やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑨

後藤寺機関区

後藤寺は、前稿で、おとりんさんが訪ねた日田彦山線の途中にあった駅で、ここから後藤寺線、糸田線が分岐していました。当時の鉄道路線図を見ても、密集した筑豊の路線網の中央部にあっただけに、石炭一色のような駅で、また近くの香春岳などから産出される石灰岩輸送の中継地でもありました。筑豊の“裏口”のような、ディープさの伝わる駅で、まさに「後」の持つ区名板がぴったりの雰囲気を持っていました。配置されていた蒸機は、言うまでもなくキュウロクで、あとは支線区で旅客列車を牽いていたC11が配属されていました。扇形庫もない、小規模な機関区でしたが、直方からは、蒸機が無くなったあとも存続し、行橋区とともに昭和49年まで蒸機の配置があり、筑豊最後の蒸機として、社会人になってからも何度か行くことが出来ました。

先般、たまたま後藤寺を40数年ぶりに訪ねる機会がありました。いまは「田川後藤寺」と市名を冠した駅名に改称され、JR日田彦山線、後藤寺線と、平成筑豊鉄道糸田線が分岐しています。もちろん機関区は、跡形も無くなって、当時は晴れていてもドス黒い煙に空が覆われていたのが、何とも青空のまぶしい駅前になっていました。

後藤寺~起行の中元寺川鉄橋の前後には20‰勾配があり、手近な撮影地となっていた。船尾からで産出されるセメントの輸送もあって、多くの蒸機列車があった。ただ訪れたのは真夏のカンカン照りで、貨物量も少なく、スカスカの煙だった。機号不明(昭和49年8月)後藤寺機関区は、木造3線の矩形庫のコンパクトな構内で、模型を見るような雰囲気だった。給炭はクレーンを使っていた。29692は行橋区の所属。(以下、特記以外は昭和43年3月)

日田彦山線の貨物を牽く29602 デフなし、化粧煙突と後藤寺区の代表的スタイルだが、ランボードが一直線で空気溜めを上に置いている。 後藤寺 同じく29602を公式側から見る 直方 昭和43年3月直方での生活が長く昭和48年に後藤寺に来た29641 煙突の継ぎ足しがなく、原型の煙突を持つ貴重な蒸機 昭和49年まで働き、門鉄局で最後まで残った蒸機の一両だった。後藤寺 昭和49年8月田川線油須原駅を発車した29651の牽く石炭列車。田川線経由の石炭は、苅田港まで行き、船で送られる。(昭和48年8月)中間駅を通過して、筑豊本線の複々線区間に入る29651(昭和45年8月)石灰岩を積んだセキを牽き逆向運転の重連で後藤寺に着く 先頭29695 後藤寺~起行 (昭和49年8月)

29695の公式側 一直線のランボード上に圧縮機、空気溜めを置いたスタイル 行橋(昭和49年8月)

公式側、非公式側、39671の両面を見る。典型的な筑豊の9600スタイル、下関、門司を経て、後藤寺に来たが、昭和43年には廃車されている。昭和43年3月折尾~中間を行く 49675の牽くセメント列車広い船尾駅で貨車の入換に励む49675 石灰岩、セメントの積出し・中継駅として多くの側線があった。今は、麻生セメントのプラントが残るものの、駅は側線がすべて撤去されて、無人の棒線駅になっている。(昭和49年8月)糸田線の5592レ 石灰岩を満載したホキを牽く49675 糸田線は、後藤寺から筑豊本線への短絡線としても活用されていた。同機は、新津、東新潟から後藤寺に来た。後藤寺~糸田 (昭和49年8月)中間~筑前垣生の大カーブを行く69642 旅客列車を牽いて田川線崎山~油須原を行く69642 K-7型の切取式デフを装備している。昭和48年8月昭和42年3月に訪れた時には、後藤寺には無縁のはずのC55 55がいた。稼働機ではなく、代用ボイラーとして使われていた。もともとは廃車後に鳥栖区で代用ボイラーとして使われていたが、のちに後藤寺に貸し出された。ボイラーのため、燃料の石炭が必要になるため、ときどき写真のようにほかの蒸機に押されて、給炭台まで動いて、煙突から煙も吐いていた。C11も昭和43年3月当時、4両が配置されていて、付近の旅客列車を牽いていた。キリ番のC11 100もいた。後藤寺

8 thoughts on “ やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑨

  1. 総本家青信号特派員様
    このシリーズを楽しんで拝見しています。私も一度だけ昭和49年3月に後藤寺、船尾、油須原を訪ねました。貨物のダイヤも良くわからず、手元に詳しい地図も無い状態の 出たとこ勝負の撮影行でした。案の定 まともな写真は殆ど撮れませんでした。多分中元寺川鉄橋に向かう築堤だと思われますが、いきなり96の重連回送が来て
    慌てて撮った記憶があります。蒸機の活躍が見られるのもこれが最後だと思って九州を早回りして、学生時代を終えました。

    • 西村様
      コメント、ありがとうございます。私も昭和49年夏に後藤寺、油須原へ行っています。たぶん、筑豊の蒸機がこの年の秋で終わると聞いて行ったと思うのですが、記録・記憶ともいい加減で、一行の原稿を書くのにも苦労しました。グーグルマップの航空写真を見ながら、当たりを付けていました。でも“デジ青”に書かなかったら、一生不明のまま終わっていたかと思うと、苦労して連載する意義を感じています。

  2. 総本家青信号特派員先輩 冒頭にご紹介ありがとうございます。先日田川後藤寺駅で列車を待っていたら自分が乗る後藤寺線、日田彦山線の上下線、平成筑豊鉄道糸田線の金田行、なんと4本の列車が停車していました。瞬間昭和の後藤寺駅にタイムスリップ・・・ただ乗客はほとんど見当たりませんでしたが。
     話それますが2016年3月に伊加利の2本煙突 を掲載させていただいています。伊田駅近くの有名な2本煙突とは別に三井鉱山伊加利鉱竪坑にあった2本煙突.伊田駅から専用線もありました。もう一度ご覧いただければ幸いです。

    • おとりん様
      地元からのコメント、ありがとうございます。伊加利の情報、もう一度、2016年の投稿を見ました。私もコメントを入れていたのですね。伊田からナローの専用線が出ていたとか、まだまだ筑豊には知られざる専用線があったことと思います。それにしても、裏寂れた、典型的な筑豊ワールドの後藤寺でしたが、明るく、ある意味どこでも見られる街になっていました。

  3. 総本家青信号特派員様
    中元寺川を渡る9600の写真、季節感があふれる素晴らしい作品ですねぇ。白い半ズボンをはいた少年の、麦わら帽子に遠い日が思い出されます。拡大して、いつまでも見ていたい一枚です。ありゃっ、前の方にも麦わら帽子の少年、いや、こちらはおっさんでしょうか。カメラを構えているようです。
    私は昭和48年8月に訪問しましたが、暑さと運休の多さに辟易し、一枚撮っては後藤寺駅へ戻って冷たいジュースを飲み、一休みして中元寺川へ歩くことを繰り返していました。お盆を過ぎた頃で、川べりにはお供え物の野菜がいくつも置いてありました。京都では見られない異様に長いナスに驚いたことを、昨日のことのように覚えています。

    • 紫の1863様
      中元寺川へも行かれたのですか。私が行ったのは、その翌年の昭和49年でしたが、この時もカンカン照りの日でした。私も、何を飲んだかは記憶に無いですが、その頃ですから、“ファンタ”あたりをガブ飲みしていたと思います。前の二人は、ともに撮影していたのでしょう。当然“どけーっ”と心の中では叫んでいたと思いますが、今となっては、当時の世相がよく分かります。

  4. 後藤寺駅のスタンプに「炭坑節発祥の地」とあり、盆踊りの人物の背景には、ボタ山と二本の煙突から出る煙が月を隠すデザインがあしらわれています。京都では♫三池炭鉱の上に出た~と歌われていましたので、当時は疑問に感じたものです。

    • この煙突は、別項で、おとりんさんが紹介してくれた伊田駅近くの有名な二本煙突ではないでしょうか。炭坑節のルーツについては、諸説あるようです。

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