京阪バスのトレーラーバス

【11106】「『びわ湖の銀嶺へ』/昭和22年12付き26日の新聞広告」で、湯口、沖中両大先輩よりトレーラーバスについての貴重な体験談をコメント戴いた。私自身は写真でしか見たことがなく、戦後の混乱期に大活躍した位の知識しかないが、約30年位前に名古屋大学鉄研OBのO.A氏と一緒に京阪バス本社を訪問した時に見せていただいた資料等で概略が判明したので報告する。本書込みに当ってもO.A氏より多大なご協力を戴き改めて御礼を申し上げる。
昭和26年10月30日時点で次の8組が在籍した。(前がヘッド、後がシャーシ)

1)京滋営業所4組
①滋101+滋126(1947年式定員/81名)→昭和27年3月登録替/滋2-1011+滋2-1012
②京1080+京1081(1947年式定員/82名)→昭和27年3月登録替/京2-20454+京2-20455
③大2301+大2311(1947年式定員/85名)→昭和27年3月登録替/大2-4521+大2-4522
④京1078+京1079(1948年式定員/58名)→昭和27年3月登録替/京2-20452+京2-20453

2)大阪営業所3組
①大2302+大2312(1947年式定員/70名)→昭和27年3月登録替/大2-4523+大2-4524
②京1132+京1133(1949年式定員/63名)→昭和26年11月登録替/大2-4525+大2-4526
③京1134+京1135(1949年式定員/63名)→昭和26年11月登録替/大2-4527+大2-4528

3)観光課1組
京1127+京1128(1949年式定員/63名)→昭和27年3月登録替/京2-20456+京2-20457
京滋営業所の「大ナンバー」、大阪営業所の「京ナンバー」は転属車と推定される。京滋営業所は昭和27年1月組織改正で京都営業所と大津営業所に分かれるが、トレーラーバスは全車大津営業所の所属となった。京滋営業所の①と④以外は昭和27年に廃車や売却で姿を消してしまい、生き残った①と④は昭和31年6月まで使用され10月に廃車となった。昭和25年頃から通常のバスの車体が大型化すると、小回りが利かず走行可能な道路が限定され、かつ運転操作が難しいトレーラーバスは急速に姿を消してしまった。また、昭和25年4月14日に横須賀発三崎行の京浜急行のトレーラーバスが、乗客が投捨てたタバコのマッチが別の乗客が持ち込んだガソリンに引火して火災爆発事故を発生させ、運転士が気付くのが遅れたため多数の死傷者が出たことも廃車を早めた原因の一つとなった。ちなみにこの事故により「道路運送」と「旅客運送」の関連法案が改正され「危険物車内持込厳禁」となった。

ボンネットバス
我々の世代ではトレーラーバスの撮影は無理であるが、ギリギリ間に合った「ボンネットバス」の画像をアップしたのでご覧戴きたい。

枚方営業所
私市駅→八の坪・八の坪→大和田駅のルートで1日3往復運行されていた。八の坪は奈良市に隣接した田原地区の地名である。ワンマン化の時に京阪交野→下田原→山口川→中番→滝寺→逢坂→大和田駅と田原地区を一巡する直通運行に変更された。昭和53年6月から55年3月まで、職場が大和田駅~巣本~門真団地線の途中停留所にあり、気が向いた時に大和田駅18時40分発の京阪交野行きの最終バスに乗り、交野線経由で帰ったりしていた。清滝団地を過ぎると乗客は数人となり、山口川でほぼゼロ、田原地区を一巡後真っ暗な磐船街道を私市駅経由で京阪交野まで走行した。

 


満員で大和田駅に到着、折り返しの八の坪行もほぼ満員で発車した。
大阪22あ1500/40年式BXD30、登録番号が新しい(昭和49年9月登録)のは、大津営業所からの転属車のためで、元は「滋2い875」であった。(50-5-5)

京都営業所
朝夕のみ運行の山科駅~寺内町間で使用されていた。

 
京2い1394/38年式BXD30、車体は帝国自動車工業製
(49-12-19)

 
京2い1396/40年式BXD30、車体は川崎航空機製
(49-12-19)

 
京津線の踏切を渡りバスターミナルに到着。
(50-5-11)

 
事業用となり白ナンバーになった「京22や6」/38年式BXD30、車体は川崎航空機製(
50-3-30/三条京阪)

大津営業所
長等公園~浜大津~国鉄大津駅~朝日ケ丘住宅間と石山駅~大石小学校前~曽束間で使用されていた。

 


滋2い886/40年式BXD30、車体は川崎航空機製
(50-3-9 下50-3-2)


滋2い888/40年式BXD30、車体は帝国自動車工業製 
(50-3-9)

 
滋2い887/40年式BXD30、車体は帝国自動車工業製 
(50-4-20)

昭和51年旅客営業停止後事業用として京都営業所に転属「京22や180」となった。昭和53年3月「京都定観50周年」に際し、「おいでやす京都号」として定期観光用に復活して「京22か1981」に、イベント終了後再度事業用となり「京22や304」に、62年10月に枚方営業所に転属して「京22か4264」となり、京都競馬場開催日に職員詰所として使用。この時は京阪バスカラーに戻っていた。廃車後、愛知県のバス愛好家に引取られ、当初は京阪バスカラーのままであったが、現在は名古屋市バスの旧塗装になり、「ボン太号」の愛称で名古屋地区のイベントに参加し、元気に姿を見せている。10年位前小牧空港から地下鉄藤ヶ丘駅まで乗せてもらったが、車齢30年とは思えないほどよく走った。

 
京22や180 
(52-3-6)

 


京22か1981「おいでやす京都号」
(53-4-29)

京阪バスのトレーラーバス」への8件のフィードバック

  1. 初めてお邪魔いたします。
    【11106】「『びわ湖の銀嶺へ』/昭和22年12月26日の新聞広告」http://drfc-ob.com/wp/?p=11106の記事でご紹介頂きました、「The Present Perfect ~ 京阪バス現在完了形」の運営をさせて頂いている喜撰猿丸と申します。
    時折下らない雑記を挟んだりして、ことば遣いもなっていないのに、「大津地区のバス路線の歴史、変遷を調査、研究されておられる」と、実際以上の紹介をして頂いてしまい、恐縮です。

    大変遅れて失礼ですが、大先輩方のコメントの数々を拝読し、勉強になることばかりでした。今後の調査の参考にさせて頂きます。ありがとうございました。

    戦後の物資不足の時に、トレーラーバスがそんなに走っていたことに驚きました。火災事故が「危険物持ち込み禁止」のきっかけだということも知りませんでした。当時は、バスや電車でたばこを吸うのが珍しくなかったのでしょうか?でも、ガソリンを持ち込んだりするひとがいたのはもっと不思議です。
    京阪バスはかつて「危険物を持ち込まないで下さい」、帝産バスも「危険物の持ち込みは、固くお断り致します」というアナウンスが流れ、誰もそんなもの持ち込まないだろう、と思っていましたが、安全のために本当に大切なことですね。

    私の世代になると、トレーラーバスはおろか、ボンネットバスも生まれるよりずいぶん前にほとんどなくなっており、モノコックのリアエンジンバスがやっと記憶にある程度なので、今回UPされている写真は大変新鮮なものに映りました。
    山科駅や、京阪大和田の雰囲気は今と変わらないですね。却って浜大津の変化の方が激しい事に戸惑います。

    急にお邪魔して長々と失礼いたしました。また楽しみに拝見いたします。

  2.  初めまして。京阪バスの「トレーラーバス」と「ボンネットバス」のお話、大変興味深く読ませていただきました。
     私は、トレーラーバスはもちろん、ボンネットバスが第一線で活躍していた時代にも遅れてきた世代ですが、京阪バス最後のボンネットバスとなった社番1133(→A-5002→C-5002)号には、大変思い入れがあります。私が幼い頃、今は亡き祖父に初めて乗せてもらったボンネットバスが「おいでやす京都号(1978年)」で、初めて自分の小遣いで購入した京都定期観光バスの乗車券が、京阪カラーをまとい再復活したこのバスが担当した世界歴史都市博の臨時コース(1987年)でした。枚方高槻線の沿線に住んでいますので、京都競馬開催日の朝には、枚方から八丁畷に向けて、阪急高槻行きの最新鋭車を軽快に追い越していく光景を見られたことも、今となっては懐かしい思い出です。私がバスファンになる大きなきっかけを与えてくれた車両で、写真を見ると様々なことを思い出しました。
     この場で、私が知らない一般路線バスとして現役だった京阪のボンネットバスの姿を、鮮明な画像と詳しい解説でご披露いただけたことに感謝しています。特に京阪大和田駅での写真については、かつて枚方営業所の車両がここまで足を伸ばしていたという証であり、大阪府下のボンネットバスとしても、他社も含めて最晩年の姿の記録という意味で大変貴重だと思います。
     ところで、トレーラーバスが枚方高槻線に投入されていたとの話を耳にしたことがあるのですが、実際はどうだったのでしょうか。当時の高槻市内中心部は大阪医大北側の道路が開通しておらず、路線バスも昭和40年代前半までは新京町商店街(現在の高槻センター街)を経由していたとのことです。狭隘な区間なので、トレーラーバスが運行されていたとはにわかに信じがたいものがあります。もし、ご存じでしたらご教授いただけますと幸いです。
    今後も貴重な情報に触れられることを期待しています。どうぞよろしくお願いいたします。

  3. 京阪のトレーラーバスの詳細な紹介嬉しく拝見しました。京阪三条駅前で見たと記憶していましたが、老人の妄想かと自信をなくしていたところです。当時の京津道路葉細く曲がりくねっていて真ん中を電車が走っていたので トレーラーバスの運転は大変だったろうと思います。因みにオーバー、防寒帽にゴーグルでもじどおりnakedのトラックをりくそうしているのをみたような気がします。伝聞かも?
    S27年(1952年)に北海道の炭鉱町夕張から京都に行きました。一列車に先駆けてD51に押されて疾走するラッセルのフアンだった私には、夢の都でした。京都駅から北野までの最古のちんちん電車にも早速試乗,手動ブレーキや本線と共有の3本レールに感動。
    4条大宮から西大路マ伝のトロリーバスも試してみました。また面白いニュースを楽しみしています。老人の繰言お許しください。佐藤 拝

  4. 藤本哲男 様
    【2011 年 2 月 16 日 水曜日4:42 AM】投稿分

    初めまして、『ボンネットバス』写真のアップロードありがとうございます。
    私の生まれ故郷、大和田での『八の坪』行きのバスですが、

    懐かしい!!チョー懐かしい!!あまりにも懐かしいです!!
    私が子供時代、朧気ながら記憶にあった風景です。

    『確かボンネットバスの行き先には八・・・なんとかが表示されてたはすだ・・・』
    なんて、何回か思い出しては、検索をしましたが、写真に出会えることは
    ありませんでした。が、たまたま京阪バスを調べていましたら偶然出会えるとは・・・
    横に見える『三和銀行』、奥に見える『パルナス』、大和田駅前のバスターミナル・・・
    全てが懐かしいです。

    私も過去に『磐船街道』を交野駅まで行く路線に乗ったことはありましたが、
    やはり『八の坪』はあそこ経由で走っていたんですね。本当に貴重な情報です。
    今は『磐船街道』を直通する路線は廃止になってしまいましたが、今度、
    『八の坪』バス停跡でも探索してみます。

    本当にありがとうござました。

    • 八の坪は1975年1月2日に行ったことがあります。大和田駅前でボンネットバスと晴れ着を撮ろうとしたのですが、バスが来た時は晴れ着の女性が少なく、がっかりしました。ついでにバスを追いかけて終点の八の坪に行きましたが、農家の庭先にポツンとバス停標識が1本あるだけで、バスはどこかに行ってしまっていました。バス停は「八ノ坪」となっていますね。場所の記憶は全くありません。

    • 写真のバスは全部ボンネットバスです。トレーラーバスは記事のみで写真はありません。

  5. 写真のバスは全部ボンネットバスです。トレーラーバスは記事のみで写真はありません。

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