こだま』が退避する中、その向こう側を高速でサーッと通り過ぎる『ひかり』の姿は忍者の如く、もはや車両観察は不可能!
その後、当初投入された車両は何時の間にか『0系』と呼ばれるようになり、『100系』『200系』『300系』へと続いたが、これ以降の各形式には極端な流線形が採用される事と成り『かものはし』や『いるか』を思わせるデザインが主流となっており、ロートルの小生にとっては『何をかイワンや』状態となっている。
以上、正しく勝手気ままな『言い放題』で、あるいは差し障りのある方々も居られるでしょうが、ジジイの独り言とお聴き流し頂ければ幸いです。
もう一枚写真を。
データは、先の写真:1962年6月21日 東京運転所(左26-29 右22-14)
今回分:1962年10月1日 新横浜
河 昭一郎さん
貴重な写真とコメントをありがとうございます。
開業前の新横浜駅ですか?岐阜羽島と共に畑の中の田舎駅でしたね。
ところで大河ドラマで「青天を衝け」が始まりました。主人公の「渋沢栄一」は多くの会社・病院・学校を作りましたがその中に「同志社」と「汽車製造会社」があります。1枚目の写真に写っている0系に「汽車会社」と書いてあるので思い出しました。
田野城 喬様
いえいえ新横浜は開業初日、当日のショットです。
小生にしては『目論み通り』のゆったり撮影でしたヨ。
お畏れながら申し上げます。
開業当日と言うことは昭和39年10月1日ですか?
では1964年ですね。
この年は東京オリンピックの年で、私が同志社大学へ入学した年ですからこれだけは間違えません!(キリッ)
田野城 喬様
うわ~っ。 大間違いっ!
普通なら文章の5行目を見たとたん、『1962年とちゃいまんがナ!1964年でんがナ!』と即座に『さんま』風の訂正をしたでしょう。
貴殿がワザワザ『開業前の新横浜駅ですか?』と言うて、ヒントをくれてはるのに、『??、変な事ゆうてはんなぁ』と、未だ『気ィつかへん』とは!
しかし、小生もいよいよモウロクのボケ老人かぁ~。
2年もの年のズレに気付かないとは!
その上、『1962(昭和42)年10月1日の開業が近づくにつれて』などと、もう無茶苦茶。仮に1962年としても昭和は37年になるでしょうに。
河 昭一郎さん
お気になさるな。元号と西暦の換算間違いはよくあることで、決して「ボケ老人」などではございません。
それより私と田野城氏を間違えるとは、この方が問題ですよ!見てくれも私はこんなに細面で背が高いのに比べて、彼はズングリムックリの鈍足です。たしか生まれてこの方前屈で手が地面に付いたことが無いと聞いています。今後「平成20年に太平洋戦争が終わった」と書かれることがあっても私と“小学校以来マラソンを完走したことがない”彼を間違えることだけはプライドが許しません!のでご勘弁願います。