昭和の電車 改訂版(79)ー南海電鉄モハ1556号ー 投稿日時: 2020年6月3日 投稿者: 米手作市 南海にこんな色の車輌があったのは知りませんでした。 前回は全く反応がありませんでした。やっぱり南海はDRFCの鬼門かと・・・ この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(107)ー京王帝都デハ2118ー 昭和の電車 改訂版(102)ー近鉄モ5621ー 昭和の電車 改訂版(99)ー東急玉川線デハ200型ー 昭和の電車 改訂版(75)ー相模鉄道キハ1000系ー 昭和の電車 改訂版(58)ー南海デニ502号ー 昭和の電車 改訂版(46)ー京阪びわこ号60型ー 昭和の電車 改訂版(3)阪神電鉄3011型 昭和の電車 改訂版(1)大阪市電901
形がよく似た電車の写真があるのですが・・・今回は船で。深日から淡路島洲本へ航海をしていた深日海運のたんしゅう丸の写真があります。夏休み中は淡路島に由良港に寄港していました。海水浴客などが多く乗船していました。写真は由良港で撮ったものです。1970年中ごろに撮影したと思います。もともとは関西汽船の航路と船でした。 返信 ↓
御誂え向きに、Gordon Davis氏のスライドに、この塗色のものがあるので、お目に掛けます。行先札は「難波-和歌山市」のようで、関先生の絵にある急行標識は掲出されていません。間合い運用で各停にも、使用されたのでしょうか。形は南海ですが、色は自由形と云う印象ですね。昭和31年の撮影ですので、塗り替えて登場してから、間もない頃の姿と思います。 返信 ↓
宮崎繁幹さんには私の嘆きに哀れを感じていただき、またデービスさんに助けていただきました。 それにしても昭和31年のカラー写真、国力の差を見せつけられますが、貴重な写真を見せて頂けたのはありがたいことと感謝致します。 返信 ↓
先日の、近鉄6601の時に古い資料を捜していましたら「南海電車」の沿線案内図が出て来ました。車両の話題ではないですがご覧ください。日付は昭和15年4月1日のものです。南海本線・高野線・今の阪堺線が載っています。大阪のターミナルとして、難波・汐見橋それに天王寺があります。 また軌道線には、平野線(今池~平野)や大浜支線(宿院~大浜海岸)も在りますし、どのような意図があったのか分かりませんが、南紀・白浜までの地図も載っています。 返信 ↓
紀勢線乗り入れ(確か戦前からしてましたよね)のためではないでしょうか? 昭和末期の「きのくに」乗り入れ時代の南海車内路線図に新宮まで記載されていたのを覚えています(確か) 勝浦に系列の旅館がありますし、広い意味の沿線なんでしょう 返信 ↓
関三平さんの文で「昭和30年よりこのルートで連絡すべく、」と書かれていて、たんしゅう丸の進水年月日は昭和42年5月13日とあったのでそれ以前はどの船が就航していたかちょっと気になりました。そしてなんで深日ー難波ルートが先に急行運転をしたのか不思議に思っていたのですが・・・我が家にある貴重な船の本「関西汽船の船半世紀」で調べてみると「徳島丸」というのがあり、最初は阪神-徳島航路であったが、洲本-深日航路に配転されたと書かれていました。そして解説文には「深日航路では朝一番の便で、寄港地由良港から大阪市内へ活魚が運ばれていた。それはカンカン部隊と呼ばれる婦人たち。デッキ上にはそのカンカンと呼ばれるブリキの箱が積み上げられる毎日であった。」と書かれてある。そうするとこのカラフルな色をした南海電車は鮮魚列車(行商列車)?難波駅からは黒門市場にカンカン部隊は直行したのでしょう。たしかに鮮度が大切な魚はこのルートが早く、魚を待っているお客さんに早く届けられるのです。納得!南海電車にもあったのか鮮魚列車(行商列車)目撃された方はいらっしゃるのでしょうか? 返信 ↓
そんな映画は知らんので検索すると「かんかん虫は唄う」という題で、「かんかん虫」はドッグ入りした船のサビ落とし人のこと。原作はあの吉川英治。宮本武蔵などを書くと思ったらこんな小説も書いていたとはビックリ。映画は1955年公開ですので知らんのは当たり前! 返信 ↓
形がよく似た電車の写真があるのですが・・・今回は船で。深日から淡路島洲本へ航海をしていた深日海運のたんしゅう丸の写真があります。夏休み中は淡路島に由良港に寄港していました。海水浴客などが多く乗船していました。写真は由良港で撮ったものです。1970年中ごろに撮影したと思います。もともとは関西汽船の航路と船でした。
訂正 「淡路島に由良港に寄港」は「淡路島の由良港に寄港」の間違いです。お詫びして訂正いたします。
御誂え向きに、Gordon Davis氏のスライドに、この塗色のものがあるので、お目に掛けます。行先札は「難波-和歌山市」のようで、関先生の絵にある急行標識は掲出されていません。間合い運用で各停にも、使用されたのでしょうか。形は南海ですが、色は自由形と云う印象ですね。昭和31年の撮影ですので、塗り替えて登場してから、間もない頃の姿と思います。
宮崎繁幹さんには私の嘆きに哀れを感じていただき、またデービスさんに助けていただきました。
それにしても昭和31年のカラー写真、国力の差を見せつけられますが、貴重な写真を見せて頂けたのはありがたいことと感謝致します。
先日の、近鉄6601の時に古い資料を捜していましたら「南海電車」の沿線案内図が出て来ました。車両の話題ではないですがご覧ください。日付は昭和15年4月1日のものです。南海本線・高野線・今の阪堺線が載っています。大阪のターミナルとして、難波・汐見橋それに天王寺があります。
また軌道線には、平野線(今池~平野)や大浜支線(宿院~大浜海岸)も在りますし、どのような意図があったのか分かりませんが、南紀・白浜までの地図も載っています。
これは、いずれ南海も白浜まで路線を延ばす腹なのでは?と勘ぐります。
紀勢線乗り入れ(確か戦前からしてましたよね)のためではないでしょうか?
昭和末期の「きのくに」乗り入れ時代の南海車内路線図に新宮まで記載されていたのを覚えています(確か) 勝浦に系列の旅館がありますし、広い意味の沿線なんでしょう
関三平さんの文で「昭和30年よりこのルートで連絡すべく、」と書かれていて、たんしゅう丸の進水年月日は昭和42年5月13日とあったのでそれ以前はどの船が就航していたかちょっと気になりました。そしてなんで深日ー難波ルートが先に急行運転をしたのか不思議に思っていたのですが・・・我が家にある貴重な船の本「関西汽船の船半世紀」で調べてみると「徳島丸」というのがあり、最初は阪神-徳島航路であったが、洲本-深日航路に配転されたと書かれていました。そして解説文には「深日航路では朝一番の便で、寄港地由良港から大阪市内へ活魚が運ばれていた。それはカンカン部隊と呼ばれる婦人たち。デッキ上にはそのカンカンと呼ばれるブリキの箱が積み上げられる毎日であった。」と書かれてある。そうするとこのカラフルな色をした南海電車は鮮魚列車(行商列車)?難波駅からは黒門市場にカンカン部隊は直行したのでしょう。たしかに鮮度が大切な魚はこのルートが早く、魚を待っているお客さんに早く届けられるのです。納得!南海電車にもあったのか鮮魚列車(行商列車)目撃された方はいらっしゃるのでしょうか?
私がはじめて映画で勝新太郎を見たのは『カンカン虫の唄』でした。
そんな映画は知らんので検索すると「かんかん虫は唄う」という題で、「かんかん虫」はドッグ入りした船のサビ落とし人のこと。原作はあの吉川英治。宮本武蔵などを書くと思ったらこんな小説も書いていたとはビックリ。映画は1955年公開ですので知らんのは当たり前!
忘れていた。勝新のシュッとした男前で、共演の玉緒のかわいらしいこと。ああ~エントロピーは増大していくのであります。
そうか!
『かんかん虫は唄う』でしたか。
子供の頃に見たのでうろ覚えです。『親子鷹』との二本立てでした。