昭和の電車 改訂版(74)ー宮崎交通チハ101型ー

初回の投稿時(2012年9月)に“須磨の大老”こと湯口徹先輩から写真と詳しい解説文が寄稿されています。

宮崎交通チハ101~103


読み返してみて、つくづく我々は偉大な先輩を持っているのだと感銘を受けます。あらてめて湯口先輩のご回復を神に願わずにはおられません(側聞しますと、徐々に回復の兆しありとのことです)。

前回のキハ44000型(キハユニ15、16)は久しぶりに盛り上がりました。やはり国鉄ものは人気があると感心します。でも、さすがに宮崎交通の「チハ」の写真を持っている方はいないでしょうから(案外デービス氏が撮っていたりして!)「二匹目のドジョウ」をねらって、キハ40000型(系)の写真をみせてください。国鉄での型式も多岐に亘りますし、私鉄への譲渡車、私鉄独自の派生車、改造車など思いもかけない珍品が存在するのではと思って待っています。

20 thoughts on “昭和の電車 改訂版(74)ー宮崎交通チハ101型ー

  1. 米手作市様
    キハ40000型30両のうち、15両は戦時中に外地に供出され、2両は戦災で廃車。戦後まで生き延びたのは13両でした。国鉄籍で生き永らえたのはキサハ041,042になった2両だけで、それも昭和41年には姿を消しています。従って昭和9年生まれのキハ40000時代の写真を撮られている方はデジ青世代にはおられないでしょう。第二の余生を私鉄で過ごしたのは、今回の宮崎交通が3両、一畑立久恵線、南部鉄道が各2両、常総筑波、岩手開発、北陸が各1両でした。一方自社発注の準キハ40000型は10両あり、博多湾鉄道と耶馬渓鉄道が各4両、留萌鉄道と常磐炭鉱が各1両でした。さすがに私は国鉄時代のキハを見る機会はなく、かろうじて常磐炭鉱から岡山臨港に転じてキハ1003を撮ったのが唯一です。昭和52年9月の撮影です。のちに岡山から御坊(紀州鉄道)に移っているので、紀州時代の姿は以前登場しましたね。二匹目のドジョウにはなり切れず、メダカぐらいですが悪しからず。

  2. 西村さん、
    ゴメンナサイ!キハ40000型(系)と言ったのはキハ04、05、06などを含みます。だからたくさんの写真が出てくるのではと思うのです。
    たとえば・・これなどのように
    どこかわかるかな?

    • 米手作市様
      キハ40000には改造車などの珍品は無いのですが、41000系なら範囲がグッと拡がります。
       謎かけの方ですが、ヒ662とC12167となれば加古川だと思われます。ヒの特徴ある「大」の字もそれを裏付けています。ヒ662は昭和33年に後藤工場でワム3500形10754を種車にして改造されています。側面にある構内手が飛び乗る踏板部に低い手すりがあるのが、後藤工場改造車のスタイルだそうです。加古川線管理所にはC12やキハ06が配置されていました。構内手の麦わら帽子・脚絆姿が懐かしいですね。手前にチラッと写っているのは手小荷物を運ぶ運搬車でしょう。その運搬車を吊り上げてホーム間を移動するテルファも今では見られなくなりました。まさに昭和の風景ですね。

    • 米手作市様
      これは難問です。キハ06114の最終配置区は名寄です。昭和41年3月31日に廃車されています。北海道にいるのはキハ05だと思い込んでいましたが、06もいたのですね。うしろに写っているオジサンは麦わら帽の夏姿ですが、台車にはスノープローがついています。またジャンパ連結器があるのも珍しいですね。改めて調べてみると、キハ06のうち100番代は総括制御可能な改造が施されたものでした。単車で走るときは機械式、液体式キハと連結する際にはキクハとなったようです。その頃の名寄にはキハ22の他キハ07やキハ03もいたようです。2個エンジン車にキクハならわかりますが、キハ22にキクハをつないだら、オーバーヒートしてしまいそうな気がします。ということで、自信ははありませんが、名寄と推測致します。

  3. いつも楽しみにDRFCを拝見している部外者の者です。地方私鉄が好きで、特に父の実家のある大分の大分交通・耶馬渓線には思い入れがあり、紀州鉄道に残っていたキハ603、604にもよく乗りに行きました。耶馬渓線の跡はサイクリングロードとして残っているのは有名ですが、車両の方も部分廃止後の全車両が保存され、前述の紀州鉄道の2両の他、静態保存ではありますが、中津市の国道沿いの民宿にキハ601、602とキハ102、104が現在も良好な状態で使われています。(先日もキハ104、キハ602の移設が行われました)このほか九州鉄道由来の単車ホハフや台湾のSLもあります。中でも今回の宮崎交通のチハと形態がよく似た(キハ40000よりも幕板寸法が広く、やや不格好ですが・・・)キハ102、104の2両は戦前製のガソリンカーを今に伝えるとても貴重な文化財級の存在だと思います。(エンジンは取り外されていますが、動台車側のパーツもきれいに残り、私が訪れた際は床下にもぐることもできました)
    この汽車ポッポ民宿(この言葉で検索をかけるとヒットします)は現在も盛業で、民宿内には確か「耶鉄 柿坂」付近のジオラマまで再現されていたように思います。
    サイクリングロードはマスコミにも時々、取り上げられているように思いますが、キハ4両も産業遺産としてとても貴重なものであるにも関わらず、あまり取り上げられることがないように思います。貴重な国鉄キハ40000系の話題に便乗してお便りさせていただきました。
    横浜の奈木野(なぎの)

    • 奈木野昌一様、
      横浜からありがとうございます。
      私個人は九州の私鉄にはご縁がありませんでしたが、紀州鉄道はよく乗りましたし、親しみがあります。
      保存されているキハの姿は見たいものです。
      これからもご愛顧お願い致します。
      なお、このご投稿は関三平先生も楽しみにご覧です。

    • 奈木野昌一様
      デジ青をご覧頂き、ありがとうございます。もう17年も前のことになりますが、耶馬渓線の廃線跡を訪ね、汽車ポッポ食堂を探してキハ104等を撮っています。随分荒れた状態でしたが、今も健在なら何よりです。

  4. Davisさんは、福岡より南へは行ったことがありません。ご期待に応えられず申し訳ない。代わりに、キハ40000形の、珍しい記録があるので、お目に掛けます。伊藤東作さんが、昭和10年3月23日に、磐越西線の喜多方で撮影されたもの。キハ40014に連結されているのは、ホハ2302です。戦前発行の鐵道趣味第23号に掲載された、「上野より上野ゆき 早春の賦」と云う記事中で、発表の写真です。いくら「ホ」級の客車でも、一軸駆動の気動車で牽っぱれるもんなんでしょうか?! 記事中にも「こんな客車を無理に引かせるから、エンヂンが焼けるのでせう。」と書いてありました。戦後のDC全盛時代でも、貨車牽引は一部にあったが、客車を牽いた例は、鍛冶屋線だったかの写真を見たことしかありません。北海道で、DC列車編成中に、寝台車(客車)を組込んだのは、別とします。

    • おでこにあるのはラジエーターですか?これは客車牽引用に特設したのでしょうか?客車の方がデカそうに見えます。

      • おっしゃる通り、ラジエーターです。製造当初は床下にあったが、冷却効果を上げる為、妻面上部へ移したのです。キハ40000のエンジン冷却能力は元々不足していたらしく、客車牽引用に特設した訳ではないかも。しかし単車で不足していたら、客車などとても牽けないでしょう。だが写真では、木箱のようなもので、囲われているように見えます。凍結防止なのでしょうか?、だとしたら皮肉なものですね。車長はキハが11.5mに対し、客車は16.9mですので、客車の方がデカいです。この客車もとは、関西鉄道が自社の四日市工場で明治40-42年に製造した498-512号のうちの一輌で、国有後は、ホハ6710形式を経てホハ2300形式となったものです。撮影時には明治の客車は、結構な骨董品だったことでしょう。

  5. 米手さまのご指示に従い、更に「ドジョウ」を放出します。キハ40004号で
    すが、撮影者、場所、日時が全て不明の、やっかいな写真です。塗色が塗分けではないので、極く初期、製造された昭和9年か、その翌年に撮られたものでしょうか。車番の40004は読み取れるが、所属標記までは読めません。40004号は、戦後最後まで残ったキハ40000の2輌のうちの1輌で、最終的にキサハ04 1となりました。付随車となった後は先ず大宮の所属で、川越線で働いたと云うことなので、改造前も関東周辺に居たのかもしれません。

    • さすがのDRFC探偵団もこの場所や時期を特定するのは難しいと思います。しかし、全くないだろうと思っていたキハ40000型の写真が、これほど出てきたのには感激です。こういった機会がなければ日の目を見なかったかも知れませんので、皆様、とりわけ宮崎繁幹様には感謝申し上げます。
      余談ながら、「どじょう」といわれると駒形にあった「駒形どぜう」を懐かしく思い出します。

      • なんと感謝なんて、トンデモナイ!米手さまの軽妙なお誘いに乗せられたのと、お題が「宮崎」交通だったので、ちょいと張り切ってしまっただけです。デジ青の皆様を差し置き、しゃしゃり出て申し訳ない。同志社の友愛精神に鑑み、お許しください。でも懲りずに、もう少しドジョウを探してみましょう。

  6. 証文の出し遅れも良いところですが、宮崎交通チハの写真があったので、貼っておきます。米手さまの「でも、さすがに宮崎交通の「チハ」の写真を持っている方はいないでしょうから」の挑戦を受けて立ち、探しまくった結果、発見しました。その間に、快速デジ青号は、遥か先まで走っていってしまったと云う訳です。と云うのは嘘で、D51499の写真を探していたら、偶然気がついたのでした! 撮影者、日付、場所が不明の三重苦写真だが、場所は背景から南宮崎でしょう。時期は昭和30年か、もうちょい前かもしれません。2連のように見えるが、ジャンパ線がないようだし、総括制御はできない筈ですが。それともベテラン運転士さんを各車に乗せ、意気を合わせて運転したのだろうか?。 謎です。

    • 宮崎繁幹様
      いつもながら、貴重な写真を拝見させて頂きましてありがとうございます。このような地方私鉄の、それもかなり以前の一時期しかなかった車輌を撮っておられるのは感銘を受けます。湯口先輩が投稿の中で書いておられるのを転載します。
      「車体全長に渡って屋根上に逆L型アンテナ(歳が分るが)が張ってあり、走行中ずっとラジオが流され放しだったのは、当時として大サービスなのだが、勿論真空管式ラジオ受信機である」これがよく解ります。

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