やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑮

鹿児島機関区(2)  C61

九州では唯一の配置となるC61でした。昭和24年に九州に配置されて以来、6両が揃って鹿児島本線全線電化まで働き続けました。C61は、戦後の旅客用蒸機の不足を補うため、戦時中の大量増備で余剰気味となった貨物用D51のボイラ、台枠をそのまま使って、下回りはC57と同じものを新製して組み合わせたもの。1号機が昭和22年に改造され、22両が昭和23年までに造られました。C60、C62も同様の改造で生まれていますが、数字の並びから、C60が最初の改造に思われがちですが、C61が戦後すぐの改造で、C60は、それから6年経過してからでした。鹿児島機関区でハドソン2形式が顔を揃える。C61 33 C60 34 いずれもヘッドマークを取り付けるステーが見える。C61のナンバープレートの取付位置が高いため、正面からの印象は、C61のほうが腰高の印象がする(昭和42年3月)。

九州へのC61の配置は昭和24年で、12、13、14、31、32、33の6両が鳥栖に配置されて、門司~鳥栖~熊本で旅客列車を牽引した。その後、そろって鹿児島区へ転属し、線路等級の低い鹿児島本線南部での活躍を開始した。昭和33年10月改正で、初めての鹿児島~東京の寝台特急「はやぶさ」が誕生、初日はラストナンバーのC6133が牽引した。牽引区間は門司までの394kmで、途中、乗務員の交代、給水はあったが、単機で走り通した。この距離は、東北本線での上野~仙台、仙台~青森の蒸機牽引よりも長い。C61による「はやぶさ」牽引は、昭和35年まで続き、蒸機単一形式としては寝台特急牽引としては最長期間だった。隈之城~木場茶屋を行く127レ C61 13の牽引 鹿児島工場製の切取り式デフを取付けていて、C61としては唯一の機となる(昭和45年8月)。

 

▲▲鹿児島機関区のC61 13 検査中で給水温め器が取り去られている(昭和43年3月)。

 

 

機関区内のC61 14 C61のうち、2~17は、昭和22年式の天地200mmのプレートに、戦前の天地230mm用の英数字を鋳込んでいるため、周囲にアキのない詰まった感じのプレートになっている(昭和43年3月)。

 

 

 

阿久根で交換の熊本行き132レ 牽くのはC61 31 列車を待つ人の服装、ホーム上の荷物も、その当時らしい(昭和45年8月)。

鹿児島駅を発車する鳥栖行き134レ  ▲▲広木(信)~上伊集院のトンネルを出る127レ いずれもC61 31の牽引(昭和43年3月)

 

夕方の西鹿児島駅、多くの通勤客が待ち受けるなか到着した226レ ▲▲牽引機のC61 33を見る。

 

 

C61 32  ▲▲ C61 33  C61のテンダーはD51流用のため、後部に切れ込みがある。これもC60との区別ポイント。上伊集院~薩摩松元を行く、ラストナンバーC61 33の牽く127レ  C 61については、鹿児島本線から撤退後、突然、奥羽本線のC61が日豊本線に転属することもあったが、最初から配属された6両は、一歩も九州から出ることもなく、昭和45年10月の鹿児島本線全線電化まで働き続けた。

11 thoughts on “ やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑮

  1. いつも懐かしい写真に若い日を思い出して、楽しませてもらっています。昭和38年3月、修学旅行で南九州を廻りました。西鹿児島から熊本へ各停に乗りましたが、その牽引機がC6133でした。八代で特急「はやぶさ」と交換時に撮りました。

    • 米手作市様
      C61に牽かれての修学旅行とはうらやましいですね。ところでC61の次位の客車はスハ32でしょうか?スハ32にしてはベンチレータが5個しかないので、オハ31?いやいや台車がTR23のようでオハ31でもないし・・・。

      • 西村雅幸さん
        スハフ32です。反対側の写真を見ると7個あります。セメダインの接着不良で、走行中に脱落したのではないでしょうか?

        • 米手作市様
          スハフ32でしたか。手前側がトイレのようですから車掌室が後方ですね。その分ベンチレータが少ない? 私が修学旅行で沼津から京都まで乗ったのはシングルルーフのスハ32でした。日よけの巻き上げ式カーテンはなく、落とし込まれているよろい戸を持ち上げてはめる方式だったように思います。スハ32ではありませんが、ススよけなのか虫よけなのか、網戸がある客車に乗ったような記憶があるのですが・・・。スハネ30だったか・・・?コロナ騒ぎで今頃になって密閉式の窓が問題になっていますね。ホームで窓越しに駅弁が買えた時代がなつかしいですね。

          • 下降式のヨロイ窓、ではなくガラス窓と同じく上部に格納されているヨロイ窓ではありませんか?記憶では窓とヨロイ窓が上下別々に収納されていないと思います(機構的に複雑になるためか?)。後にそのヨロイ部分に網を張って風通しよくして、ススは入れない網戸にしました。表が見えるので、思わずおでこをすり寄せて、おでこがススで真っ黒になったおぼえがあります。
            今後の客車は窓が開くことに1万ウオン賭けてもいい。

  2. 西村雅幸さん
    と、言いましたが、上下両方格納もあったかも知れません。オハ31の窓は上部収納式ですがヨロイ窓は下部収納式だったような、なかったような。市電の500型は双方下部収納式でしたね。
    どなたか、記憶のはっきりした方の証言をお願いします。

    • 少なくともスハ32は双方とも上部収納式である証拠写真をご覧下さい。タテに二本あるレールは窓とヨロイ窓で、彼が肘を乗せている窓枠には下降窓を収納する隙間はありません。

  3. 西村さん、わかりました!
    ナハ22000などの見たこともない昔車輌は別として、知っている限り古いオハ31の窓も両方とも上部収納式でした。
    写真は同型のオハニ30の車内です。
    でも、子供の頃に乗った客車の窓を下から引き上げて、ツメに引っかけた事も覚えています。

  4. 鹿児島区のC61はまさに待望の新鋭機配属で、エースの活躍だったことがよく判ります。400㌔牽引は、まさに大仕事でタフにハドソンが働いた時代は、蒸気黄金時代の黄昏の前の最高の時間だったと思います。
    こちらに来て、今日豊線の歴史を最研究中です。宮崎に最晩年、数台のC61が奥羽線から転じたことも懐かしい思いです。
    これは地元の人らしい丹念な研究ホームページですが、とても参考になります。

    • K.H.生さま
      遠く大分からのコメント、ありがとうございます。C61による門司~鹿児島の特急牽引は、東海道線だと東京~岐阜に相当する距離です。自動給炭装置が付けられたことも大きいと思いますが、単機でこれだけの距離を走り通すのも、凄いことだと改めて思います。
      ご紹介のサイト、私のテーマの機関区ごとの紹介もされており、参考にさせてもらっています。

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